歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

井原西鶴「好色一代男」 淡島寒月所有の1682発刊本が見つかる。紅葉のはがきが添付

2010年03月14日 | Weblog
 今朝(3月14日)の読売新聞朝刊に「紅葉と露伴が愛読『好色一代男』の実物」と題して、明治の文豪、尾崎紅葉(1868-1903)と幸田露伴(1867-1947)らが、友人の淡島寒月(1859-1926)から借り、読みふけった井原西鶴(1642-1693)の『好色一代男』の実物(1962年刊)が見つかったとの記事があった。紅葉が寒月に「西鶴の本はもう少し貸してほしい」と頼んだはがきが添えられているという。
 寒月は日本橋馬喰町4丁目に生まれ、作家、画家、並びに古物収集家であったらしい。
 『好色一代男』の上方版は天和2年(1682)、江戸版は貞享4年(1687)に発刊された。したがって、淡島寒月の所有していた『好色一代男』は上方版である。読売新聞の記事には実物の写真が貼付されており、右に文が左に挿絵がある。挿絵は蒔絵師源三郎といい、また西鶴自筆ともいうとしている。
[参考:読売新聞、goo wikipedia]

「好色一代男」これが紅葉、露伴が読んだ本(読売新聞) - goo ニュース
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小野市・小堀城跡 1辺の長さ約60mの土塁を確認

2010年03月14日 | Weblog
 中世の大規模な平城である小堀城跡(小野市河合中町)で、1辺の長さが約60mにわたる土塁が確認されたことが、市立好古館(同市西本町)の調査で分かった。
 調査によると、南北約60m、北端から西へ約5mと東へ約8m、南端から東へ約10m分を確認。土塁の下部幅約8~10m、上部幅約1~2m、高さ約2・5m。東側をこの土塁で「コの字」で囲んだ部分に城主屋敷を含めた主郭があった可能性があるという。60mの土塁には、南北約20mごとの計2カ所に、周囲より0・5mほど低い場所があることを発見し、上部幅が約1~2mと狭いことから、土塁の低くなった地点で人が防備に当たり、土塁上部は柵で守備をしていたのではとみている。
 この土塁の南約5m地点にも、東西約27m、西端から北へ約8mにわたる別の土塁も発見した。
 好古館によると、小堀城の城域は東西約160m、南北約200mとされ、当時の守護職級の城の規模。構造は明確ではないが、「加東郡誌」などによると、室町時代初めごろに播磨国守護職の赤松氏の一族・三枝(光枝)氏が建てた、とされる。
 土塁の発見などから、城域は6つほどの区画に分かれる可能性があると推測する。
 14日午前10時から現地説明会が開かれる。
[参考:神戸新聞、小野市HP、2010.3.5毎日新聞]



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那須烏山市・烏山城古本丸部分で大規模拡張跡を確認

2010年03月13日 | Weblog
 那須烏山市教委は11日までに、本年度から実施している烏山城跡の発掘調査で、城の中枢にあたる古本丸部分で大規模に拡張された跡が確認されたことが分かった。
 烏山城は、室町時代の1417(応永24)年に沢村五郎資重(那須与一の後裔。下那須家初代)によって、現在の烏山地区市街地北西の丘陵頂上部に築かれたとされる。
 調査は2012年度まで行う予定で、今回は1月から実施。1530年代に焼失するまで本丸として使われていた古本丸部分を発掘した。
 南北約70m、東西約60mある古本丸内を十字に試掘。その過程で、時期は不明ながら大きな城へと拡張するための城普請跡を確認したほか、戦国期とみられる土師質土器や陶磁器なども出土した。
 現地説明会は13日午前10時半~12時から開かれる。集合場所は調査事務所(寿亀山神社周辺に設置)
[参考:下野新聞、那須烏山市HP]





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淡路市・袖ノ平遺跡、山ノ神遺跡 垣内遺跡と同時期・弥生後期の竪穴建物跡5基が出土

2010年03月12日 | Weblog
 淡路市教委は11日、淡路市黒谷の「柚ノ平遺跡(ゆのひらいせき)」と「山ノ神遺跡」で、ともに弥生後期(2世紀頃~3世紀初め)の竪穴建物跡5棟が見つかったと発表した。同時期で国内最大の鍛冶工房跡である垣内遺跡とは谷を一つ隔てた北350m、同じ標高約200mに位置し、関連性が注目されるが、現時点では分からないとしている。
 昨年5月から丘陵地約1900㎡(山ノ神約1200㎡、柚ノ平約700㎡)を調査してきた。両遺跡の間は約150m。
 柚ノ平からは建物跡4棟が見つかり、円形、方形、四隅が丸い「隅丸方形」(1辺6.2m)が各1棟、不明が1棟。
 このうち、隅丸方形の床面には焼土面が数か所確認され、鍛冶に使う台石と見られる石も出土したが鉄素材や製品は見つからなかった。また、四方の壁際に床面から20cm前後盛り上げた「ベッド状遺構」と呼ばれる高床がこしらえてあった。同遺構は、淡路島内では久野々遺跡(淡路市)、下内膳遺跡(洲本市)についで3例目。畿内周辺や瀬戸内沿岸でも同じ時期に見られるが、用途は不明という。
 一方、山ノ神からは竪穴建物跡1棟が出土。後世に削り取られたため、現在は半円形だが、円形だったとみられる。中央部に焼土面があったが、鍛冶作業で使う工具類は見つかっていない。
 現地説明会が13日午後1時半~3時半に開かれる。
[参考: 読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 淡路市・垣内遺跡


キーワード: 五斗長垣内遺跡
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奈良県大和郡山市・筒井城 破城令により堀の埋め戻し跡が出土

2010年03月12日 | Weblog
 郡山市教育委員会が11日、織田信長に仕えた戦国大名、筒井順慶(1549-1584)の居城だった筒井城跡(大和郡山市筒井町)で16世紀後半に埋め戻されたとみられる堀の遺構が見つかったと発表した。織田信長(1534-1582)の「破城令」により、大和地方の城をつぶすよう命じて埋められたとする文献の記述を裏付けるものとしている。
 筒井城は大和地方北部を治めていた戦国大名、筒井氏の居城で、これまでの調査で14世紀末~16世紀末ごろまで存続していたと考えられている。
 中心的な建物があったと推定される区画約200㎡を調べたところ、深さ約2・5m、幅約6m、東西約14mの堀跡を確認。断面がV字形の「薬研堀」で城中心部の主郭の南端を区画する内堀とみられる。人為的に一気に埋め戻されたとみられ、更地になっていた。
 当時の祭祀で用いられた素焼きの「かわらけ」など、100点以上の土器も一緒に出土した。筒井城を廃絶する際の祭祀で用いられ、堀とともに埋められた可能性が高いとみている。
 底に約20cm積もった土の上から土釜や中国製の茶碗が出土し、その年代から1575~1600年に埋められたと判明した。
 興福寺(奈良市)の僧侶・多聞院英俊による「多聞院日記」によると、信長は天正8年(1580)8月、郡山城以外の大和地方の城を廃絶するよう筒井順慶に命じ筒井城もこれに伴って廃絶された。同寺周辺の住民が動員されたとされる。
 現地説明会は14日午前10時から開かれる。
[参考:読売新聞、共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.2.26 筒井城跡 14世紀末から15世紀前半頃の『畝堀』が出土
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京都市・法勝寺 八角九重塔の基礎部分について初めて規模を確認

2010年03月12日 | Weblog
 京都市は11日、平安時代後期に白河天皇(1053~1129)が建立した法勝寺(ほっしょうじ)があったとされる京都市動物園(同市左京区岡崎法勝寺町)の敷地に、建立当時、国内で最も高い木造建築だった八角九重塔の基礎部分について初めて規模を確認したと発表した。
 塔は戦前まで基壇が残っており、室町時代の文献『院家雑々跡文』(1340)に高さ約27丈(81m)との記録があり、存在が確認されていたが、実際に基礎部分が確認されたのは初めて。実態解明に向け、貴重な資料となりそうだ。
 現存する木塔として日本最大の京都・東寺(同市南区)の五重塔が高さ約55m、基壇面積324㎡と比べると、法勝寺は高さ81m、基礎全体の面積推定約750㎡となる。
 基礎部分は地表から深さ約2mまでに約40~70cm大の石を詰め、粘土で固めていた。見つかったのは一辺12・5mの八角形(約720㎡)のうち南側の一部で、基礎の上に礎石などを設置し、塔が建てられていたと考えられる。 
 試掘場所は塔の南辺で、塔の中心があったとみられる場所は、現在観覧車などがある。市埋蔵文化財研究所は11年度中に調査が可能な場所を特定し、4月以降に本格的な発掘調査を実施する。
 法勝寺は1077年に白河天皇が建立し、6年後に九重塔が完成した。その後落雷で焼失したが、1213年に臨済宗の開祖、栄西により再建された。1342年に再び焼失。寺は応仁の乱(1467~1477)後に廃絶した。以後も基壇部分だけが地上に残り、戦前は動物園の休憩所になっていた。戦後、進駐軍によって地表部が削られ、その後正確な位置が特定できていなかった。
[参考:共同通信、時事通信、京都新聞、産経新聞]
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足利市・樺崎寺跡 浄土庭園の池で新たな岬を確認、多宝塔を意識か

2010年03月12日 | Weblog
 市教委は11日、足利氏の氏寺である国史跡樺崎寺跡(法界寺跡)の発掘調査で、浄土庭園の池で新たな岬を確認したと発表した。岬は正面に多宝塔跡を臨む位置にあり、多宝塔を意識して造られたのだろうとみている。園池の発掘調査は9割ほど終了、岬2カ所、中島2カ所を配置した園地の全容が分かり、市教委は本格的な復元整備を進めていく。
 新たな岬は園池の北部東岸。西側の八幡山に向かい岬状に伸び、粘土に礫を張り付け州浜としていた。
 江戸期の池の土中から瓦や陶磁器、下駄など約100点が出土。2007年度の調査に続いて「巡礼札」も出土、「坂東三十三所」と書かれた墨書きが確認された。
 市教委は14日午前10時半から、現地で市民を対象にした発掘説明会を開く。
[参考:下野新聞、東京新聞]

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 樺崎寺
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豊橋市・境松遺跡 東三河最古の古墳(方墳)を確認

2010年03月10日 | Weblog
 豊橋市教委は9日、同市牟呂町境松地内の境松遺跡発掘調査で古墳時代初頭(3世紀)の方墳1基を確認したと発表した。東三河地方最古の古墳となるこの地域にその後築かれる大型前方後円墳につながる古墳が確認できたとしている。
 方墳は、一辺10mの方形周溝墓方墳で、周囲には幅1m、深さ約1mの溝が巡らされていた。盛り土はすでに削り取られ、埋葬施設もなかった。これまで確認されている東三河地方最古の古墳は、今回の方墳から約500m南の全長55m前方後円墳の市杵嶋神社古墳(いちきしまじんじゃこふん)で築造は4世紀とみられている。
 また、同方墳の溝からは装飾を施し儀式などに使ったとみられる高さ約25cmの加飾壺(かしょくつぼ)がほぼ完全な形で見つかった。口の部分にヘラのようなもので羽状模様が刻まれた東海地方特有のもので、近畿や尾張地方の当時の古墳からも同じような壺が見つかっている。また、底に孔(あな)が開いており、埋葬の際の儀式に使用されたとみられる。弥生時代の三河地方にはなく、古墳の祭祀とともに近畿、尾張地方から伝えられたとみられる。
 今回の調査では、同方墳ほか、弥生時代後期の方形周溝墓や弥生時代中後期の集落、古墳時代末期の縦穴住居15棟も検出された。
 現地説明会が14日午前10時半と午後2時に開かれる。
[参考:東愛知新聞社、毎日新聞、読売新聞、東日新聞]



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鎌倉市・鶴岡八幡宮 源実朝ゆかりの「隠れ銀杏」折れる

2010年03月10日 | Weblog
 関東地方では9日夜から10日未明にかけて急速に発達した低気圧の影響で、季節外れの雪や強い風雨に見舞われた。
 10日午前4時40分ごろ、神奈川県鎌倉市雪ノ下の鶴岡八幡宮の本殿前にある神木の「大銀杏」(県指定の天然記念物)が根元から折れているのを警備員が発見した。同八幡宮関係者は「あり得ないことだ」と茫然としている。
 鶴岡八幡宮によると、大銀杏は樹齢推定千年で高さ約30m、幹の周囲は6.8m。大銀杏は、同八幡宮のシンボル的存在で、建保7年(1219)1月27日大雪の日、鎌倉幕府三代将軍源実朝が僧侶の公暁に暗殺された際、公暁が大銀杏の陰に隠れていた伝えがあることから「隠れ銀杏」(注1)とも呼ばれている。1955年に県の天然記念物に指定された。
 2月以降の雨で地盤が緩んでいたことに加え、9日夕からの強風が原因と指摘。雪まじりの風は、通常の数倍の力がかかるとされ、傾きを支えられずに折れたとみられる。土壌が薄い石段脇の斜面に立っていたことも影響したらしい。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞]

(注1) 鎌倉時代の史料には、公暁が銀杏の陰に隠れたとは記されていない。江戸時代になって作られたとの説がある。

鶴岡八幡宮の「大銀杏」折れる 強風が原因か(共同通信) - goo ニュース
鶴岡八幡宮の大イチョウ倒れる 「実朝暗殺の舞台」(朝日新聞) - goo ニュース

追記
2010.3.17 大銀杏再生計画は3段構えで実施 
 ①倒れた幹を根元から4mの部分で切断し、元の場所から7m左(西隣)に移植して根付かせる。(16日に実施済み)
 ②残った根から「ひこばえ」と呼ばれる新芽が出るのを育てるもので、自然に芽吹くのを待つ。
 ③挿し木。400本の挿し木を作っている。発根促進剤に侵し、育苗箱に入れて温室で根を出させ、畑で1mの苗木に育てる。(1年くらい発育状況の様子を見る)
[参考:読売新聞]

鶴岡八幡宮の大イチョウ、7m西に植え替え(読売新聞) - goo ニュース
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松原市・河合遺跡 奈良時代の役所跡、長さ50mの建物を含む10棟が出土

2010年03月10日 | Weblog
 大阪府松原市教育委員会が9日、河合遺跡(松原市河合)で奈良時代の大規模な建物跡10棟が見つかったと発表した。当時、付近は河内国丹比郡(たじひのこおり)と呼ばれており、郡衛「丹比郡家」の可能性があるという。
 見つかったのは地面に穴(直径30~40cm)を掘り、柱を直接埋める掘っ立て柱建物跡で、数度にわたって建て替えられており、柱が沈み込まないように穴の底に板を敷くなどの工夫もされていた。3棟は建て替えられたとみられる。瓦も出土しており、瓦葺の建物だったとみられている。出土した土器などから、8世紀前半から半ばにかけて建設されたと推定される。
 建物はコの字形に配置され、南北に細長い建物は幅3m、長さ約50mの規模。北側と南側には東西に長い建物の一部とみられる柱穴が確認された。奈良時代の役所は、敷地を長屋や回廊で正方形に囲うのが一般的で、今回見つかったのは約50m四方の役所の東側と推定されるという。東側には倉庫跡2棟もあった。
 調査区域の南側約250mの地点では、昭和62年の発掘調査で大規模な人工の運河「丹比大溝」が確認されており、溝を管理する役所とみている。
 円形の硯や「吉」と墨書された須恵器も出土した。
 現地説明会は行われない。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞] 
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古河市・川戸台遺跡 東日本最大級の「製鉄所」跡と判明

2010年03月10日 | Weblog
 茨城県古河市教育委員会は9日、昨年10月から進めている奈良・平安時代の製鉄遺跡として知られている川戸台遺跡(同市牧野地)の発掘調査を遺跡の一部に当たる幅7m、長さ80mで実施し、9世紀初め~10世紀の平安時代、約100年にわたって鍋などが生産されていた東日本最大級の「製鉄所」と判明したと発表した。
 今回の調査区域から廃棄された大量の鋳型片などが発見された。その形状と厚い堆積層(約80cm)から極めて大規模な「製鉄所」跡であると推測されるという。鋳型片のほか、鉄滓など5・5トンを掘り出したが、さらに大量の鉄滓が残されているとみられる。また、鉄滓が残されていた鋳鉄作業所は何層にもわたる整地跡が残っており、鋳型の材料となる粘土を採掘した跡も二カ所発掘されていることなどから、長い期間にわたって全国的にも珍しい大規模な古代製鉄遺跡とみている。
 武器類が出ておらず、鍋などの製造に特化されていたとみられる。出土した鋳型の破片は、蝦夷制圧のために編成した軍団が使用していた鉄鍋の特徴と一致。9世紀頃の寺院や役所で使われていた鉄製三足鍋、香炉などの鋳型も発見され、秋田市の秋田城や宮城県多賀城市の多賀城、多摩ニュータウン(東京都)、神奈川県平塚市などから出土した鉄鍋などとも特徴が一致した。
 長期間製鉄が続けられたことについて、良質な砂鉄と鋳型に使う川砂が容易に採取できたことと、隣接する渡良瀬川を舟運として利用したとみている。
 9世紀頃の大規模な製鉄遺跡は福島県南相馬市などでも発見されているが、それよりも大きい規模で、蝦夷制圧を支えた重要な製鉄基地だったと考えられている。
 同課は13日(土)、現地説明会を開く。(川戸台遺跡[牧野地・クリーンセンター東側)
 午前10時半、午後3時半の2回。(雨天の場合14日に延期)
[参考:産経新聞、東京新聞、読売新聞、古河市HP]



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糸島市・三雲・井原遺跡 「三雲南小路王墓」の周溝?を発見

2010年03月09日 | Weblog
 糸島市教委は、発掘調査を行う三雲・井原遺跡上覚地区で弥生時代中期末(紀元前後)の溝が見つかったと発表した。中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都国王墓の一つ「三雲南小路王墓」の周溝の可能性があるとしている。
 過去にも、県教委や市教委の調査で王墓と女王墓、墓を囲む周溝が出土している。
 上覚地区は王墓の出土した場所と道路をはさんだ南側に位置し、溝(幅2・5~3・8m、長さ9m、深さ20~25cm)は北東から南西方向に延び、王墓西側の周溝に向かっている。しかし、王墓西側の周溝は切れているとの見解もあり、別の首長級墓の周溝の可能性もあるという。
 ほかに、古墳時代初頭の箱式石棺墓などが見つかった。
 現地説明会は13日午前10時~正午行われる。
[参考:毎日新聞]
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岡本八幡神社 世田谷区岡本

2010年03月09日 | Weblog
岡本八幡神社 世田谷区岡本2-21-2
 静嘉堂文庫の隣地に岡本八幡宮が鎮座している。国分寺崖線の段丘(標高約30m)上にある。
 そばに建つ石碑には、鶴岡八幡宮から勧請したと伝えられるが創建年代は不明だと記されている。
 慶長2年(1597)から14年間かけて六郷用水が開削されて、その当時から岡本村の名前が見える。
 文化7年(1810)に再建された社殿は南を向いており、真正面にある急な階段を降りると文化元年(1804)に建立された石の鳥居がある。
 鳥居の横には、1対の石灯篭が奉納(寄進日は平成八年(1996)十一月)されており、松任谷正隆、由美夫妻の名前が刻まれている。
 最近では、ユーミンの聖地巡礼の地ともなっている様子である。
 

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「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」 ペリー来航時作の説を裏付ける発見

2010年03月08日 | Weblog
 マシュー・ペリー提督が率いる黒船が来航したのは、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)であった。黒船にあわてる江戸幕府の様子を風刺した狂歌「太平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」(茶の上喜撰と蒸気船をかけている)が、ペリーが浦賀沖(横須賀市)に来航した直後に詠まれていたことを示す書簡が東京・世田谷の静嘉堂文庫で見つかった。
 この狂歌は、1878年(明治11年)の史料で確認されるのが最初で、後世の作との説も出ていた。新資料の発見で旧来の説が裏付けられた。
 専修大学元講師の斎藤純さんが、常陸土浦(茨城県)の薬種商で国学者だった色川三中(みなか)(1801~55年)あての書簡を集めた「色川三中来翰集(らいかんしゅう)」のうち、江戸の書店主、山城屋左兵衛からの書簡にこの狂歌が記されているのを発見した。
 書簡は1853年6月30日付(注1)で、異国船が来て騒動になり、狂歌や落首が色々作られたと説明した上で、「太平之ねむけをさます上喜撰(蒸気船と添え書き) たつた四はいて夜るもねられす」の狂歌も記している。
 これまで「眠り」とされていた部分が、今回の狂歌では「ねむけ」となっている。
[参考:読売新聞]

(注1) 1853年6月30日付となっているが、浦賀の様子を表す狂歌であれば嘉永6年6月30日のことか。そうであれば、西暦1853年8月22日のこととなる。

備考:
 静嘉堂文庫では今、国宝・曜変天目と付藻茄子―茶道具名品展―(2008年2月9日~3月23日)が開催されており、稲葉天目と呼ばれる国宝の曜変天目茶碗が展示されている。
 もともとは徳川将軍家の柳営御物(りゅうえいぎょぶつ)だったものが、三代将軍家光から乳母の春日局に下賜され、春日局の嫡孫だった小田原藩主・稲葉美濃守正則に、その後淀藩主稲葉家が受け継いだため稲葉天目と呼ばれた。
 三菱商事株主通信平成18年度中間報告書の「三菱の文化のオアシス靜嘉堂文庫・美術館」を見ると、
  伝えでは、徳川三代将軍家光が重病の際に乳母の春日局は、「生涯の薬絶」をもってその平癒を祈った。後年、局が病の折に家光はこの茶碗に薬を入れ届けたが、局が茶碗のみ拝受し、薬はそっと襟元に流したという。
 と記されている。
 2010-02-28 付の祖心尼と併せて興味深い。

たった四はいで夜も…黒船来航直後の作(読売新聞) - goo ニュース
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徳島市/庄・蔵本遺跡 出土した雑穀種子は、アワやキビの種子と判明

2010年03月08日 | Weblog
 徳島大埋蔵文化財調査室は5日、弥生時代の集落遺跡「庄・蔵本遺跡」(徳島市蔵本町)で発見された種子が同時代前期(約2500年前)のアワやキビと判明したと発表した。当時からアワの栽培が行われていたことがわかり、吉野川流域での畑作の起源を考える貴重な資料とし、『阿波』の国名の由来とも関係があるのかもしれないとしている。弥生前期までの雑穀種子の年代が特定されたのは、滋賀県安土町の竜ヶ崎A遺跡(縄文時代晩期)に続いて西日本で2例目。
 同遺跡は徳大蔵本キャンパスにあり、同大学病院の西病棟新築工事に伴い、2006~07年に発掘調査。弥生時代前期の畑(約190㎡)が出土していた。同調査室が、畑から採取した雑穀種子(1~4mmほどで炭化)約500点の年代測定を進めていた。
 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に依頼して放射線炭素(AMS)法で鑑定した結果、弥生時代前期の種子であることが確定。イネは約10点だけで、多数がアワやキビで、他にマメやエゴマも含まれていたことがわかった。
 畑跡のそばには水田跡もあり、弥生前期に水田と畑を併用した農耕が行われていたと推測。種子は通常なら腐って残らないため、焼土を精査し炭化した種子を採取した。
 弥生時代の農業は稲作中心と考えられてきたが、栽培の難しいイネだけに頼らず、雑穀を植えることでリスク分散を図る意味合いもあったのではとみている。
 吉野川流域は『阿波』(あわ)の旧国名の通り、古代から畑作を軸とする農業が見られ、その起源が弥生時代に遡ると推定できるという。
 同大日亜会館(徳島市新蔵町)ガレリア新蔵1階ギャラリーフロアでは、「発掘 徳島大学」展が平成22年3月2日~3月16日の期間で開催されており、調査結果を紹介するパネル展示がされている。3月末に刊行予定の年報でも紹介する。
[参考:読売新聞、徳島新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
■2007.3.9 庄・蔵本遺跡 弥生前期の畑が見つかる
 徳島大学埋蔵文化財調査室が8日、庄・蔵本遺跡で弥生時代前期の畑跡(東西約17m、南北約11m)を発見したと発表した。
 弥生時代前期の畑跡が見つかったのは、三重県松阪市の筋違遺跡(すじかいいせき)と福岡県小郡市の三沢蓬ケ浦遺跡(みさわふつがうらいせき)に続いて、全国で3例目。
 周辺ではこれまでに同時期の環濠集落と水田の跡が確認されている。 [参考:徳島新聞]
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