歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

埼玉県川島町・三竹遺跡 古墳時代後期の古墳3基が出土 3/14現地見学会

2010年03月06日 | Weblog
 県埋蔵文化財調査事業団は入間川の河川改修工事に先立ち、三竹遺跡(みたけいせき)(川島町大字出丸中郷字横塚365他)の発掘調査を行っている。
 遺跡からは、今から約1,500年前に造られた3基の古墳跡が発見されている。1号墳墓は周溝のある径21mの円墳。周溝の中からは、人物や馬などをかたどった形象埴輪、円筒埴輪、赤く塗られた土師器の杯、須恵器の破片などが見つかっている。
 現地見学会が3月14日(日)午前の部 10:30~12:00と午後の部 13:30~15:00に現地見学会が行われる。
 集合場所は現地の三竹遺跡発掘事務所(川島町出丸中郷1497)で予め申込みが必要になっている。(申込先着順)
[参考:埼玉県埋蔵文化財調査事業団HP]


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四条畷市・蔀屋北遺跡 5世紀中ごろの国内最古の馬の乳歯が出土

2010年03月05日 | Weblog
 大阪府教委は5日、四条畷市の蔀屋北遺跡で5世紀中ごろ(古墳時代中期)とみられる国内最古の馬の乳歯が出土していたことが分かったと発表した。当時から馬が飼育されていたことを裏付ける史料。
 見つかったのは臼歯部分で、最も長い歯は約8cm。乳歯はすり減るなどして、短くなっていたが、ほかの歯もほぼ揃っていた。新しい歯も形成されていることから、歯が生え替わる前の2~3歳の若い馬とみられる。骨や前歯は見つからなかった。
 遺跡一帯は日本書紀が河内馬飼と記す朝廷の牧場があったとされ、これまでに馬の全身骨格や鞍などの馬具も出土。百済系の土器が出土していることから朝鮮半島から来た渡来人が飼育していたとみられる。
[参考:共同通信]
大阪で国内最古の馬の乳歯出土 飼育を裏付け(共同通信) - goo ニュース

備考:今回添付されている写真は、下記特別展で展示されたものと同一に見えるが。説明文には「埋葬された2歳馬の歯。乳歯が痛ましい」と記されていた。

過去の関連ニュース・情報
■2009.11.28 「馬飼い」百済に起源 四條畷の資料館で特別展
 日本列島で本格的に馬の生産が始まったのは、古墳時代中期の5世紀、朝鮮半島からの渡来人の手によってだった。その全容を明らかにした四條畷市の「蔀屋北遺跡(しとみやきたいせき)」の発掘調査成果を紹介する特別展「馬は船にのって―蔀屋北遺跡の馬飼い集落から」が、同市立歴史民俗資料館で開かれている。12月13日まで(終了)。
 府教委が2001年度から06年度にかけて2万5000㎡を発掘。5世紀初めから、ほぼ200年にわたって営まれた渡来系の馬飼い集落跡を確認、様々な遺物も見つかった。
 丸木舟に舷側板を取り付け、外洋航海ができる「準構造船」(推定長さ10~12m)の部材を転用した井戸枠、櫂などが出土。準構造船の部材にはモミが使われており、朝鮮半島で造られたとみられる。これに載せて馬を運んできたらしい。
 出土した土器などから、集落には、百済から訪れた人々が住んでいたことが判明。市内では、5世紀初め~6世紀前半の馬の骨40~50頭分が出土していることから、飼育していたのは体高1・2~1・3mの小型の馬だったとみられる。
[参考:読売新聞、四条畷市HP→歴史民族資料館→平成21年特別展「馬は船にのって」]

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大津市・石山寺 最澄が唐から持ち帰った「三教不齋論」の写本を詳細調査へ

2010年03月04日 | Weblog
 天台宗を開いた最澄が中国・唐から持ち帰ったと伝わる論文「三教不齋論(さんぎょうふせいろん)」の写本(室町時代)を所蔵する石山寺(大津市)は、専門家に依頼し、詳しい内容を調べる方針を決めた。
 論文は、真言宗の開祖・空海も同様に持ち帰ったとされ、こちらの写本(江戸時代)は1月に初確認されたばかり。晩年にライバルとなった最澄、空海が、若者の時に同じ書物に興味を持ったことを示す貴重な史料だけに、調査結果が期待される。
 最澄は804~805年、唐に渡って多くの経典類を書写した。それらをまとめた「伝教大師将来目録」(国宝)に含まれるが、織田信長による焼き打ちなどがあったためか、実物は残っていない。
 石山寺で昭和40年代に見つかった写本は、約30函の「校倉聖教(あぜくらしょうぎょう)」(重要文化財)に含まれており、長さは約6m。奥書に最澄が唐・台州(現・浙江省)の龍興寺で804年11月に書写し、僧・源雅律師が明応6年(1497年)に写したことが記されている。
 しかし、内容についてはほとんど分かっておらず、鷲尾遍隆・石山寺座主は「今後、専門家による調査を行いたい」と話す。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
■2010年1月23日 空海が唐から持参の文献「三教不齋論」の江戸時代末の写本を発見 
 平安時代、真言宗の開祖・弘法大師空海(774~835年)が唐から持ち帰ったとされ、その後行方不明だった文献「三教不齋論(さんごうふさいろん)」の江戸時代末期の写本が、東京都立図書館所蔵の諸橋文庫にあるのを、藤井淳・高野山大学密教文化研究所委託研究員が確認した。仏教、道教、儒教を比較し、仏教が最も優れているとする内容で、空海24歳の時の著作「三教指帰(さんごうしいき)」で仏教の重要性を説いた持論を裏付けたものとみられている。
 空海は804年に唐に渡り、密教を学んで2年後806年に帰国。その際、唐から経典や仏具などを持ち帰ったとされ、その一覧を記した「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」が残っており、「三教不齋論」もその中に記されていたが、現物が残っていないためこれまで内容はまったく分からず、「幻の論文」とされていた。
 「三教不齋論」の題名が記された写本は縦25cm、横16cm、25ページで、文久元(1861)年に阿波国(徳島県)千福寺の僧侶・良応が筆写したと書かれていた。内容も当時の唐の官僚が書いた比較思想論と判明。
仏教は悟りを根本から求める点で優れているとしており、「三教指帰」と同様、仏教が最高の教えと結論づけていた。
 研究成果は25日、高野山大学密教文化研究所(和歌山県)で開かれる研究会で発表する。
[参考:毎日新聞、読売新聞、朝日新聞]

■2010年2月18日 最澄が唐から持参の文献「三教不齋論」の写本を石山寺(大津市)で発見
 高野山大密教文化研究所(和歌山県)の調査で18日までに、空海が唐からもたらし幻の論文とされる「三教不齋論」を、最澄も持ち帰り、大津市の石山寺に写本が保管されていたことが、判明した。
 同研究所は「三教不斉論を持ち帰るには筆写するしかなく、大変な作業。2人がともに仏教が最も優れるとする論文に興味を持っていたことが分かる」としている。
 2人は804年に唐に渡り、最澄は翌年、さらに1年遅れて空海が帰国した。
 石山寺にあった「三教不齋論」の写本は、1984年の高野山大の調査で存在が確認され、最澄が持ち帰ったものが原本になっていることも分かったが、当時は仏教と関係のない論文として精査されなかった。
[参考:共同通信]

最澄も空海と同じ論文持ち帰り 幻の「三教不斉論」(共同通信) - goo ニュース
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明日香村・甘樫丘東麓遺跡 飛鳥藤原第161次調査・現地見学会 3/20

2010年03月03日 | Weblog
 奈良文化財研究所から甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第161次調査)の現地見学会の案内が発表されています。
 前回、平成21年6月21日現地説明会を開催した飛鳥藤原第157次調査地点の東側から東南側にかけて調査が実施されています。
 【日 時】 平成22年 3月20日(土)午前11時~午後3時 説明は午後0時00分、午後2時00分の2回
 【場 所】 高市郡明日香村大字川原(国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区内)
[参考:奈良文化財研究所HP]

過去のニュース・情報
 2009.6.17 甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏邸宅の石垣延長部(城柵?)見つかる  
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朝来市・高田遺跡 奈良時代の須恵器に漆でアルファベットの「D」に似た柄

2010年03月03日 | Weblog
 朝来市教委が2日、兵庫県朝来市和田山町の南但ごみ処理施設建設予定地の「高田遺跡」から、奈良時代のものとみられる漆で漢字やアルファベットと似た文字か記号が書かれた須恵器の破片約30点が見つかったと発表した。
 1か所で同様の須恵器が見つかったのは但馬、丹波両地方で最多で、一般集落からの出土例はない。
 見つかった漆書きの須恵器には、漢字の「木」を書いたようにみえる破片(縦7cm、横12cm)や、アルファベットの「D」に似た柄が入った破片(縦3・5cm、横4cm)などがあり、筆や木の先端、ブラシなどで書いたとみられる。
 また、弥生時代後期(3世紀後半)から鎌倉時代末期(14世紀前半)までの13棟の竪穴住居跡や6棟の掘立柱建物跡、溝跡なども確認された。
 高杯などの弥生土器や7世紀後半から10世紀前半の須恵器、平安時代の土師器のほか、中国製の青磁、漆を入れたと思われるパレットなど約2000点以上の遺物が出土した。
[参考: 読売新聞]
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三田市・三輪餅田遺跡 2000年前の作りかけの管玉が出土

2010年03月03日 | Weblog
 三田市生涯学習課は2日、JR三田駅北側に広がる同市高次(たかすぎ)1丁目の三輪餅田遺跡(みわもちだいせき)から、約2000年前の弥生時代のものとみられる作りかけの管玉が見つかったと発表した。同市内で管玉が出土したのは、貴志遺跡(きしいせき)に次いで2例目。
 同遺跡は87年に見つかり、弥生時代から室町時代にかけての遺構や遺物が出土する複合遺跡。
 今回は道路拡幅工事に伴い、昨年12月から約1200㎡を調査した。
 弥生時代の溝や石包丁、土器片などとともに、首飾りなどの装飾品に使う管玉の未製品(長さ2・2cm、縦10・2mm、横7・9mm、重さ3・3g)が見つかった。断面などから、原石の碧玉から管玉に加工する初期工程のものとみられる。
 碧玉は出雲地方で青瑪瑙(あおめのう)とよばれる貴重品で、松江市の花仙山付近でしか産出しない(注1)。原石を割って直方体を作った上で、角を削って円柱にし、石針で穴を開けたという。管玉製造に必要な石針や砥石など玉造りの道具は見つかっていないが、弥生時代に環壕集落だった同地が、遠距離交流を行っていたことを示すとみている。
 ほかに、弥生時代のものとみられる土器片や石包丁なども出土した。作りかけ品であることから、三田に管玉を製造できる技術を持った人が住んでいた可能性があるという。
 現地説明会が、6日午後1時から開かれる。また、10~22日に、三田ふるさと学習館(同市屋敷町)で出土品約100点を速報展示する。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]

(注1)2010.3.26追記
 その後の調べで、碧玉は石川県小松市周辺で産出した可能性が高いことが分かった。

過去の関連ニュース・情報
 2010.2.10 倉吉市・東前遺跡 弥生中期の玉作り工房跡確認 (管玉は北陸地方産としている。)



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府中市・ツジ遺跡(備後国府跡) 平安時代の区画溝や国司の官舎跡が出土

2010年03月03日 | Weblog
 府中市教委は2日、発掘調査している広島県府中市元町の「ツジ遺跡」(備後国府跡)から奈良・平安時代(8〜12世紀)の北限を示す区画溝や「国司」の官舎跡とみられる、奈良~平安時代の建物の柱穴が見つかった。
 昨年11月からJR府中駅北東約800mの公民館跡地約200㎡を調査してきた。
 発掘現場の北端から幅約2m、深さ約30~40cmの区画溝が、北東側では東西約12mそして北西側では東西約15mが、一部が重なった状態で確認され、北限の区画溝と判断した。
 幅約2m、長さ計約27m。以前の調査で南側に区画溝が出土しており、1区画が南北約120m、東西100mであることが分かった。
 溝の南側に6つの建物跡(柱穴の直径0・5〜1m)を確認した。うち最大の建物は東西7・8m、南北3・6mに計12の柱穴が並んでいた。
 出土物では、周辺の遺跡に多くみられる土師器片、須恵器片などが大量に見つかった。
 国府の政庁ほどの規模はなく、役人の住居や倉庫の可能性が高いという。高級品だった緑釉陶器の破片も出土した。
 現地説明会が、7日午後1時30分から開かれる。
[参考:山陽新聞、中国新聞、読売新聞]
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横手市・大鳥井柵(大鳥井山遺跡) 11世紀後半に最盛期を迎えた山城が明らかに

2010年03月03日 | Weblog
 大鳥井柵(大鳥井山遺跡)が、11世紀後半に最盛期を迎えた山城であることが昨年秋に横手市教委がまとめた調査報告書により明らかになった。後三年合戦(1083~87年)で源義家と戦った現地の豪族・清原氏の拠点とみられる。武士が築く山城の出現は14世紀、南北朝期ごろとされてきた定説を200年以上も遡る。
 国の史跡指定を受けようと横手市教委は昨年まで3年にわたり再調査を実施した。
 大鳥井山遺跡は、横手市の市街地の北部、雄物川の支流の横手川と吉沢川の合流点に位置し川からの高さは20mほどの、かつては大鳥井山と呼ばれていた大鳥山(標高約70m)と、その北の小吉山(標高約75m)と台拠館と称される3つの小独立丘陵上の合わせて南北680m、東西200mに及ぶ。川に面していない3方向を土塁と堀で囲んだ構造と判明。堀は二重にめぐり、最大のものは幅10m、深さ3mもある。大型の建物跡も確認されている。
 東側の斜面に見える3本の竪堀を土でつくる城の「うね状空堀群」と分析。
 過去に多量のかわらけなど、土器なども多数出土していながら、時期が特定できなかったが、北東北では平泉(岩手県)などで古代遺跡の調査が進み、土器の編年が整備され、その結果、10世紀後半に築造が始まり、土塁や堀が完成したのは11世紀後半と特定できた。
 後世の戦国時代などに城として使われたことのないことも確認された。
[参考:朝日新聞、横手市→文化財保護課HP]

写真は、大鳥山の北(左側)と小吉山の南(右側)部分に当たる。

備考
 大鳥井山遺跡の大鳥山南側に大鳥井山神社があります。神社のそばに説明板が立っています。

過去のニュース・情報
 2008.7.11 後三年合戦関連遺跡発掘調査 現地説明会の予定


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