天台宗を開いた最澄が中国・唐から持ち帰ったと伝わる論文「三教不齋論(さんぎょうふせいろん)」の写本(室町時代)を所蔵する石山寺(大津市)は、専門家に依頼し、詳しい内容を調べる方針を決めた。
論文は、真言宗の開祖・空海も同様に持ち帰ったとされ、こちらの写本(江戸時代)は1月に初確認されたばかり。晩年にライバルとなった最澄、空海が、若者の時に同じ書物に興味を持ったことを示す貴重な史料だけに、調査結果が期待される。
最澄は804~805年、唐に渡って多くの経典類を書写した。それらをまとめた「伝教大師将来目録」(国宝)に含まれるが、織田信長による焼き打ちなどがあったためか、実物は残っていない。
石山寺で昭和40年代に見つかった写本は、約30函の「校倉聖教(あぜくらしょうぎょう)」(重要文化財)に含まれており、長さは約6m。奥書に最澄が唐・台州(現・浙江省)の龍興寺で804年11月に書写し、僧・源雅律師が明応6年(1497年)に写したことが記されている。
しかし、内容についてはほとんど分かっておらず、鷲尾遍隆・石山寺座主は「今後、専門家による調査を行いたい」と話す。
[参考:読売新聞]
過去の関連ニュース・情報
■2010年1月23日 空海が唐から持参の文献「三教不齋論」の江戸時代末の写本を発見
平安時代、真言宗の開祖・弘法大師空海(774~835年)が唐から持ち帰ったとされ、その後行方不明だった文献「三教不齋論(さんごうふさいろん)」の江戸時代末期の写本が、東京都立図書館所蔵の諸橋文庫にあるのを、藤井淳・高野山大学密教文化研究所委託研究員が確認した。仏教、道教、儒教を比較し、仏教が最も優れているとする内容で、空海24歳の時の著作「三教指帰(さんごうしいき)」で仏教の重要性を説いた持論を裏付けたものとみられている。
空海は804年に唐に渡り、密教を学んで2年後806年に帰国。その際、唐から経典や仏具などを持ち帰ったとされ、その一覧を記した「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」が残っており、「三教不齋論」もその中に記されていたが、現物が残っていないためこれまで内容はまったく分からず、「幻の論文」とされていた。
「三教不齋論」の題名が記された写本は縦25cm、横16cm、25ページで、文久元(1861)年に阿波国(徳島県)千福寺の僧侶・良応が筆写したと書かれていた。内容も当時の唐の官僚が書いた比較思想論と判明。
仏教は悟りを根本から求める点で優れているとしており、「三教指帰」と同様、仏教が最高の教えと結論づけていた。
研究成果は25日、高野山大学密教文化研究所(和歌山県)で開かれる研究会で発表する。
[参考:毎日新聞、読売新聞、朝日新聞]
■2010年2月18日 最澄が唐から持参の文献「三教不齋論」の写本を石山寺(大津市)で発見
高野山大密教文化研究所(和歌山県)の調査で18日までに、空海が唐からもたらし幻の論文とされる「三教不齋論」を、最澄も持ち帰り、大津市の石山寺に写本が保管されていたことが、判明した。
同研究所は「三教不斉論を持ち帰るには筆写するしかなく、大変な作業。2人がともに仏教が最も優れるとする論文に興味を持っていたことが分かる」としている。
2人は804年に唐に渡り、最澄は翌年、さらに1年遅れて空海が帰国した。
石山寺にあった「三教不齋論」の写本は、1984年の高野山大の調査で存在が確認され、最澄が持ち帰ったものが原本になっていることも分かったが、当時は仏教と関係のない論文として精査されなかった。
[参考:共同通信]
最澄も空海と同じ論文持ち帰り 幻の「三教不斉論」(共同通信) - goo ニュース