歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

東温市・揚り畑遺跡 分銅形土製品を発掘

2012年11月09日 | Weblog
 愛媛県東温市教委は、弥生時代中後期の「揚り畑(あがりはた)遺跡」で、祭事などに使われたとされる人を模った分銅形土製品を発掘したと発表した。 顔部分と下部が見つかり、二つは接合できるという。 二つ合わせた長さは約10cm、幅約6cm。
 分銅形土製品は瀬戸内沿岸での発見が多く、松山、西条、今治の3市でも出土している。
[参考:愛媛新聞]

コメント: 「広報かわうち・1997年8月号」(愛媛県川内町発行)によると、「1996年に、揚り畑遺跡より分銅形土製品(破片)を発掘」との記事と写真が掲載がされていた。時期は弥生時代中期(約1900年前)としている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大崎市・権現山遺跡 年号が入った東北最古級(8世紀前半)の木簡が出土

2012年11月08日 | Weblog
 宮城県大崎市教委は、古代の官衙的施設とみられる権現山遺跡(同市古川荒谷)の発掘調査で、材木塀跡410mが新たに見つかり、兵士の「勤務表」を記した可能性のある木簡が出土したと発表した。
 出土した木簡(長さ13・6cm、幅3・6cm)には、赤外線撮影などで表に「従六年 十二月十一日」、裏に「矢田マ黒□」「(汗)知マ忍山」「若田マ」」ら男4人の名前が書かれていた。 「従六年」は「六年より」の意味で、8世紀前半で年号が6年以上続いたのは和銅6(713)年、養老6(722)年、天平6(734)年しかなく、このいずれかという。「(汗)知マ」は同県白河郡方面の「宇智(治)部」の当て字とみられる。
 権現山遺跡に近接する三輪田遺跡(同市古川長岡三輪田)では1998年、相模国の軍団の駐屯を示す木簡が出土している。今回の木簡も兵士の勤務表、出勤簿の可能性もあるとみている。
[参考:2012.11.8読売新聞、2012.10.26河北新報、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松江市・石屋古墳 埴輪の塗り分けで国内最古を確認

2012年11月08日 | Weblog
 昭和53年(1978)に松江市・石屋古墳の発掘調査で出土した埴輪の破片が、複数の色に塗り分けられた埴輪(注1)としては国内最古になることが島根県教委の調査でわかった。
 (注1)弓矢を入れる道具「靫(ゆぎ)」をかたどった埴輪片が赤と緑の2色に塗り分けられていた。
 これまでの調査で、5世紀中頃に作られたことが判明しているが、このような複数の色に塗り分けられた埴輪は、関東地方を中心に5世紀後半以降の古墳から見つかっており、この埴輪がなぜ出雲地方の古墳から出土したのか、また、関東地方までどのようにして伝わったのかを明らかにしたいとしている。
[参考:NHK島根、山陰中央新報]

過去の関連ニュース・情報
石屋古墳
 2012.3.9 力士や武人など人物埴輪を復元し5世紀中頃と判明
 2008.9.3 緑色顔料は、石屋古墳で出土した埴輪の盾に塗られたり、いずれも五世紀後半。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羅州市・五良洞窯跡 窯11基を追加発掘、5世紀後半~6世紀初期にかけての甕棺製作場所と再確認

2012年11月07日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は7日、史跡456号・羅州五良洞窯跡(나주 오량동 요지)(注1)に対する第6次発掘調査の結果、窯11基、廃棄場4基、古墳2基など合計17基に達する遺跡を確認して、大型甕棺片をはじめとする関連遺物を多量に収集したと発表した。
 特に、本来窯の天井構造がどのようだったかを知ることができる窯内部堆積物や、底でアーチ型窯の天井彫刻とか天井を作る時に使った木材の支え跡などが収集された。
 窯構造や出土遺物から、五良洞窯跡の遺跡は5世紀後半~6世紀初期にかけて栄山江流域甕棺古墳に使った大型甕棺を製作した場所とみられる。 これまでの発掘調査で現れた甕棺窯は半径10km以内に集中分布することが明らかになり、さらに、甕棺以外の他の土器を焼いた窯は見つからなかった。 したがって、五良洞窯跡の遺跡が三国時代栄山江流域大型甕棺の生産と流通の中心地であることを傍証し、甕棺古墳社会の性格把握に重要な学術的糸口になると評価される。
 研究所は個別の窯に対する正確な年代決定のために放射性炭素年代測定(AMS)と光ルミネッセンス測定(光刺激発光、OSL)等の多様な年代分析をする予定という。
[参考:聨合ニュース]

(注1)史跡456号は、これまで、羅州 五良洞 土器 窯址(나주 오량동 토기 요지)と記していたが、今回「土器」が外して明記されている。

過去の関連ニュース・情報
 2008.7.3 羅州市五良洞 甕棺を割って築造した 甕槨墓 初めての発見

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筑紫野市・堀池遺跡 平安時代9世紀半ば~後半の木炭槨木棺墓と越州窯系青磁の唾壺が見つかる

2012年11月06日 | Weblog
 筑紫野市教委は5日、同市二日市西1の堀池遺跡(ほりいけいせき)で、平安時代9世紀半ば~後半の木炭槨木棺墓(もくたんかくもっかんぼ)と呼ばれる墳墓が見つかり、副葬品として越州窯系青磁の唾壺(だこ)と呼ばれる青磁の壺(高さ9.0cm、口径14.8cm)が国内で初めて完全な形(注1)で出土したと発表した。 平城宮跡(奈良市)と太宰府市で破片が出土しているが、完全な形で見つかったのは初めて。
 青磁の唾壺は木槨の上に置かれたとみられ、遣唐使がもたらしたものが、後世に被葬者の手に伝わった可能性もあるといい、埋葬者は大宰府の有力者で、長官クラスの可能性もあるとしている。
 漆器表面に塗ったとみられる漆の被膜片も出土した。
 墳墓は、大宰府の条坊(街区)の南端から南に500mの地点で発見された。 墓壙は長さ2.6m、幅1.2m、深さ0.8mで、墓の周囲には直径約6mの円形の溝と、一辺が17m、幅2mの方形の溝が二重に巡らされていた。 平安時代としては大規模という。
 埋葬施設は、木棺(長さ1・8m、幅40cm)を木槨(長さ2m、幅80cm)で囲み、湿気を防ぐために外側に大量の木炭を敷き詰める「木炭槨木棺墓」という珍しい構造で、畿内に18例ある以外は、上越市(注1)と太宰府市に継ぐ3例目という。
 木炭槨木棺墓の被葬者には古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)などもいる。
 現地説明会が10、11両日の午前10時と午後2時に開かれる。 また、23日(金・祝)午前10時から、市生涯学習センターで特別講演会が開かれる。
[参考:共同通信、西日本新聞、朝日新聞、毎日新聞、RKB毎日放送]

(注1) 朝日新聞に掲載されている出土時の写真を見ると、唾壺上部の唾壺羽が1/4程のところで2つに割れているが、他の写真では接合されて写っているようだ。
(注2) 新保遺跡の柿崎古墓(9世紀後半)

過去の関連ニュース・情報
 越州窯系青磁出土
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明石市・寺山古墳 刀装具から銀象嵌が施された亀甲文の鳳凰が見つかる

2012年11月03日 | Weblog
 明石市は2日、同市魚住町錦が丘の寺山古墳(直径約15mの円墳、6世紀中頃)で、銀象嵌が施された刀装具の一部2点が見つかったと発表した。
 10年度の発掘調査で出土した鉄製品を保存処理しエックス線分析計などで調査した結果、大刀の鞘口につける金具とみられる3.9cm四方の鉄片(厚さ1mm)に、亀甲文の中に羽を広げた左向きの鳳凰1羽があしらわれているのが見つかった。 また、銀象嵌の山形文様がある幅2.5cm、長さ3.9cm、厚さ0・1cmの鉄片も見つかった。 大刀の鍔(つば)部分に付ける金具「鎺(はばき)」か、「鞘尻(さやじり)」の一部と見られる。
 6世紀前半に朝鮮半島で作られたとみられる同様の模様のある大刀が台所山古墳(群馬県)でも出土しており、また、朝鮮半島南部で4~6世紀の加耶の古墳からよく似た鳳凰の文様がある大刀が出土しているという。 日本で流行する6世紀後半より前に伝来したと考えられるとしている。
 23日〜12月24日に市立文化博物館の歴史展「明石の古墳2」で公開する。
[参考:神戸新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 象嵌
 大阪府河南町シシヨツカ古墳・銀象眼大刀柄頭
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡市・美濃山瓦窯跡群 奈良時代8世紀の瓦窯跡4基が見つかる 1基は窖窯から平窯に改修

2012年11月03日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センター(向日市)は1日、八幡市美濃山古寺の「美濃山瓦窯(がよう)跡群」の調査で、奈良時代の瓦窯跡4基が見つかったと発表した。
 瓦窯跡は美濃山廃寺北東にあり、昨年度の調査で確認された。
 4基のうち北端の1基(最大幅1・6m、長さ13m)は窖窯から平窯に造り替えられた。 窖窯として8世紀前半に造られた後、奥に掘り進む形で瓦を置く畦状の「有畦(ゆうけい)」を設けるなどし、2度にわたって改修した跡があった。
 平窯は窖窯より熱効率が良く、8世紀半ば以降瓦生産のため普及した。 美濃山廃寺以外でもこの窯の瓦が使われており、供給先の拡大により構造変化の必要性があったと考えられる。
 窯の内部からは軒丸瓦が見つかり、模様や土質が、北西約5kmの志水廃寺の出土物と一致した。
 瓦窯跡群からはほかに、同じ8世紀前半の窖窯1基と、8世紀後半に新たに造られた平窯2基が見つかった。
 現地説明会は3日午後2時から開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 美濃山
 女郎花遺跡

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする