正午雑談:殉職の定義×学者
理化学研究所の笹井芳樹博士が亡くなって3週間、
3週間前は色んな人がいろんなコト言っていましたけど、そのころ気になった言い回しを見たんでちょっと書きます、
「笹井氏の自殺は殉職だ」
ってカンジの文章ですけど、コレ書いた方は意味を理解して言葉を使ったのでしょうか?
言葉「自殺」「殉職」の意味+笹井博士が優れた科学者であることへ敬意ある発言なのかなと。
「殉職」=職業・仕事の職分・信念を護り全うするために死ぬこと、または一生を懸けること
殉ずる、とは信念や仕事を「全うするために」死ぬこと一生を懸けることです。
全うするって言うのは「成し遂げる」って意味になります、
で、気づかなくちゃいけない問題は、
↓
自殺することは「全うする」といえるのか?
たとえば150年前の日本では「切腹」という死刑がありました、
切腹は「自刃」とも言いますが、イコール「自裁」自ら裁きを下すという意味です。
そこには自身の生命を今そのとき終わらせることでプライドや誇り、家族、家名、国家など何か「護る」対象がある。
自裁=「護る」対象がある自殺
ってことになるんですけど「自裁」と「殉ずる」は意味が近くて異なる言葉です。
「殉ずる」=信念や仕事を全うするために懸けた人生を終えて死ぬこと、本来は他殺による死や病死・老衰など自然死も含まれる
自裁は自殺だけど、より広範囲の死のありかたが「殉ずる」です。
だから「殉職」も本来の意味は自殺や他殺・早逝だけではなく「全うするため懸けた人生を終える」なので自然死なども含みます。
そんなワケで「学問に殉じた生涯でした」なんて言い方も学者への弔辞には使われるし「技術の発展に殉じられた」なんても言います。
対して自殺は「自分で自分を殺して命を終えること」であり「全うする」「護る」という意味は含みません。
同義語は「自死」自ら死ぬこと、ただ目的の有無を問わずに自分から生命を放棄することが「自殺・自死」です。
ようするに「生きることが嫌になった辛い、だから死ぬ」という理由なら自殺であっても「殉ずる」にならない。
で、笹井博士の自殺は「職分を全うした死」殉職だったのか?
彼は「科学者」であり立場的には「学術指導者」です、
そして当時の職務は「STAP細胞の有無を確認する」ことによる「日本の科学に対する信頼回復」でした、
また「指導した後輩科学者のサポートと教導」であり「日本の学位および学術にある不信感を是正」することです。
このどれか一つでも全うした自殺だと言えるでしょうか?
笹井博士が優れた科学者といわれる代表的研究はES細胞です、
このES細胞は受精卵をベースに作ります、そのため生命倫理に抵触するという現実があります。
正確にいえばES細胞=受精卵または受精卵より発生が進んだ胚盤胞段階の初期胚を用いて作るんですけど、
この受精卵・胚細胞について、ずっと法律上もされている議論「胎児に生存権を認めるのか」に関わる問題があります。
「妊婦を殺害し胎児も死んだ場合、殺人されたのは2名か1名か?」
これが胎児の生存権の問題ですけど、感情論で言えば胎児=おなかの赤ちゃんにも命を認めたいですよね?
けれど胎児については医療からの問題点「堕胎」と「不妊治療」があるため、現行法は胎児の生存権を認めていません。
堕胎は母体の生命維持に必要とされる場合があります、また犯罪被害による望まない妊娠への救済措置として堕胎が行われる事もあります。
不妊治療は子供を望む=生命の誕生を叶えるためにありますが、そこには「試験管児」=受精卵を人工的に生み出す処置が行われています。
堕胎も不妊治療も「受精卵・胎児」が関わるわけです、これに生存権を法律上でも認めれば産科医療の現場で殺人罪が起きてしまうわけです。
こんなふうに受精卵は生命倫理の問題が大きな存在で、そのため受精卵由来のES細胞は倫理上の問題が大きいワケです。
実験段階ではマウスで試作していればいい、けれど医療現場の実用段階で人間の受精卵を使えば「他者の命を犠牲にする」ことに繋がる。
ようするに、
受精卵・胚細胞=人間になる存在
だから受精卵による治療方法は他人の命を犠牲にすることへの肯定になります。
これに対して山中教授のips細胞は「患者本人の体細胞由来」です、そのため上述の生命倫理の問題がクリアできている。
そしてSTAP細胞も実現可能ならips細胞と同じく生命倫理の抵触も無く、かつips細胞より簡単に作製できるという利点もあったワケです。
これが実現化すれば再生医療の現場、たとえば脳の神経細胞の劣化によるアルツハイマー病など細胞異常による難病治療の期待がされました。
これらの治療についてips細胞が臨床段階へ進み始めていますが、より作製が簡単なSTAP細胞には期待も大きく実験が世界中でされたわけです。
けれど現実にはips細胞の成功例は他に無く、論文もコピペ・剽窃だけではなく証拠として重要な画像までips細胞ではない映像だった。
こうした論文を「提出許可した」ことは学者として指導者として犯したらアウト、そして今回は個人の問題に留まりません。
剽窃とは「他者の文章・論を引用したのに引用元を明らかにせず自論のよう見せかける」ことです、
人が何か文章を書くとき、考えたり資料を調べたりと時間も能力も費やした結果として文章などが生まれるワケですが、
こうした頭脳から生まれた成果物を「知的財産」と言います、その一つとして「著作権」があり全ての著作=作りだしたものにある権利です。
こういう頭脳・思考から出来た産物はいわゆる「物体」としては無い、だから財産として見えなくて簡単に盗用する人も多いのが現状です。
だから今回も「コピペが悪いことと思わなかった」という発言もあったワケですが文章も財産です、無断使用すれば権利侵害として罪に問われます。
作者に私用許可を得るor「引用文献」「参考資料」として書名・作者名を明記する、そうすれば剽窃ではなく抵触することもありません。
それは創作物、文章や画像などに対する尊重であり作り手への敬意です、こうした謙虚な姿勢が無いものは「唯一本物」とはいえません。
こうした剽窃などは学者なら一番最初、大学入学の時や論文指導で教えられる作法で当然の義務でもあります。
これは指導する側は必ずチェックすべき点でもある、その論文が所属組織の外に提出するものなら組織自体のプライドに関わるコトです。
そして国外に発表するなら自国の学術界を代表する責任を負うことになります、それはプライドだけの問題ではなく信頼性がポイントです。
もし誤った論文を提出したなら国全体の学術レベルから技術力・国家の信頼度まで壊しかねない現状があります。
こういうの大袈裟って考える方も多いかもしれませんけど、知的財産は「物体」じゃない無形だからこそ信頼性は重要です。
まして科学的研究は検証実験にも経費と時間が掛かります、金も時間も費やす元ネタが正解ではなかったら信頼性はどうなりますか?
それが国を代表する機関に所属する研究者が発信したものであり、その研究者を指導したのは優秀だと信頼されていた科学者だったなら?
笹井博士は理化学研究所の代表的指導者の一人であり、優秀な科学者でした。
だからこそ周囲も彼を信頼してSTAP細胞の研究を推し、科学雑誌も掲載して世界中が新しい医療方法の希望に懸けたんですけど、
そういう彼だからこそ失った信頼も大きかったワケですが、でも信頼を取戻せる可能性も大きかったはずです。
彼に課されていたのは「日本の科学への信頼回復」と「日本の学位および学術にある不信感を是正」でした、
どちらも一個人には大きすぎる課題です、プレッシャーも罪悪感も大きすぎて当たり前のことだろなと。
でも彼だったら成し得る可能性があるからこそ課された現実だと思います、
彼がなぜこんな事件の渦中に踏みこんだのか?
嫉妬、虚栄心、自尊心、組織内または学術上の立場、いろんな要因の結果だろうなって推定しか出来ません、
それでも優れた科学者として生きていた現実は彼本人が積みあげた時間の成果です、
そして貶めてしまったことも彼の時間たちの結果で、彼自身が選んだ道です。
けれど彼は全うしないまま自殺しました、誰がその代りを出来るのか?
なんて問いに答えられる人間は今まだいません、
彼なら取り戻せかもしれない、けれど取戻す前に放棄してしまったのが現実です。
一個人としての問題がたとえあったとしても優れた科学者だったと賞賛されるのが彼の現実です、
その「優れた」才能に立場に彼が全うすべきことは大きくて、けれど途中で放りだしたことは彼の才能と尊厳のため同情すべきじゃない。
彼の死を「殉職」と言って同情する方は多いと思います、それは偽善者の詭弁です。
心から彼という人間と才能に敬意を払うなら、彼の全うできなかった死に「殉職」と名づけるのは残酷で傲慢な嫌味です。
名声や立場を得た人間が堕ちて死んだ事を同情で美化して飾りつける言葉を贈ることは相手に対する蔑みでしかない、憐憫という快楽です。
そうした安易な同情を彼が望んで自殺を選んだのだとしても、彼という唯一の可能性と才能と尊厳のために「殉職」なんて言うべきじゃない。
学問は「世界の尖塔」だから学者は世界の舳立っている、その可能性と希望は自身の才能と人格に負う責任で義務で権利だ。
そんな言葉があります、なにかの本にあった文章で恩師の台詞としても聴かされた言葉です。
そんなふうに自分は教わりましたけど、これは学者に限らず生きてる誰にも全ての立場で言えることかなって思います。
学問なんて言うとカタクルシイとかムズカシイとか言う人もいるけれど、
マンガ=文学(ストーリー)+美術学(イラスト)
ゲーム=文学(ストーリー)+美術学(イラスト)+工学(コンピューター)
ファッション=美術学(デザイン)+家政学(縫製・織工)+工学(織機・紡績)+数学(流行の確率など)
ってカンジに学問は身近から世界全体アレコレ作っているものです、
いわゆる「生きるにおいて」ある世界の有形無形を謎解きしてヨリ豊かに楽しくするためにあるのが学問、
世界の謎解き+構築するための存在が学問ってことです、だから「学問は世界の尖塔」だとも言われています、
笹井博士も「世界の尖塔」科学という学問の舳に立った一人です、
彼の可能性と希望は彼の才能と人格に負う責任で義務で権利、だからこそ今このとき自殺すべきじゃなかった。
才能と功績にプライドがあるからこそ挫折感も大きかったと思います、けれど挫折も才能で超えられる可能性もあったはず。
彼の才能と人格が踏みこんでしまった事件と課された現実を全うして、その先にあるはずの可能性を見つけるため生きたら良かった。
大きな可能性を全うできる科学者で人間だった、だから殉職じゃない挫けた卑怯者の死だ、
そう言ってあげるほうが才能と生きた時間と、彼の科学と命に対する敬意だと思います、
なんてコト想ったので休憩ナガラにだらっと書いてみました、笑
この一連の事件については色んなトコで色んな人が言ってますけど、哀しいなって思う意見も多いなと。
なにが?っていうと剽窃論文のNGが解ってない人多すぎる=大卒者の低レベルにびっくりしたのと、安易な同情論が多すぎるアタリ。
ここで小説を書き始めて他のWEB小説を読む機会も増えたけど、残酷エログロR18違反や盗作剽窃が「当たり前」な現状が事件の根底なんだろなと。
そういう系のヒトは「知らなかった」で赦される無罪とか思ってるみたいだけど、こんな↑結末もあるのが現実です。
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理化学研究所の笹井芳樹博士が亡くなって3週間、
3週間前は色んな人がいろんなコト言っていましたけど、そのころ気になった言い回しを見たんでちょっと書きます、
「笹井氏の自殺は殉職だ」
ってカンジの文章ですけど、コレ書いた方は意味を理解して言葉を使ったのでしょうか?
言葉「自殺」「殉職」の意味+笹井博士が優れた科学者であることへ敬意ある発言なのかなと。
「殉職」=職業・仕事の職分・信念を護り全うするために死ぬこと、または一生を懸けること
殉ずる、とは信念や仕事を「全うするために」死ぬこと一生を懸けることです。
全うするって言うのは「成し遂げる」って意味になります、
で、気づかなくちゃいけない問題は、
↓
自殺することは「全うする」といえるのか?
たとえば150年前の日本では「切腹」という死刑がありました、
切腹は「自刃」とも言いますが、イコール「自裁」自ら裁きを下すという意味です。
そこには自身の生命を今そのとき終わらせることでプライドや誇り、家族、家名、国家など何か「護る」対象がある。
自裁=「護る」対象がある自殺
ってことになるんですけど「自裁」と「殉ずる」は意味が近くて異なる言葉です。
「殉ずる」=信念や仕事を全うするために懸けた人生を終えて死ぬこと、本来は他殺による死や病死・老衰など自然死も含まれる
自裁は自殺だけど、より広範囲の死のありかたが「殉ずる」です。
だから「殉職」も本来の意味は自殺や他殺・早逝だけではなく「全うするため懸けた人生を終える」なので自然死なども含みます。
そんなワケで「学問に殉じた生涯でした」なんて言い方も学者への弔辞には使われるし「技術の発展に殉じられた」なんても言います。
対して自殺は「自分で自分を殺して命を終えること」であり「全うする」「護る」という意味は含みません。
同義語は「自死」自ら死ぬこと、ただ目的の有無を問わずに自分から生命を放棄することが「自殺・自死」です。
ようするに「生きることが嫌になった辛い、だから死ぬ」という理由なら自殺であっても「殉ずる」にならない。
で、笹井博士の自殺は「職分を全うした死」殉職だったのか?
彼は「科学者」であり立場的には「学術指導者」です、
そして当時の職務は「STAP細胞の有無を確認する」ことによる「日本の科学に対する信頼回復」でした、
また「指導した後輩科学者のサポートと教導」であり「日本の学位および学術にある不信感を是正」することです。
このどれか一つでも全うした自殺だと言えるでしょうか?
笹井博士が優れた科学者といわれる代表的研究はES細胞です、
このES細胞は受精卵をベースに作ります、そのため生命倫理に抵触するという現実があります。
正確にいえばES細胞=受精卵または受精卵より発生が進んだ胚盤胞段階の初期胚を用いて作るんですけど、
この受精卵・胚細胞について、ずっと法律上もされている議論「胎児に生存権を認めるのか」に関わる問題があります。
「妊婦を殺害し胎児も死んだ場合、殺人されたのは2名か1名か?」
これが胎児の生存権の問題ですけど、感情論で言えば胎児=おなかの赤ちゃんにも命を認めたいですよね?
けれど胎児については医療からの問題点「堕胎」と「不妊治療」があるため、現行法は胎児の生存権を認めていません。
堕胎は母体の生命維持に必要とされる場合があります、また犯罪被害による望まない妊娠への救済措置として堕胎が行われる事もあります。
不妊治療は子供を望む=生命の誕生を叶えるためにありますが、そこには「試験管児」=受精卵を人工的に生み出す処置が行われています。
堕胎も不妊治療も「受精卵・胎児」が関わるわけです、これに生存権を法律上でも認めれば産科医療の現場で殺人罪が起きてしまうわけです。
こんなふうに受精卵は生命倫理の問題が大きな存在で、そのため受精卵由来のES細胞は倫理上の問題が大きいワケです。
実験段階ではマウスで試作していればいい、けれど医療現場の実用段階で人間の受精卵を使えば「他者の命を犠牲にする」ことに繋がる。
ようするに、
受精卵・胚細胞=人間になる存在
だから受精卵による治療方法は他人の命を犠牲にすることへの肯定になります。
これに対して山中教授のips細胞は「患者本人の体細胞由来」です、そのため上述の生命倫理の問題がクリアできている。
そしてSTAP細胞も実現可能ならips細胞と同じく生命倫理の抵触も無く、かつips細胞より簡単に作製できるという利点もあったワケです。
これが実現化すれば再生医療の現場、たとえば脳の神経細胞の劣化によるアルツハイマー病など細胞異常による難病治療の期待がされました。
これらの治療についてips細胞が臨床段階へ進み始めていますが、より作製が簡単なSTAP細胞には期待も大きく実験が世界中でされたわけです。
けれど現実にはips細胞の成功例は他に無く、論文もコピペ・剽窃だけではなく証拠として重要な画像までips細胞ではない映像だった。
こうした論文を「提出許可した」ことは学者として指導者として犯したらアウト、そして今回は個人の問題に留まりません。
剽窃とは「他者の文章・論を引用したのに引用元を明らかにせず自論のよう見せかける」ことです、
人が何か文章を書くとき、考えたり資料を調べたりと時間も能力も費やした結果として文章などが生まれるワケですが、
こうした頭脳から生まれた成果物を「知的財産」と言います、その一つとして「著作権」があり全ての著作=作りだしたものにある権利です。
こういう頭脳・思考から出来た産物はいわゆる「物体」としては無い、だから財産として見えなくて簡単に盗用する人も多いのが現状です。
だから今回も「コピペが悪いことと思わなかった」という発言もあったワケですが文章も財産です、無断使用すれば権利侵害として罪に問われます。
作者に私用許可を得るor「引用文献」「参考資料」として書名・作者名を明記する、そうすれば剽窃ではなく抵触することもありません。
それは創作物、文章や画像などに対する尊重であり作り手への敬意です、こうした謙虚な姿勢が無いものは「唯一本物」とはいえません。
こうした剽窃などは学者なら一番最初、大学入学の時や論文指導で教えられる作法で当然の義務でもあります。
これは指導する側は必ずチェックすべき点でもある、その論文が所属組織の外に提出するものなら組織自体のプライドに関わるコトです。
そして国外に発表するなら自国の学術界を代表する責任を負うことになります、それはプライドだけの問題ではなく信頼性がポイントです。
もし誤った論文を提出したなら国全体の学術レベルから技術力・国家の信頼度まで壊しかねない現状があります。
こういうの大袈裟って考える方も多いかもしれませんけど、知的財産は「物体」じゃない無形だからこそ信頼性は重要です。
まして科学的研究は検証実験にも経費と時間が掛かります、金も時間も費やす元ネタが正解ではなかったら信頼性はどうなりますか?
それが国を代表する機関に所属する研究者が発信したものであり、その研究者を指導したのは優秀だと信頼されていた科学者だったなら?
笹井博士は理化学研究所の代表的指導者の一人であり、優秀な科学者でした。
だからこそ周囲も彼を信頼してSTAP細胞の研究を推し、科学雑誌も掲載して世界中が新しい医療方法の希望に懸けたんですけど、
そういう彼だからこそ失った信頼も大きかったワケですが、でも信頼を取戻せる可能性も大きかったはずです。
彼に課されていたのは「日本の科学への信頼回復」と「日本の学位および学術にある不信感を是正」でした、
どちらも一個人には大きすぎる課題です、プレッシャーも罪悪感も大きすぎて当たり前のことだろなと。
でも彼だったら成し得る可能性があるからこそ課された現実だと思います、
彼がなぜこんな事件の渦中に踏みこんだのか?
嫉妬、虚栄心、自尊心、組織内または学術上の立場、いろんな要因の結果だろうなって推定しか出来ません、
それでも優れた科学者として生きていた現実は彼本人が積みあげた時間の成果です、
そして貶めてしまったことも彼の時間たちの結果で、彼自身が選んだ道です。
けれど彼は全うしないまま自殺しました、誰がその代りを出来るのか?
なんて問いに答えられる人間は今まだいません、
彼なら取り戻せかもしれない、けれど取戻す前に放棄してしまったのが現実です。
一個人としての問題がたとえあったとしても優れた科学者だったと賞賛されるのが彼の現実です、
その「優れた」才能に立場に彼が全うすべきことは大きくて、けれど途中で放りだしたことは彼の才能と尊厳のため同情すべきじゃない。
彼の死を「殉職」と言って同情する方は多いと思います、それは偽善者の詭弁です。
心から彼という人間と才能に敬意を払うなら、彼の全うできなかった死に「殉職」と名づけるのは残酷で傲慢な嫌味です。
名声や立場を得た人間が堕ちて死んだ事を同情で美化して飾りつける言葉を贈ることは相手に対する蔑みでしかない、憐憫という快楽です。
そうした安易な同情を彼が望んで自殺を選んだのだとしても、彼という唯一の可能性と才能と尊厳のために「殉職」なんて言うべきじゃない。
学問は「世界の尖塔」だから学者は世界の舳立っている、その可能性と希望は自身の才能と人格に負う責任で義務で権利だ。
そんな言葉があります、なにかの本にあった文章で恩師の台詞としても聴かされた言葉です。
そんなふうに自分は教わりましたけど、これは学者に限らず生きてる誰にも全ての立場で言えることかなって思います。
学問なんて言うとカタクルシイとかムズカシイとか言う人もいるけれど、
マンガ=文学(ストーリー)+美術学(イラスト)
ゲーム=文学(ストーリー)+美術学(イラスト)+工学(コンピューター)
ファッション=美術学(デザイン)+家政学(縫製・織工)+工学(織機・紡績)+数学(流行の確率など)
ってカンジに学問は身近から世界全体アレコレ作っているものです、
いわゆる「生きるにおいて」ある世界の有形無形を謎解きしてヨリ豊かに楽しくするためにあるのが学問、
世界の謎解き+構築するための存在が学問ってことです、だから「学問は世界の尖塔」だとも言われています、
笹井博士も「世界の尖塔」科学という学問の舳に立った一人です、
彼の可能性と希望は彼の才能と人格に負う責任で義務で権利、だからこそ今このとき自殺すべきじゃなかった。
才能と功績にプライドがあるからこそ挫折感も大きかったと思います、けれど挫折も才能で超えられる可能性もあったはず。
彼の才能と人格が踏みこんでしまった事件と課された現実を全うして、その先にあるはずの可能性を見つけるため生きたら良かった。
大きな可能性を全うできる科学者で人間だった、だから殉職じゃない挫けた卑怯者の死だ、
そう言ってあげるほうが才能と生きた時間と、彼の科学と命に対する敬意だと思います、
なんてコト想ったので休憩ナガラにだらっと書いてみました、笑
この一連の事件については色んなトコで色んな人が言ってますけど、哀しいなって思う意見も多いなと。
なにが?っていうと剽窃論文のNGが解ってない人多すぎる=大卒者の低レベルにびっくりしたのと、安易な同情論が多すぎるアタリ。
ここで小説を書き始めて他のWEB小説を読む機会も増えたけど、残酷エログロR18違反や盗作剽窃が「当たり前」な現状が事件の根底なんだろなと。
そういう系のヒトは「知らなかった」で赦される無罪とか思ってるみたいだけど、こんな↑結末もあるのが現実です。
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