6/5(金) 12:51配信
婦人公論.jp
NHK連続テレビ小説『エール』で、窪田正孝さんが演じる主人公・古山裕一のモデルは、名作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)だ。先週から今週にかけては、レコード会社と契約しつつも曲が売れない苦悩、そして「船頭可愛いや」のヒットまでを描いた。『エール』の風俗考証をつとめ、遺族にも取材して古関の評伝を書いた刑部芳則さん(日本大学准教授)によると、「船頭可愛いや」のヒットを支えた歌手は、三浦環(柴咲コウさん演じる双浦環のモデル)ではないという。
※本稿は、評伝『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(刑部芳則・著/中公新書)の一部を、再編集したものです
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◆「そりゃ何かの間違いだって」
昭和5年(1930)に古関が結んだ専属契約は、月給200円を印税の前払いの形で支払うというものであった。これを聞いた妻・金子(二階堂ふみさん演じる古山音のモデル)は「そりゃ何かの間違いだって」と驚いている。昭和6年の小学校教員が月給45円から55円だから、驚くのも無理はない。
コロムビアの社員と違って毎日出勤せず、用があるときにだけ会社に行けばよかった。しかし、200円という高額な月給を受け取っている以上、古関はヒット曲を生み出さなければならなかった。強いプレッシャーを感じているうちに年は暮れ、昭和6年を迎えた。
専属契約後の一曲目は、昭和6年5月に郷里を題材にした「福島行進曲」と決まった。ライバル会社のビクターは、昭和4年に佐藤千夜子の「東京行進曲」(作詞・西条八十、作曲・中山晋平)で22万9200枚というヒットを出していた。全国各地の地名をつけた小唄や行進曲など、新民謡と呼ばれるジャンルがブームだったのだ。
◆誘われて流行歌の作詞家へ
この流行に乗って古関が上京前に作曲したのが「福島行進曲」である。作詞の野村俊夫(中村蒼演じる村野鉄男のモデル)は、福島民友新聞社の記者をしていたが、古関に誘われて流行歌の作詞家へと転向する。
古関より5歳年上の野村は、少年時代によく遊んだ仲である。生家の魚屋は、古関が小学校に入学するまで呉服店の向かいにあった。野村は福島民友新聞社に大正15年(1926年)に入社。古関は福島県内の川俣銀行に勤務していたころ、『福島民友新聞』の「コドモのページ」に寄せられる童謡の詩に曲をつけて紙面に発表する仕事もしている。野村との関係から古関はその仕事をするようになり、社員のような扱いを受けていた。
「福島行進曲」は リズムを刻む伴奏が曲調を決めている。この曲の裏面には「福島小夜曲(セレナーデ)」を入れることを希望した。昭和4年に福島で竹久夢二展が開かれたとき、「福島夜曲」と題する12の民謡調の歌に水墨彩色の絵が添えてあったものを目にし、それに感動して作曲した。ポルタメントのような滑らかな歌唱が際立つ曲である。
この2曲を両面にしたレコードは、昭和6年6月に発売された。6月15日に福島市の日野屋商店蓄音器部でレコード発売記念楽譜抽選会が行われ、20名に自筆の楽譜を贈呈している。古関は「二曲の吹込直しする事数回到底満足するに到らず再三オーケストレイシヨンを変へて、今度幾分意に満ちたものが出来上がり発表する事になつた次第です」という感謝の言葉を寄せている。
だが、古関自身が「私の最初のレコード『福島行進曲』『福島小夜曲』は、期待していたほどの成績は上げられなかった」というように、ヒットはしなかった。古関は流行作曲家の厳しさを感じたのである。
同郷の野村俊夫とは以降もともに曲をつくることになる。2人がつくった曲を同じく同郷の歌手・伊藤久男(山崎育三郎さん演じる佐藤久志のモデル)が歌うことになるのは、しばらく後のことだ。
◆鳴かず飛ばずの二人の取材旅行
コロムビアの専属作曲家となってから3年が経ってもヒット曲は出なかった。昭和9年4月、コロムビアの作家室で作詞家高橋掬太郎(きくたろう)(ノゾエ征爾演じる高梨一太郎のモデル)と話していたら、「何処(どこ)か取材旅行してヒット・ソングを作ろう」ということになった。高橋も昭和6年の「酒は涙か溜息か」の大ヒット以来、鳴かず飛ばずであった。
日帰りで茨城県の潮来(いたこ)を訪れた。二人きりで土浦から船に乗り、出島や一二橋などの水郷地帯を見て回った。一週間して高橋から「利根(とね)の舟唄」と「河原すすき」の歌詞を渡されている。高橋によれば、「潮来から佐原へ渡る途中だった。もう黄昏に近い大利根の流れを、流行の『島の娘』をうたい乍(なが)ら、小舟を漕いで行く若い男がいた。その歌声を聞いて、私達は作詩作曲の想いが湧いたのだった」という。
古関は、春の景色から秋を想起するのは難しかったが、「ひっそりとした潮来や静かな木々の影を映す狭い水路を思い浮かべると、私にはすぐにメロディーが浮かんだ」という。作曲が完成して編曲を奥山貞吉に依頼するときには、「間奏のメロディーには是非尺八を使ってください」と注文している。
昭和9年7月に発売されると、10万枚には達しなかったが、初のヒット曲となった。古関は高橋と「取材してよかったね」と喜びあっている。高橋も「古関裕而は、この一作で、流行歌への将来が展けた」と述べており、「利根の舟唄」は両者にとって忘れられない一曲となったのである。
◆「うぐいす歌手」のブームに乗って
「利根の舟唄」を当てた古関と高橋掬太郎は、第二のヒットを狙った。昭和10年、高橋は古関に瀬戸の民謡をイメージして「船頭可愛いや」という歌詞を渡した。
この詩を見た古関は、最初はクラシック音楽として作曲しようとした。しかし、民謡好きのディレクターが民謡風に作ることを推したため、日本民謡の良さを生かし、瀬戸内海をイメージして長調の田舎節で曲をつけた。間奏には再び尺八を使っている。
「船頭可愛いや」を歌った音丸(おとまる)は、麻布十番の下駄屋の娘であった。彼女が歌手デビューできたのは、得意の筑前琵琶歌がディレクターに認められたからである。
これより前には本名の永井満津子でレコードを吹き込んでいた。しかし、普通に出していたのでは売れないため、「うぐいす歌手」のブームに乗って、芸者のコスプレをさせた。芸名は「芸妓らしく音丸と名付けた。レコードは丸くて音が出る」という意味である。
レコード会社で流行歌を吹き込むには、原則として音楽学校を出ているか、花柳界で芸事を身につけているかであった。後者の芸者歌手は、美声の持ち主であったから「うぐいす歌手」と呼ばれた。さしずめ彼女たちは元祖アイドル歌手なのである。
ビクターには小唄勝太郎と市丸、コロムビアには藤本二三吉(ふみきち)、赤坂小梅、豆千代、ポリドールには新橋喜代三(きよぞう)、浅草〆香(しめか)、日本橋きみ栄、テイチクには美ち奴(みちやっこ)、キングには新橋みどりがいた。
昭和10年6月に発売した「船頭可愛いや」は、26万枚を売り上げる大ヒットとなった。古関がコロムビアに入社して、4年8ヵ月をかけてようやくつかんだ大ヒットであった。「船頭可愛いや」が大ヒットしたため、その後も古関と音丸の二人三脚はしばらく続いた。
◆三浦環が吹き込んだ「船頭可愛いや」
「船頭可愛いや」は、音丸を見出した民謡好きのディレクターの押しの強さがヒットにつながったといってよい。古関はクラシック歌謡として出したかったが、その方針で発売していたら、大ヒットにはならなかっただろう。
そのことはのちに現実となって証明されている。昭和14年にクラシック歌手三浦環が「船頭可愛いや」を吹き込んだのである。三浦は、大正時代から「蝶々夫人」のオペラ公演で世界的に認知されていた。その三浦が「船頭可愛いや」を聴き、「これは素晴らしい。ぜひ私も歌ってレコードに入れたい」と希望した。古関は「驚くと同時に欣喜雀躍」したという。
これを受けて古関は、三浦のために「月のバルカロール」という、コロラチュラ(彩色)・ソプラノにふさわしい歌も作曲している。バルカロールとは、イタリア語で船唄という意味である。
コロムビアのレコード盤は、流行歌は黒レーベル、クラシックは青レーベルに分かれていた。古関は「私の青盤レコードは二枚のみだが、その頃コロムビア芸術家としては最高の名誉であった」と述べている。三浦の二曲はヒットしなかったが、古関にとってはクラシックのレコードを出すことができた喜びで一杯であった。
刑部芳則