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交際相手の娘を“逆さづりし頭を浴槽に…”逮捕の31歳男「30回ほど暴行した」

2021年05月11日 14時18分03秒 | 事件・事故

5/11(火) 10:40配信

MBSニュース

去年、大阪市東成区のマンションで交際相手の当時5歳の娘に対し、手足を縛り、逆さづりにして浴槽の水の中に頭を浸けた疑いで、31歳の男が逮捕されました。

 暴行などの疑いで逮捕されたのは、大阪市東成区に住む会社員・末次一茂容疑者(31)です。警察によりますと、末次容疑者は去年5月、自宅マンションの浴室で、同居する交際相手の娘(当時5)に対して、手足を結束バンドで縛り、逆さづりにして、浴槽の水の中に頭を浸けるなどした疑いが持たれています。娘にけがはありませんでした。

 警察によりますと、去年6月の早朝、路上を娘が1人で歩いているところを目撃した通行人が警察に通報して、その後、事件が発覚したということです。

 警察の取り調べに対して、末次容疑者は容疑を概ね認めていて、「これまでに30回ほど殴る蹴るの暴行をした」と供述しているということです。警察は犯行に至った経緯を調べています。

 

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死亡スリランカ人女性、CT画像に白い影 名古屋入管、不適切対応の疑い

2021年05月11日 14時18分03秒 | 事件・事故
スクープ 上東麻子 和田浩明 
 
毎日新聞 2021/4/30 16:00(最終更新 4/30 22:06) 
 
名古屋出入国在留管理局(名古屋市)に収容され、死亡したスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)=家族提供
 
 名古屋入管に収容中の3月6日に死亡したスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)が緊急搬送された後、病院で受けた血液検査やCT検査の結果を毎日新聞は関係者から入手した。その分析を複数の医師に依頼したところ、医師らは「集中治療室での高度医療が必要なレベルで、もっと早く病院で治療を受けさせるべきだった」と指摘した。名古屋入管が適切な医療を提供していなかった疑いが濃厚になった。支援者によると、死亡した経緯に疑念を抱く遺族らが5月1日に来日し、事実関係の説明を入管側に求める。【和田浩明、上東麻子/デジタル報道センター】
 
医師「高度医療が必要なレベル」
 
 出入国在留管理庁がまとめた中間報告書などによると、ウィシュマさんは2021年1月中旬から嘔吐(おうと)や食欲不振、体重減少、体のしびれなどを訴え始め、「容態観察」のため監視カメラ付きの単独室に移された。健康上の理由で一時的に収容を解く仮放免や、外部病院での点滴などを求めたが認められなかった。
 
 3月6日午後2時7分ごろ、職員らが居室で脈拍がない状態であることを確認し、名古屋市の総合病院に緊急搬送された。同3時25分、死亡が確認された。
 
 入管側が衆院法務委員会の議員に示した司法解剖結果には「甲状腺炎による甲状腺機能障害により全身状態が悪化し、既存の病変を有する腎などの臓器不全が加わり死亡したとするのが考えやすい」と記されている。
 
 ウィシュマさんの緊急搬送後に病院で行われた血液検査やCT検査の結果を毎日新聞は入手し、複数の医師に分析を依頼した。
 
 甲状腺専門医の和田修幸(のぶゆき)・横浜関内わだクリニック院長は「甲状腺機能のデータがないので、具体的なことは判断しかねますが」と前置きしつつ、「一般的にみてかなり

25歳女性の顔殴りケガさせ髪を掴んで車へ…そのままホテルまで連れ回したか 弁当店経営の47歳男逮捕

2021年05月11日 14時11分14秒 | 事件・事故

5/11(火) 11:20配信

東海テレビ

愛知県津島市で10日、知人女性の顔を殴るなどしケガを負わせた上、無理やり車に押し込み連れ回したとして47歳の経営者の男が逮捕されました。

 逮捕されたのは弁当店を経営する愛西市の八木一美容疑者(47)です。

 八木容疑者は10日午後6時半ごろ、津島市内の駐車場で知人女性(25)の顔などを殴りケガを負わせた上、そのまま髪を掴んで車の助手席に押し込み、市内のホテルまでおよそ24分間連れ回した監禁致傷の疑いが持たれています。

 女性は顔に打撲などのケガをしました。

 女性は車からホテルに逃げ込み、従業員からの通報で事件が発覚しました。調べに対し、八木容疑者は容疑を認めています。

 警察によりますと、八木容疑者は女性の親族との間に金銭トラブルを抱えていたということで、警察は事件の経緯を詳しく調べる方針です。

 

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25歳女性の顔殴りケガさせ髪を掴んで車へ…そのままホテルまで連れ回したか 弁当店経営の47歳男逮捕

2021年05月11日 14時11分14秒 | 事件・事故

5/11(火) 11:20配信

東海テレビ

愛知県津島市で10日、知人女性の顔を殴るなどしケガを負わせた上、無理やり車に押し込み連れ回したとして47歳の経営者の男が逮捕されました。

 逮捕されたのは弁当店を経営する愛西市の八木一美容疑者(47)です。

 八木容疑者は10日午後6時半ごろ、津島市内の駐車場で知人女性(25)の顔などを殴りケガを負わせた上、そのまま髪を掴んで車の助手席に押し込み、市内のホテルまでおよそ24分間連れ回した監禁致傷の疑いが持たれています。

 女性は顔に打撲などのケガをしました。

 女性は車からホテルに逃げ込み、従業員からの通報で事件が発覚しました。調べに対し、八木容疑者は容疑を認めています。

 警察によりますと、八木容疑者は女性の親族との間に金銭トラブルを抱えていたということで、警察は事件の経緯を詳しく調べる方針です。

 

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性暴力の相談23%増の5万件 コロナ影響、過去の被害話す例も

2021年05月11日 14時05分22秒 | 事件・事故

5/11(火) 12:04配信

共同通信
 丸川珠代男女共同参画担当相は11日の記者会見で、全国のワンストップ支援センターに寄せられた2020年度の性暴力や性犯罪の相談件数が、前年度比23.6%増の5万1141件だったと発表した。新型コロナウイルス感染拡大で在宅時間が長くなった影響で、同居人などから受けた性暴力の相談が増加。以前に受けた被害を話す事例も目立つ。

 丸川氏は会見で「性暴力は決して許されず、長い時間にわたって傷も残る。(被害が起きる)背景にも目を向けながら対策を進めたい」と述べた。

 各都道府県のセンターが受けた電話や面接、メールなどの相談を集計。月別では今年3月が5291件で最多だった。

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差別に打ち勝つ精神の力

2021年05月11日 13時05分42秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽人は誰かに教えることを通して、自分の理解不足に気付いたり考えを整理したりする。

▽教えることは、二度学ぶことだ-思想家・ジュベールの言葉

▽研さんを重ねる人の<学び>が、深く豊かなものとなる。

▽人生100年時代。

豊かな人間関係が幸福を築く鍵の一つとなる。

▽分断の根底にあるのは、相手を知らないことからくる「恐れ」だ。

それは人と人の「差異」から生まれる。

▽差別と向き合うとは、人間の差異を理解し、それを尊重することだ。

▽対立が生じた時は互いを深く傷付ける。

そうならないためにも、日頃から相手を敬い、考えを認め合っていけるかが重要だ。

日頃から相手を敬い、考えを認め合っていけるかが重要だ。

ゆえに家庭が、社会の分断を乗り越える「訓練の場」となる。

▽私たちは、自分一人では本当の意味で人間になることはできない。

人間性とは、他者に心を開き、分かち合うことで磨かれる。

私たちは皆、家族や仲間と共に生きていく存在である。

▽21世紀の真の戦いは、文明と文明の戦いや、思想と思想、宗教と宗教との戦いではない。

「暴力」に対する「非暴力」の戦いである。

(非暴力は「魂の力」だ-ガンジー)

それこそが「野蛮」に対する「文明」の戦いである。

▽人間は、単なる肉体的な存在ではなく、何より精神的な存在だ。

私たちは精神の力によって、本当の意味で勝利を手にすることができるのだ。

▽人の心は繊細なもので、ともすると「心のバリア」とつくり、閉ざしてしまう。

だから、多くの人に「自分から話し掛ける」努力を続けてきた。

▽人は怒りに身を任せると思考がまひする。

人間は、知恵と精神の力で、どんな困難も乗り越えることができる。

▽人は「賢く」あるべきだ。

▽黒人に対する「恐怖」生んだ「憎悪」

これがアパルトヘイトをつくりだした。

▽相手を知れば、「恐れ」はなくなる-米国で黒人初の国連大使・アンドリュー・ヤングさんの言葉


人生を生きるには、修練が必要です

2021年05月11日 12時56分33秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
フローレンス・ナイチンゲールの言葉
 
看護の仕事は、快活な、幸福な、希望にみちた精神の仕事です。
 
犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、本当の看護婦といえる。
 
あなた方は進歩し続けない限りは退歩していることになるのです。
目的を高く掲げなさい。
 
物事を始めるチャンスを、私は逃さない。
たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある。
 
天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である。
 
人生を生きるには、修練が必要です。
「まずまずの目的、過ち多き行為、ぐらぐらしている意志」のうちに人生をうやむやに過ごしてはなりません。
 
女性よ自立しなさい。
自分の足で立ちなさい。
 
看護を行う私たちは、人間とは何か、人はいかに生きるかをいつも問いただし、研鑽を積んでいく必要がある。
 
何かに対して「使命」を感じるとはどういうことであろうか?
それは何が「正しく」何が「最善」であるかという、あなた自身がもっている高い理念を達成させるために自分の仕事をすることであり、もしその仕事をしないでいたら「指摘される」からするというのではない、ということではなかろうか。
これが「熱中するということ」であり、自分の使命を全うするためには、誰もがもっていなければならないものなのである。
 
愛というのは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること。
 
 
最も上手に人をおさめるのは、自分の責任下にある人々を愚かに甘やかすのではなく、その人のためになること、その人にとって最高の利益になることを、親身になって考える人です。
 
恐れを抱いた心では、何と小さいことしかできないことでしょう。
 
価値ある事業は、ささやかな、人知れぬ出発、地道な労苦、向上を目指す無言の、地道な苦闘といった風土のうちで、真に発展し、開花する。
 
 
フローレンス・ナイチンゲール
英語名 Florence Nightingale
生年月日 1820年5月12日
没年月日 1910年8月13日
享年 90(歳)
国籍 イギリス
出生地 トスカーナ大公国フィレンツェ
職業 看護婦、社会起業家、統計学者、看護教育学者
別名 「近代看護教育の母」
名言 私は地獄を見た。私は決してクリミアを忘れない。
1820年5月12日、裕福なジェントリ(地主貴族層)の家庭に生まれる。
 
幼少期は外国語、ギリシア哲学、数学、天文学、経済学、歴史、美術、音楽、絵画、心理学、詩などの教育を受ける。
 
慈善訪問の際に貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにし、人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。
 
1851年、精神を病んだ姉の看護をするという口実でドイツの病院付学園施設に滞在。その後、看護師を志してロンドンの病院に就職。父は就職に理解を示したが、母、姉は反対であった。
 
婦人病院長となったナイチンゲールは各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護師の必要性を訴える。当時、看護師は病人の世話をする単なる召使として見られていた。
 
1854年にクリミア戦争が勃発。負傷兵の扱いが悲惨な状況にあり、戦時大臣はナイチンゲールに戦地への従軍を依頼。
 
ナイチンゲールはシスター、職業看護師の女性を率いて後方基地にある病院へ赴任。看護師の総責任者として活躍する。その働きぶりから「クリミアの天使」、夜回りを欠かさなかったことから「ランプの貴婦人」と呼ばれる。
 
ナイチンゲールの尽力により、病院内を衛生的に保つことが命令され、42%まで跳ね上がっていた兵舎病院での死亡率は5%まで低下する。死因のほとんどは病院内の不衛生による感染症であった。
 
1856年、クリミア戦争終結。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、偽名を使用して帰国。
 
帰国後、病院の状況分析を開始。数々の統計資料を作成し、改革を目的とした各種委員会に提出。保健制度および陸軍全体の組織改革につながる。英国ではナイチンゲールは統計学の先駆者とも称されている。
 
陸軍・政府関係者もナイチンゲールの超人的な仕事ぶりと相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢に敬意を示した。
 
1910年8月13日、フローレンス・ナイチンゲールはバーンレーンの自宅で90年の生涯を閉じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「男の性欲は女の2倍」は本当か?脳の構造から根拠を探る

2021年05月11日 08時08分41秒 | 医科・歯科・介護

2020/2/21 ehope-med.

人間の性本能は、生殖本能が進化した「新しい本能」

これまでのコラムで、本能の働きに習慣や環境が大きく影響することを述べてきましたが、それには脳の「大脳辺縁系」という部分が大きくかかわっています。大脳辺縁系というのは、記憶を蓄積する海馬、好き嫌いや怒りといった感情にかかわる扁桃体、快や不快にもとづいて行動につなげる帯状回などからできています。

なかでも扁桃体は「情動の中枢」と呼ばれているくらいで、好き嫌いや快不快などの原始的な感情を生み出す役割を果たしています。この扁桃体から発せられた快不快の情報を帯状回が受け取り、その情報を大脳へ伝え、行動に結びつけていくという仕組みになっているのです。

つまり大脳辺縁系は、記憶など高度な機能の一部を担っていますが、総じて好き嫌い、快不快といった単純な感情、いわゆる情動をつかさどる「情動脳」といえます。

ちなみに情動とは、好き嫌い、快不快、恐怖や怒り、喜び、悲しみなどの単純だけれど強い感情のこと。また、その〝動物的〟な感情から引き起こされる身体反応(恐怖感から顔や体がこわばったり、緊張したときに汗をかくなど)のことをいいます。

そして、人間のもつ本能のうち食欲や性欲、運動欲といった本能はこの情動脳である大脳辺縁系の支配を受けているのです。食欲や性欲は人間にとって基本的な欲望であり、生存するために必要な低レベルの原始的本能ですが、それと同時に、好きか嫌いか、快か不快かといった情動反応にもとづくところが大きい、中レベルの情動本能でもあります。同じ空腹を満たすのなら、自分の好きなものやおいしいものを食べたほうが満足度は高いし、脳のよろこびも大きいのです。

とりわけ人間の場合、もはや性欲に生殖本能が占める割合は低く、それよりも現代の人間は生殖とは無関係に「発情」することが可能になっています。好きな女性をイメージするといった抽象的な想像や思考によっても、情動が刺激されて性欲が高まる――これは人間のもつかなり高度な情動的(習性的)本能の働きによるものといえるでしょう。

その点で、人間の性本能は生殖本能を進化させた新しい本能でもあり、他の動物がもたない人間独自の本能ともいえます。

男性は「空腹のとき」に欲情しやすい!?

性本能ほど理性のコントロール下に置きにくい欲望はないようで、人間の性的欲求を脳レベルで解析してみるとおもしろいことがわかります。脳で性欲をつかさどっているのは間脳にある視床下部、その中の第一性欲中枢と第二性欲中枢と呼ばれる2つの器官です。

第一性欲中枢はセックスを欲する機能を受け持ち、第二性欲中枢はセックスを行うための機能を担当しているといわれています。

このうち第一性欲中枢については、その大きさは男性が女性のほぼ2倍あるのです。このことから「男は女の2倍性欲が強い」と指摘する人もいますが、みなさんはどう思われるでしょう。大いに納得する人もいれば、首をかしげる人もいるかもしれません。2倍かどうかは別にしても、一般に男性のほうが女性より性への欲求も期待も大きい傾向にあるのは事実のようです。

また、セックスを行う機能を受け持つ第二性欲中枢についてですが、その場所は男性の場合、摂食中枢(食欲をうながす神経細胞)のそばにあるのに対して、女性のそれは満腹中枢(食欲を抑える神経細胞)の近くにあります。これも、とてもおもしろい男と女のちがいです。

つまり、男は空腹のときに〝欲情〟しやすいのです。「食べたい」ときは「したいとき」でもあって、男は食も性も一緒くたになっている側面がある。

それに対して、女性はお腹が満たされて精神的にも落ち着いたときにセックスに意識が向く〝優雅な〟傾向があると考えられます。どっちにしても食欲と性欲は非常に近い関係にあるのです。

失恋したときに「メシが喉を通らない」ほど食欲が低下することがあるのも、そのことに関係しているのかもしれません。失恋によって性本能の情動が鈍る。すると隣人である食本能も低下してしまうというわけです。また逆に、女性がしばしば失恋のストレスを食べることで解消する場合があるのは、食欲に性欲の代行をさせているのかもしれません。

「草食系男子」「肉食系女子」の誕生は、豊かな現代に適応した結果

そう考えると、世の中に「草食系男子」や「肉食系女子」が増えているのもうなずけます。男性の場合は、食欲が満たされれば摂食中枢の働きは鈍くなり、それにつれて性欲も減退します。すなわち食にも性にもガツガツしない、淡白な草食系男子の誕生です。逆に、豊かな社会では女性は満腹中枢が満たされますから、男とは反対に性欲が高まる傾向にある。今、男性より女性のほうが何かと元気なのはそのせいかもしれません(肉食系女子も増えているようです)。

草食系男子も肉食系女子も、変化する環境に適応しようとしている結果であり、その点では当然の成り行きともいえます。ただ、その結果、生殖能力の衰えが顕著になっていくのは国の活力維持のためにも、人類の存続のためにも(?)困ったものです。

たとえば男性の精子の数はあきらかに減少傾向にあることが確かめられていますし、元気なはずの女性にも不妊症が増えています。女性の不妊症はダイエットの行きすぎなどが引き金になるケースが多いようですが、拒食症にまで至るような無茶で過剰なダイエットが摂食中枢やら満腹中枢やら食本能の正常な作動を狂わせ、その狂いが「隣人」である性本能にも影響してくるのは十分に考えられることです。

豊かで食うに困らない。晩婚化の進展や独身者の増加で子孫を後世に残す機会が減っている。おまけに異性獲得のための競争も減っている。そんな社会環境のもとでは、人間の生殖能力が低下し、性本能も衰える傾向にあるのは致し方ないことなのかもしれません。

※本コラムは、『健康はあなたの体が知っている』(サンマーク出版)を一部抜粋・編集したものです。

この記事の執筆者
院長
永野 正史
三井記念病院内科腎センター勤務、敬愛病院副院長を経て2003年 練馬桜台クリニック開業。


ウイグルの歴史

2021年05月11日 08時04分02秒 | 社会・文化・政治・経済

ウイグル  は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族とその国家、及びその後裔と称する民族(あるいは現今の政治的必要性から自ら「ウイグル」と名乗る民族を指す。
現在は中国の新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに居住しており、人口は約1千万人、テュルク諸語のウイグル語を話すムスリムである。

モンゴル帝国時代のウイグル駙馬王家
13世紀にモンゴル高原でチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンは帰順した。
チンギスは彼の帰順を歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)を娶らせ駙馬(キュレゲン)とした。
またバルチュク国王はジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。
以後のモンゴル帝国でウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る。
モンゴル帝国および元朝では、ウイグル人官僚はモンゴル宮廷で重用され、帝国の経済を担当する大臣も輩出した。この時代、ウイグル王国地域を指して「ウイグリスタン(Ūyghristān)」と呼ばれた。

清による占領
1755年、清の乾隆帝は康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する[73]。
1757年2月、乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた。
1759年、ジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した。
清朝政府は、1762年、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷いた。ウイグル族の住むこの地域は清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)と呼ばれた。その一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された。
このベグ官人制は1884年の新疆省まで存続した。
こうしたペグ制度の復活については、「柔構造的支配」の現れとして、清朝が満洲人による政府であり、漢化しながらも漢民族ではない「異民族」として自らを意識したうえで、チベット・モンゴル・ウイグル(新疆)との間に「多重文明圏」を形成し、華夷秩序に基づく支配構造ではなく、むしろ対等な文明共存関係であり、「柔構造」を有していたもされる。
なお、イリ将軍府は辛亥革命後に廃止されている。
回民蜂起
19世紀後半には、清朝統治に対する不満から回民(ムスリム)による中国全土での回民蜂起が発生する。
1863年3月17日、水定鎮近郊の三道河の回民200人がイリ地方の九つの砦の一つである塔勒奇(タルチ)城を攻撃したが、他の砦の清軍によって鎮圧された。
しかし、翌1864年6月3日にはクチャの回民が蜂起し、砦を陥落させる。
1864年(同治3年)6月26日にウルムチの回族妥明と索煥章らが指導して、反乱を起こす。回族蜂起軍はマナス、ウスを陥落させ、10月3日にウルムチの要塞を陥落させ、妥明は清真王と称した。
1864年6月26日には、ヤルカンドでも回族住民が蜂起した。
19世紀半ばには中央アジアをめぐって大英帝国とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されており、すでにイギリスは1849年には英領インドを維持するためパンジャブ地方へ進出し、ロシア帝国は1853年にシルダリヤに進出していた[88]。
ロシア帝国は、1865年3月にタシュケント(現在のウズベキスタンの首都)へ侵攻、1867年にトルキスタン総督府を設置し、中央アジアへの進出基地とした。
1868年にはサマルカンドを占領してブハラ・ハン国を占領する。
1868年3月にはコーカンド・ハン国はロシアとの間に保護条約を締結した。1868年、イギリスは新疆・チベット(当地方での英国の分離工作は一世期以上の長きに渡る)をロシアとインドとの緩衝地帯にする為、特使を派遣してヤクブ・ベク政権を承認し、以後ヤクブ・ベクはイギリスから武器供給を受ける。1870年、ロシアもヤクブ・ベク政権を承認した。
1870年(同治9年)、ヤクブ・ベク軍はトゥルファンを攻略して新疆東部と河西回廊の連絡を断ち、白彦虎率いる陝西省・甘粛省の回民蜂起軍の残党を吸収し、1871年末までに妥明軍を破ってウルムチ・マナス・ピチャンを占領した。
そのため同年にはロシアがイリ地方への進駐に踏み切った。しかしヤクブ・ベク政権とロシアの関係は良好で、1872年には通商条約を締結して貿易を開始した。1874年にはイギリスも通商条約[88]を結んで、大使を交換している。
さらにオスマン帝国のスルタンのアブデュルアズィズからアミールに封ぜられ、軍事教官の派遣を受けた。
なおロシアは1873年にはヒヴァ・ハン国を占領。1874年にはトルキスタン軍管区を設置。ロシアの保護国になったコーカンド・ハン国で内乱が起こるとロシア軍は1876年2月19日に侵攻、コーカンド・ハン国を滅ぼした。

海防・塞防論争
しかし、1874年の日本による台湾出兵を受けて、沿海部各省は「台湾急なるを以て、西征を停解せん」と提議し、1875年(同治13年・光緒元年)、新疆出兵について朝廷内で争議(海防・塞防論争)が発生した。
李鴻章ら海防派は新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張した。
塞防派である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、また新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張した。
清朝の戦後処理とロシアとの交渉[編集]
イリ地方は、1871年以来ロシアの支配下にあったが、ロシアはクリミア戦争のため、清の進出に対抗できなかった[102]。
1879年、清は9カ月にわたるロシアとの交渉の末、10月2日、黒海沿岸のリヴァディアにあるリヴァディア宮殿で十八カ条条約(リヴァディア条約)に調印した。
しかしこの条約はロシア側の意向に沿ったもので、イリ西部とイリ南部をロシアに割譲し、ハミ、トルファン、ウルムチなど7カ所にロシア領事館を設置し、さらにロシアとの免税貿易を許可するという内容だった。
清側では朝野の議論は沸騰し、左宗棠はロシアとの開戦を主張した。
結局、外交を担当した崇厚は西太后によって死刑を宣告されるが、イギリスが清側にロシアを怒らせないようと崇厚の死刑恩赦を進言、清は恩赦するにいたる。
ロシア側は清との戦争を準備し、軍艦を黄海へ派遣し、他方、左宗棠はイリ攻撃作戦を練ったうえで1880年4月、粛州を出発、ハミにいたり、ロシアと清の関係は緊張する。
しかし、左宗棠は召還されロシアとの和平交渉が開始される、1881年2月、イリ条約が締結され、清朝がザイサン湖周辺地方すなわちホルゴス河以西のイリ西部をロシアに割譲し、イリの東側は清に返還されること、また賠償金も減額されロシア側へ900万ルーブルを支払うこと、粛州とトルファンにロシア領事館を設置することで合意された。
この条約は不平等条約ではあったが、中央アジア地域の国境が画定され、この時の国境線は現在に至る。
新疆省設置
イリ返還をうけて清朝は1884年に新疆省を正式に設置し、イリ地方を含めた新疆全体に中国本土並みの行政が布かれた。
清が自治権を認める従来のベグ官人制を廃止したため、ウイグル人は自治権を失い直接支配下に入った。
その後1940年代半ばまで新疆省省長は当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任した。新疆省政府役人は当地を「桃源郷」になぞらえたといわれる。
歴史学者の王柯は、その後、新疆省指導者の交代も省政府内部の暗殺やクーデタによるもので、「この種の政権の交代劇においても、ウイグル人は何の役割も果たせなかった」という。
他方、入植した漢人人口が当時3,000人程度であった新疆南部では、省政府の人事権が及ぶのは県レベルまでであり、県レベル以下の行政運営はウイグル人が当たった。
ウイグルの呼称の復活
西トルキスタンには、1881年の露清イリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方を始めとする新疆北西部出身者が多数いた。
また、ジュンガル時代に入植された農耕民の末裔であるタランチ集団は清朝への反乱(ヤクブ・ベクの乱など)に加担していたため、イリ地方が清朝へ返還されると、清朝政府の報復処罰を恐れ、多くのタランチはロシア領のセミレチエ州などに移住している。
日露戦争において、それまで国際的には小国とみなされていた日本がロシア帝国に勝利すると、それに触発されて1908年には青年トルコ人革命が起きる。
青年トルコ人革命以降、汎テュルク主義がトュルク系民族に大々的に流行し、そうしたテュルク主義に影響されを受けていたナザル・ホジャ(Na§ar khv±ja ‘Abd al-TMamad)というタランチ集団の記者が1913年にアルトゥシャフルを「私たちの祖先の祖国であり文明的なウイグルの祖先たちの舞台であり、イスラーム戦士たちが前世紀に強大なテュルクのハーン国を樹立した場所」と表現している。
またナザル・ホジャは1914年からは「Uyghur Balasï(ウイグルの子)」という署名をするようになっており、ムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されていた。
アルマ・アタ会議[編集]
1921年、カザフスタンのアルマアタ(アルマトイ)において開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者のセルゲイ・マローフ(Сергей Ефимович Малов)が「ウイグル」という民族名称の復活を発議し、同大会はこれを受けて、「ウイグル」民族名称を自ら名乗ることを決定した。
このときの「ウイグル民族」とは、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であるが、「ウイグル」という民族呼称が復活されるまではタランチ集団やカシュガル人、トゥルファン人など、民族名称というよりも祖先または自身の出身地を自称していた。
この会議はソ連による中央アジア「民族的境界画定」政策の準備作業の一つとみなされているが、「ウイグル」呼称がこのときに発案されたのでなく、それ以前にもムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されるようになっていた。
なお、マローフは中国甘粛地方のサリグ・ウイグルの研究者でもあった。
サリグ・ウイグルは16世紀初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた仏教徒のことを指す。
中華民国時代[編集]
1911年、辛亥革命が中国内地で発生する。新疆にも革命派が入り、1912年1月、イリの革命派が蜂起し、イリ将軍でモンゴル旗人の広福を臨時都督とする政府が樹立された。
清の宣統帝が退位すると、ウルムチ知事であった楊増新が新疆省長・督軍となる。
雲南出身の楊増新は新疆を独立王国にしようとつとめた。
他方、オスマン帝国は汎トルコ主義を中央ユーラシアに広めようとしており、トルコ人のアフメト・ケマルが新疆に派遣され、師範学校を設立し、この学校がカシュガルの民族主義運動の中核となった。
人民解放軍によるウイグル接収
詳細は「新疆侵攻」を参照
1949年、国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収を行うために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。
毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。
しかし、8月27日、北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ(Ehmetjan Qasim)、アブドゥルキリム・アバソフ(Abdulkerim Abbas)、イスハクベグ・モノノフ(Ishaq Beg Munonov)、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフ(Dalelkhan Sugirbayev)らイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。
首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。
9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。
12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された新疆侵攻)。
ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族やシベ族、回族で構成された東トルキスタン共和国軍(イリ民族軍(英語版))を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。
1950年、伊吾で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した(伊吾の戦い)。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。
1990年代
1990年にはウイグル人住民のデモに対して武装警察が発砲し、15名(数十名とも)が射殺されるバリン郷事件がおきている[123]。
1991年にはウイグル人作家トルグン・アルマスの著作『ウイグル人』が、「大ウイグル主義的」「民族分裂主義的」であることを理由に発禁処分となり、著者も軟禁状態に置かれた。
バリン郷事件以降、反政府とみられるテロ事件も相次いでいる。1997年にも大規模なデモが発生し、鎮圧に出動した軍隊と衝突して、多くの死傷者を出したグルジャ事件が発生している。
1996年、中国人民政治協商会議全国委員を務める実業家のラビア・カーディルが政治協商会議で漢族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行うが公安当局の間で問題となりラビアは1997年に全ての公的役職から解任された。
2000年代
上海協力機構
中国政府は、中央アジア諸国の在外ウイグル人社会が、ウイグル民族運動の拠点となっていることを警戒し続けており、1996年には上海ファイブ、2001年には上海協力機構を設立し、国内のイスラーム原理主義勢力の伸張を警戒するロシアや中央アジア諸国と共に、分離主義、イスラーム過激主義に対する国際協力の枠組みを構築した。
また、2001年9月11日の米国での同時多発テロ事件以降、中国政府はブッシュ政権の唱える「対テロ戦争」への支持を表明し、ウイグル民族運動と新疆におけるテロを結びつけて、その脅威を強調している。
公教育における漢語使用の義務化
2003年には、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、漢語の使用が中国政府によって義務付けられた。
2005年、ライス米国国務長官の訪中を控え、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、2005年3月14日に「外国での病気療養」を理由にラビア・カーディルを釈放。
ラビアは米国に亡命し、のち世界ウイグル会議議長に選出され、2006年にはノーベル平和賞候補にもなった。

 


茨城一家殺人事件と世田谷一家殺人事件の類似点

2021年05月11日 08時02分11秒 | 事件・事故

茨城「ポツンと一軒家殺人」は世田谷一家殺人事件と酷似している

林の中の一軒家で起きた惨劇 証拠多数なのに捜査は難航
2019年10月11日 friday

|雑木林に囲まれた小林さんの自宅は、現在も茨城県警によって規制線が張られており、近づくことができない
惨劇から1週間以上が経っても、犯人逮捕の糸口はなかなか見えてこない――。

9月23日午前0時40分頃、茨城県境町の民家で、この家に住む会社員の小林光則さん(48)と妻でパート従業員の美和さん(50)が、2階の寝室で殺害された。2階の子供部屋で寝ていた長男(13)と次女(11)も重軽傷を負っている。

小林さん宅はレタス畑とヘラブナの釣り堀に囲まれた鬱蒼(うっそう)とした林の中にあり、外から見ると、家があるかどうかもわからない。さらに一番近くの民家まで約300mも離れており、周囲に街灯もなく、まさに「ポツンと一軒家」だった。

「事件当時の深夜は月明かりもなく、真っ暗な中で、犯人は鍵のかかっていない1階の窓から侵入し、2階へ直行して犯行に及びました。室内に土足の跡はありませんでしたが、家屋の外には小林さん一家のものではないと思われる足跡や血痕のついたスリッパが発見されました。犯人は土地勘があるか、下見に訪れたことのある人物であることは明らかです。しかも長男がマスクと帽子姿の犯人を目撃しています。小林さん夫婦は上半身をメッタ刺しにされて失血死しており、家の中が物色された跡もなかったため、動機は怨恨の可能性が高い。発生当初はすぐに容疑者が確保されるだろうとみられていました」(全国紙担当記者)

農家が多い、のどかなエリアで起きた凶行。夫妻の交友関係は限られており、怨恨が動機なら容疑者が絞られる。

だが、捜査は極めて難航している。

被害者夫婦を知る近所の住民が語る。

「あの家は美和さんの実家で、一家は10年ほど前に埼玉県から引っ越してきました。私は小林さんが息子さんと仲良くキャッチボールをする姿を何度も見ています。小林さんはこの地区の区長も一生懸命やっていました。小林さん夫婦が誰かに恨まれているなんてことはこの地域で聞いたことがありません」

発生から1週間、のべ500人以上の捜査員が投入され、聞き込みなどが行われたが、小林さん夫婦が恨みを買うようなトラブルは判明していない。

元警視庁刑事で、現在は防犯コンサルタントの吉川祐二氏はこう指摘する。

「今後は現場の鑑識活動と町内やその近辺に設置された防犯カメラの解析が捜査のカギを握ると思います。あと、次女に対して使用された催涙スプレーの入手ルートがわかれば、犯人の情報につながるかもしれない。これからはそんな地道な捜査の積み重ねになるでしょうね。ふとしたはずみで犯人が割れるということもありえますが、現時点では長期化するという見立てのほうが強いと思います」

有力情報がない中で、現地を取材する報道陣が、あの「迷宮入り事件」を連想しているという。

「小林さんは胸を刺され、奥さんは首を刺されたことによる失血死で、長男は両足と腕を切られ、次女は催涙スプレーをかけられています。傷つける手口が相手によって違っていることからも、『世田谷一家殺人事件』と似ているという話は関係者の間で出ています」(吉川氏)

’00年に4人が命を奪われ、いまだ犯人が検挙されていない「世田谷一家殺人事件」。この未解決事件も発生当初、動機は怨恨だと考えられており、マフラーやトレーナーなど、犯人が現場に残した遺留品が数多くあった。また被害者宅は公園用地の中にあったため、近隣の民家はほとんど転居しており、目撃者は皆無に等しかった。

立正大学文学部社会学科教授(犯罪学)の小宮信夫氏が語る。

「確かに今回の事件と世田谷の事件は、どちらも被害者宅が1軒だけ周囲の民家からポツンと離れていることが共通点です。ただし、世田谷の場合は家族全員が殺害されました。残虐性という点では違っている。犯人にとって子どもたちはターゲットではなく、夫婦のどちらかに強い殺意を持っていた。特に奥さんが警察に通報していることから、夫の小林さんの殺害に過度に意識を集中させていたと考えられます。これが今後の捜査のポイントになると思います」

凶悪事件の迷宮入りを二度と許してはならない。

就寝中に襲われ殺害された小林美和さん。主婦として家事をこなすかたわら、郵便局でパートの仕事もしていた

小林さん夫婦の遺体は2階寝室の布団の上で発見された。1階で寝ていた長女(21)は犯人に遭遇せず、無事だった
『FRIDAY』2019年10月18日号より