昨日は、久しぶりに手賀沼方面へ行く。
取手市内では、写真は限られるので、趣向を変える意味で我孫子駅へ下車した。
当初は、松戸へ行く予定だったが、急に思い立ったのである。
以前家人と鰻(うなぎ)を食べてたあるたことが店の前を通過し、長い坂を下る。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/bc/ab68a0dc117d2573d7946bbaec2bbb7d.jpg)
手賀沼公園では、二組の人が将棋をしていて、それを覗きみている人たちもいた。
白鳥は岸辺に二羽寄ってきて草を食べていた。
公園内に入る白鳥もいた。
空はどんよりと曇っていて、5月とは思えない陰影を帯びた風光である。
テントを張って、その前で赤ちゃんを抱いて話をしているママさんが二人いた。
読書をしている高齢者も居て、長閑な雰囲気だった。
釣り人は一人だけだった。
板のような不安定な船に立って漕いでいる人もいた。
ボートに乗っている人影はなかった。
手賀沼の帰りに、志賀直哉が一時期居住した場所まで行く。
現存する書斎
コンクリート部分が母屋跡
志賀直哉が一時期居住した場所から、時計で確認したら、我孫子駅まで徒歩18分ほどだった。
我が家と取手駅間の距離と想われた。
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手賀沼(てがぬま)は、千葉県北部の柏市、我孫子市、白井市、印西市にまたがる利根川水系の湖沼。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。
手賀沼の水は農業用水として利用されているほか、釣りや内水面漁業も行われ、コイやフナなどが漁獲されている。
2003年(平成15年)の漁獲量は218トン。
また、千葉県立自然公園「印旛手賀自然公園」にも指定されており、住民生活や観光・行楽でも重要な存在である。
我孫子市は環境経済部に「手賀沼課」という専門部署を設けている。湖畔では柏・北柏ふるさと公園、手賀沼公園、手賀沼親水広場・水の館、鳥の博物館、山階鳥類研究所、手賀沼遊歩道、手賀沼ビオトープ、五本松公園、手賀沼フィッシングセンター、手賀の丘公園、蓮の群生地といった施設がある。手賀沼公園では足漕ぎ式のスワンボートを楽しむ事ができる。
1970年代からは東京都の都心のベッドタウンとして一部区画が開発され人口が増加した。JR常磐線と成田線、国道6号と国道356号が分岐する交通の要衝となっており、千葉県東部(印西市)と茨城県南部(取手市)へ接続している。
2015年(平成27年)3月に上野東京ラインが開業し、我孫子駅 - 東京駅間は最速38分で結ばれるようになった[3]。自然豊かな住宅都市として発展している。
江戸時代には水運が栄え、特に東端の布佐地区は利根川の主要な河岸であった。大正時代から昭和初期にかけて我孫子は「北の鎌倉」と称されることもあり、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチなど多くの著名な文化人が居を構えたり別荘を持ったことで白樺派の拠点となっていた。
学術・文学
白樺派
志賀直哉 - 一時期居住。当地で代表作の一部が執筆される。
武者小路実篤 - 一時期居住。現在も居住地が残る(非公開)。
柳宗悦 - 嘉納治五郎の甥に当たる。友人の文化人に当地居住を勧めた。
嘉納治五郎 - 我孫子市に別荘を構える。柳宗悦に当地居住を勧めた。
杉村楚人冠 - 大正13年より我孫子市に永住。
瀧井孝作 - 一時期居住。当地で代表作「無限抱擁」を執筆。
中勘助 - 一時期居住
柳田國男 - 一時期居住
山下清 - 当地の駅弁屋「弥生軒」に身を寄せ暮らしていた。
北畠八穂 - 深田久弥とともに一時期居住
バーナード・リーチ - 柳宗悦邸に窯を築く。
現在の千葉県我孫子市本町・白山・緑・寿付近にあたる。
本陣・脇本陣が置かれた大規模な宿場町。
小金宿 - 我孫子宿 - 取手宿
小金宿〜我孫子宿は二里二十一町(約10km)。
我孫子宿〜取手宿は一里十八町(約6km)。
我孫子宿と取手宿の間には利根川があり、利根川の我孫子宿側(取手の対岸側)には、間の宿として青山宿があった。旧道筋には枡形も残されている。江戸時代初期の水戸街道古道は、我孫子から取手へは向かわずいったん成田方面に向かい、布佐で利根川(旧鬼怒川)を渡河して竜ヶ崎を経由、若柴宿に向かっていた。そのため、水戸街道古道は、取手宿・藤代宿を通過していない。
宿場
千住宿 - 新宿 - 松戸宿 - 小金宿 - 我孫子宿 - 取手宿 - 藤代宿 - 若柴宿 - 牛久宿 - 荒川沖宿
- 中村宿 - 土浦宿 - 真鍋宿 - 中貫宿 - 稲吉宿 - 府中宿 - 竹原宿 - 片倉宿 - 小幡宿 - 長岡宿 - 水戸宿