ネガティブ・ケイパビリティ(負の能力)
どうにも答の出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力。
性急に証明や理由を求めずに、不可確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力。
通常は、能力(ケイパビリティ)という物事の対処能力、つまり問題を「解決する」という積極的(ポジティブ)な能力を、私たちは想像する。
しかし、「ネガティブ・ケイパビリティ」は、難しい問題に拙速な理解で解決策を見つけた気になるのではなく、解決をいったん棚上げ、より発展的な深い理解に至るまで、じっくり模索し続ける-そうした<中ぶらりの状態>を持ちこたえる能力だ。
これは、19世紀に活動したイギリスの詩人ジョン・キーツが、手紙につづったことで生まれた言葉だ。
自然の美や人間の心を純粋に捉えるためには、物事を色眼鏡で見たり、性急に決め付けたりしないことが大事だという思いから見いだし、表した概念だ。
その後、同じイギリスのビオンという精神科医が、精神医学にも必要な能力として「ガティブ・ケイパビリティ」に注目し、世に知られるようになった。
なぜ、この概念が大事かというと、現実社会も人間も、その実像は「どうにも答えの出ない」ことばかりだからだ。
人間は、そうしたあいまいな状態に耐えるのがにが苦手だ。
「白か黒か」という両極端の二項対立で、はっきりした端的な答を求めたくなる。
ところが、実際の現実というものは「白」と「黒」との間にある、「灰色」ばかりのはずなのだ。
だから、単純明快で手軽な解答というのは、何か薄っぺらで、ともすると物事の理解が「分かったつもり」の浅いところにとどまってしまう。
腰を据えないと、そうした灰色のところにある問題を、きちんと見据えていくことができないからだ。
性急な<解決>を棚上げすれば、じっくり周りを見る余裕も出てくる。
先入観もとり払われる。
そうすると、いろな人の、いろいろな発言に左右されることがなくなる。
多くの受賞歴をもつ小説家であり、臨床40年の精神科医が
悩める現代人に最も必要と考えるのは「共感する」ことだ。
この共感が成熟する過程で伴走し、
容易に答えの出ない事態に耐えうる能力がネガティブ・ケイパビリティである。
古くは詩人のキーツが
シェイクスピアに備わっていると発見した「負の力」は、
第二次世界大戦に従軍した精神科医ビオンにより再発見され、
著者の臨床の現場で腑に落ちる治療を支えている。
昨今は教育、医療、介護の現場でも注目されている。
セラピー犬の「心くん」の分かる仕組みから
マニュアルに慣れた脳の限界、
現代教育で重視されるポジティブ・ケイパビリティの偏り、
希望する脳とプラセボ効果との関係……
せっかちな見せかけの解決ではなく、
共感の土台にある負の力がひらく、発展的な深い理解へ。
【目次】
●はじめに――ネガティブ・ケイパビリティとの出会い
精神医学の限界
心揺さぶられた論文
ポジティブ・ケイパビリティとネガティブ・ケイパビリティ
【第一章】キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」への旅
・キーツはどこで死んだのか! ?
・燃えるような愛の手紙
・キーツの短い生涯
・文学と医師への道
・経済的困窮の中で「受身的能力」へ/ほか
【第二章】精神科医ビオンの再発見
・精神分析におけるネガティブ・ケイパビリティの重要性
・ビオンの生涯
・第一次世界大戦の戦列へ
・精神分析医になる決意
・ベケットの治療から発見したこと/ほか
【第三章】分かりたがる脳
・セラピー犬、心くんの「分かる」仕組み
・マニュアルに慣れた脳とは?
・画一的思考が遅らせたピロリ菌の発見
・分かりたがる脳は、音楽と絵画にとまどう
・簡単に答えられない謎と問い
【第四章】ネガティブ・ケイパビリティと医療
・医学教育で重視されるポジティブ・ケイパビリティ
・終末期医療で医師には何が必要か
・ネガティブ・ケイパビリティを持つ精神科医はどうするか
・小児科医ウィニコットの「ホールディング」(抱える)
・人の病の最良の薬は人である
【第五章】身の上相談とネガティブ・ケイパビリティ
・日々の診療所から
・八人の受診者
・身の上相談に必要なネガティブ・ケイパビリティ
【第六章】希望する脳と伝統治療師
・明るい未来を希望する能力
・楽観的希望の医学的効用
・山下清を育んだもの
・ネガティブ・ケイパビリティを持つ伝統治療師
・精神療法家はメディシンマンの後継者/ほか
【第七章】創造行為とネガティブ・ケイパビリティ
・精神医学から探る創造行為
・芸術家の認知様式
・小説家は宙吊りに耐える
・詩人と精神科医の共通点
【第八章】シェイクスピアと紫式部
・キーツが見たシェイクスピアのネガティブ・ケイパビリティ
・理解と不理解の微妙な暗闇
・紫式部の生涯
・『源氏物語』の尋常ならざる筋書き
・源氏を取り巻く万華鏡のような女性たち/ほか
【第九章】教育とネガティブ・ケイパビリティ
・現代教育が養成するポジティブ・ケイパビリティ
・学習速度の差は自然
・解決できない問題に向かうために
・研究に必要な「運・鈍・根」
・不登校の子が発揮するネガティブ・ケイパビリティ/ほか
【第十章】寛容とネガティブ・ケイパビリティ
・ギャンブル症者自助グループが目ざす「寛容」
・エラスムスが説いた「寛容」
・ラブレーへ
・モンテーニュへ
・つつましやかな、目に見え難い考え/ほか
●おわりに――再び共感について
共感の成熟に寄り添うネガティブ・ケイパビリティ
共感豊かな子どもの手紙
内容(「BOOK」データベースより)
「負の力」が身につけば、人生は生きやすくなる。セラピー犬の「心くん」の分かる仕組みからマニュアルに慣れた脳の限界、現代教育で重視されるポジティブ・ケイパビリティの偏り、希望する脳とプラセボ効果との関係…教育・医療・介護の現場でも注目され、臨床40年の精神科医である著者自身も救われている「負の力」を多角的に分析した、心揺さぶられる地平。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
帚木/蓬生
1947年、福岡県生まれ。作家、精神科医。東京大学文学部、九州大学医学部卒業。九大神経精神医学教室で中尾弘之教授に師事。1979~80年フランス政府給費留学生としてマルセイユ・聖マルグリット病院神経精神科(Pierre Mouren教授)、1980~81年パリ病院外国人レジデントとしてサンタンヌ病院精神科(Pierre Deniker教授)で研修。その後、北九州市八幡厚生病院副院長を経て、現在、福岡県中間市で通谷メンタルクリニックを開業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)