インドで医師1200人死亡 コロナ感染、ワクチン急務

2021年05月30日 21時07分10秒 | 医科・歯科・介護

5/30(日) 15:34配信


共同通信

インド西部ムンバイ近郊で新型コロナウイルス患者を診察する医師=24日(ロイター=共同)

 【ニューデリー共同】新型コロナウイルス感染の急拡大が続くインドで、医師約1200人が感染によって死亡したことが分かった。医師会が30日までに明らかにした。今月16日だけで医師50人が死亡しており、早期のワクチン接種などモディ政権に対応を求める声が強まっている。

インドのホテルでPCR検査を受ける日本人男性

 インドでは5月中旬までに医師の6割以上がワクチンを接種したが、死亡した医師らはほとんどが接種していなかったという。医師会関係者は地元メディアに「ワクチンが重症化を防ぐことは立証されている。できるだけ早く全員に接種すべきだ」と訴えた。

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沙林(サリン)偽りの王国」

2021年05月30日 10時52分51秒 | 社会・文化・政治・経済

帚木 蓬生 (著)

信じる心が噓と虚像に翻弄され起きてしまった平成最悪の事件の全貌。医師であり小説家である著者にしか描きえない書き下ろし巨編。

未曾有のテロ発生直後も、医療従事者たちは闘った――。医師でもある著者、入魂のレクイエム。
信じる心が、嘘と虚像に翻弄され起こった平成最悪の事件(テロ)。判断を誤ればさらに人が死ぬ――。

あの日、未知の毒物と闘ったのは医療従事者たちだった。医師であり作家である著者が、膨大な資料と知識を土台に、想像力と熱意を注ぎ込み、「オウム」の全貌を描いた書き下ろし巨編。小説にしか到達できない深い鎮魂が、あなたを包み込む。

沙林(サリン)偽りの王国」

<解脱>という思考停止と、その中で起こったさまざまの事件の過程について、克明に描かれいる。
この世はら離れたところに安寧の世界を見いだすという<解脱>など、ありえない。
本作で描いた教団の姿も、自分以外は悪という、両極端な二分の世界だった。
この作品を書いて、改めて思った。
重要なのは、土着の日常生活から得られる、「生活者としての常識感覚」なのだと。
現実の日常は、割り切れないことばかりだ。
明日は雨が降ってくれと思っても、なかなか降らない。
思い通りにいかない。
それが世の中だという感覚が大事なのだ。
それが見に付いている人は、あまりに端的でハッキリしたものを、どこか「うさん臭い」感じるのではないだろうか。
そうした常識感覚があれば、安易な<解脱>などに飛び付くこともないと思う。
そういう意味で、「うさん臭さ」を捉える感覚は奥深い感覚だ。
しかし、初めから終わりまで全部おかしかったはずなのに、多くの若い人が極端な思想に飛び付いたわけだ。
きちんとした現実に向き合うためには、さりげなく続ける毎日の実生活に、全力を注ぐことが大事なのかもしれない。

著者のデビュー時の3作品(「白い夏の墓標」、「十二年目の映像」、「カシスの舞い」)は、それぞれが鮮烈なサスペンス小説でした。その後、或る目的があって読んだ「やめられない―ギャンブル地獄からの生還」以来になりますが、「沙林 偽りの王国」(帚木蓬生 新潮社)を読み終えました。
 主人公は、九州大学医学部、衛生学の教授・沢井。彼が、1994年6月に発生した松本サリン事件についてマスコミからコメントを求められたことをきっかけに、否が応にも一連の事件に巻き込まれていきます。その事件とは、勿論、坂本弁護士一家拉致・殺害事件、地下鉄サリン事件、他を引き起こした「オウム真理教」の一連の犯罪であり、私のような<平成>の時代を生き抜いた人間たちにとっては、ディティールはともかく、多くは連日の報道によって知り抜いたと思い込んでいた事件にあたります。著者はその「犯罪」について、ほぼ時系列に沿って、架空の存在である医師の視点から世界を俯瞰し、用いられた多くの「化学兵器」、その歴史、臨床についてのインテリジェンスを駆使して大事件を再構築しています。また、米国の<911>を語るのと等しいほどのインパクトある「犯罪」について、医師としての透徹した視点から、今までにないパースぺクティブを与えることにも成功していると言っていいでしょう。歴史的な事件である以上、そして現実には今尚この事件の後遺症によって苦しむ多くの人々がいることは知った上で相応しい表現とは言えないのかもしれませんが、一つの<フィクション>としてその筆致はスリリングであり、完成された小説は優れたページ・ターナーだったと言っていいと思います。そのことは、第十五章・「教祖出廷」から始まり第十八章・「証人召還」までの法廷場面において、沢井対オウムの弁護人たちによる丁々発止のやり取りによってそのピークに達します。
 犯罪を糊塗せんがためにより大きな犯罪を繰り返す「オウム真理教」の教祖は、巨大なエゴを持ちながら、0/100で思考することを得意とする"悪しきもの"たちを駆り集め、あたかも<合体ロボ>のような超巨大なエゴによる王国を作り上げ、まるで依存性者がその進行性の病に気づかないまま置き去りにされるように崩壊していきます。何故なら、彼らは心の中に機動隊の持つ鳥籠に入れられたカナリアを持つことができなかったから。
 そして、1995/3/20について、村上春樹が多くの関係者、犠牲者をインタビューすることで再構築した「アンダーグラウンド」が持つ哀しみが、今回は、精神科の医師・帚木蓬生によってカメラ・アングルを変え、化学兵器に於ける毒性と治療という観点から事件が再検証されていくことで、その哀しみの深さが倍加しています。このコロナ禍の中、パオロ・ジョルダーノが「僕は忘れたくない」と言って与えてくれた提言のように、私たちもまた平成の時代のこの国に於いて、正に「偽りの王国」が造られようとしたことを忘れないように心に刻みたいと思います。
 何故、その哀しみの深さがより深く私の心に浸透していくのでしょう?それは、繰り返される薬学についての名前、言葉が無機的である分、その哀しみを拒否しているように思えることにあるのでしょう。逆説の中にあるよきシンパシーを深く受け止めたいと思います。よって、これは犯罪としては一旦の解決をみた事件だとしても、「原罪」は今尚ここに存在しており、苦しみを抱える多くの犠牲者、その家族は深い哀しみを抱えたまま残されています。そして、この物語はただそのことについての"レクイエム"としてここにあります。
 「やめられない・・・」によって多くの気づきを得た私は、再度作者からの新しいメッセージを受け取ったような気がしています。

 

一人の神経内科医の眼を通してオウム真理教による前代未聞な犯罪を、今この時代に、改めて展望するドキュメントである。地下鉄サリンを知らない人にも伝えたいという作家の想いが伝わる力作。

 敢えて帚木蓬生が、自分の医師として作家としての所見を、モデルとなる医師の研究(巻末の参考文献リストが圧巻!)に重ね合わせ、現代史に黒い爪痕を残したオウム真理教の様々な事件を纏めたものである。

 全体に記録としての執筆の意図か感じられるため、小説というエンターテインメント性からは遠のいたイメージで、かつ医学者・科学者としての分析が加えられたページは普通の小説読者としては腰が引ける。難解な記述は飛ばし読みしても構わないと思う。他に、当時の新聞報道や、裁判記録などにも触れる部分など、今、改めて全貌を多角的に振り返る興味が読者を駆り立てることで、意外に本作はスピーディに読み進んでしまう。

 およそ四半世紀前、日本ばかりか世界をも騒然とさせた地下鉄サリン事件。まるで全容の見えなかった松本サリンと併せて、あの事件は、当時を知る者の個人史にすら影を落とすようなショッキングな出来事であったと思う。未解決の国松警察庁長官狙撃事件を含め、ほとんどの教団関係者の死刑を急いでしまったことで、事件の一部が意図的に闇に葬られた疑いも強く残る。政治や日本の構図に現在も眠る闇、という地点にまで繋がる何ものかにすら、今、この時、このコロナ禍の時代にも、疑心を懐かざるを得なくなる。

 実は松本&地下鉄サリン事件対策に、ぼくは実は仕事で関わったことがある。本書は改めて当時の世情や危機管理状況を振り返る良い機会となったため、夢中になって読んだ次第。

 地下鉄サリン事件を扱った本としては、村上春樹の『アンダーグラウンド』と『アフター・ダーク』が忘れ難い。二冊とも、事件に巻き込まれた多数の人たちのインタビューで構成された本だったが、今回の帚木蓬生作品は、あくまで医学者としての眼で全体を俯瞰し、総体的・歴史的にオウム真理教がやったことの全体像を見直す形で、本書を綴っている。この事件は、関わった人の数や時間だけでも相当なボリュームを持つゆえに、両作家にとってのどの作品も相当の集中力と準備時間を窺わせる苦心の作となっているように思う。

 村上春樹が人間のもたらした闇を、帚木蓬生は化学テロという歴史の汚点の解明者として、またどちらも最後には人間の命、という一点に焦点を絞っているからこそ、犠牲者たちの上に連ねられた文章の重みがあまりに痛々しく、そして凄まじい。この事件を知らない世代にも、語り継がれるべき「時代の記録」として、本書もまた重要な意味合いを、今後長年月に渡り、持してゆくことになるだろう。

 

この分野についてのドキュメンタリー映画を一本作ったのでこの分野の本には大体目を通した、裁判の傍聴もしたが、鳥瞰する力、ディテールへの踏み込み、科学的知識には舌を巻いた。非常に正確にフラットな視点で書かれている。そしてこの著者の脳みそ、特にRAMの機能はどうなっているのだろうと思った。洪水のような情報を捌く圧倒的な情報処理能力、それをわかりやすく伝える能力に圧倒的な力量が必要だがそれには常人離れした能力がいると思ったからだが、この著者はそれを成し遂げているからだ。オウム真理教を知りたい人はまずこの本から読むべきだと思う。ドキュメンタリーの制作前に読みたかった。

 

 

 

 


小説「襲来」

2021年05月30日 10時11分09秒 | 社会・文化・政治・経済

帚木 蓬生 (著)

安房国で漁師をしていた見助は、京に遊学していたという僧侶と出会う。僧はやがて日蓮と名を改め、鎌倉に草庵を構えて辻説法を始める。見助も鎌倉まで従い、草庵で日蓮の身の回りの世話をするようになる。その後日蓮は、他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。

幕府が法華経を用いなければ、国内の災害が続き他国からの侵略を受けると主張した。日蓮の目となり耳となるために、見助は九州の対馬に一人で赴くことに……。


安房国の港町・片海で漁師をしていた見助は、京の寺々に遊学していたという僧侶と出会う。僧はやがて日蓮と名を改め、鎌倉の松葉谷に草庵を構えて辻説法を始める。見助も鎌倉まで従い、草庵で日蓮の身の回りの世話をするようになる。

その後日蓮は、他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。幕府がこのまま邪宗を放置し法華経を用いなければ、国内の災害が続き他国からの侵略を受けると主張した。

そして見助は日蓮の予言に伴い、九州の対馬に一人で赴くことになる。日蓮の目となり耳となるために。鎌倉から京の都までは陸路、京から博多さらに壱岐・対馬までは海路だ。遥か遠国の地への、見助の苦難の旅が始まった。

 

内容(「BOOK」データベースより)

鎌倉で辻説法をしていた僧侶・日蓮は、やがて他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。幕府が法華経を用いなければ、国内の災害が続き他国からの侵略を受けると予言したのだ。日蓮に仕えていた見助は、その耳目となって予言を確かめるため、九州の対馬に一人で赴くことに…。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

帚木/蓬生(ははき・ほうせい)
1947年福岡県小郡市生まれ。東京大学文学部仏文科卒業後、TBSに勤務。退職後、九州大学医学部に学び、精神科医に。’93年に『三たびの海峡』(新潮社)で第14回吉川英治文学新人賞、’95年『閉鎖病棟』(新潮社)で第8回山本周五郎賞、’97年『逃亡』(新潮社)で第10回柴田錬三郎賞、’10年『水神』(新潮社)で第29回新田次郎文学賞、’11年『ソルハ』(あかね書房)で第60回小学館児童出版文化賞、’12年『蝿の帝国』『蛍の航跡』(ともに新潮社)で第1回日本医療小説大賞、’13年『日御子』(講談社)で第2回歴史時代作家クラブ賞作品賞、’18年『守教』(新潮社)で第52回吉川英治文学賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

「法華経」には、現実を見つめる智慧が詰っている。
「煩悩即菩提」などの「即」は、「とりもなおさず」「「それがそのまま」という意味で、「白か黒か」と単純に二分せず渾然一体の分かちがたいものとして捉える考え方だ。
これは、大変な英知だと思う。
「生死即涅槃」などもある。
迷いとさ悟り。
生と死。
これは別でありながら単純には分けられない、というのだ。
とてもスケールの大きな思想であり、理にかなっている。
よくあんな昔に、このような智慧に行き着きついたなと思う。
日蓮について最も素晴らしいと感じたのは「即是道場」という、法華経の思想を実践したことだ。
今、生きているこの世の、この場こそが「道場」(仏道修行をする場)なのだという考え方だ。
この言葉を知った時は嬉しかった。
日蓮という人は、インドから伝わった仏教を探求し抜き、世界的な視野を備えていた。
当時は誰も持っていなかった「国土に対する意識」を、日本で初めて持った宗教人だったのではないだろうか。
それ一つとっても、本当に大きい人物だと思う。
世の中には、今、腰を据えてじっくり考える前に吐かれる、とげとげしい言説がはびこっている。
しかしながら、今この場所こそおが「道場」。
目の前の日常生活こそが自分を磨く場、という感覚を持つ人は、あまりそういった極端な言葉を使わず、そうした言葉に惑わされることもないのでは、と思う。
今後も、社会の難しい状況は続きそうだが、ともかく、めげずにいくことだ。
めげなければ、何か進む力が湧いてくる。
「頑張れ」は、どこか人ごとに聞こえる言葉だが、「めげちゃいかんよ」「めげずにいきましょう」は、私も専売特許のように患者さんに語っている。


小説「襲来」

2021年05月30日 10時11分09秒 | 社会・文化・政治・経済

帚木 蓬生 (著)

安房国で漁師をしていた見助は、京に遊学していたという僧侶と出会う。僧はやがて日蓮と名を改め、鎌倉に草庵を構えて辻説法を始める。見助も鎌倉まで従い、草庵で日蓮の身の回りの世話をするようになる。その後日蓮は、他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。

幕府が法華経を用いなければ、国内の災害が続き他国からの侵略を受けると主張した。日蓮の目となり耳となるために、見助は九州の対馬に一人で赴くことに……。


安房国の港町・片海で漁師をしていた見助は、京の寺々に遊学していたという僧侶と出会う。僧はやがて日蓮と名を改め、鎌倉の松葉谷に草庵を構えて辻説法を始める。見助も鎌倉まで従い、草庵で日蓮の身の回りの世話をするようになる。

その後日蓮は、他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。幕府がこのまま邪宗を放置し法華経を用いなければ、国内の災害が続き他国からの侵略を受けると主張した。

そして見助は日蓮の予言に伴い、九州の対馬に一人で赴くことになる。日蓮の目となり耳となるために。鎌倉から京の都までは陸路、京から博多さらに壱岐・対馬までは海路だ。遥か遠国の地への、見助の苦難の旅が始まった。

 

内容(「BOOK」データベースより)

鎌倉で辻説法をしていた僧侶・日蓮は、やがて他宗派への攻撃を強め「立正安国論」を唱える。幕府が法華経を用いなければ、国内の災害が続き他国からの侵略を受けると予言したのだ。日蓮に仕えていた見助は、その耳目となって予言を確かめるため、九州の対馬に一人で赴くことに…。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

帚木/蓬生(ははき・ほうせい)
1947年福岡県小郡市生まれ。東京大学文学部仏文科卒業後、TBSに勤務。退職後、九州大学医学部に学び、精神科医に。’93年に『三たびの海峡』(新潮社)で第14回吉川英治文学新人賞、’95年『閉鎖病棟』(新潮社)で第8回山本周五郎賞、’97年『逃亡』(新潮社)で第10回柴田錬三郎賞、’10年『水神』(新潮社)で第29回新田次郎文学賞、’11年『ソルハ』(あかね書房)で第60回小学館児童出版文化賞、’12年『蝿の帝国』『蛍の航跡』(ともに新潮社)で第1回日本医療小説大賞、’13年『日御子』(講談社)で第2回歴史時代作家クラブ賞作品賞、’18年『守教』(新潮社)で第52回吉川英治文学賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

「法華経」には、現実を見つめる智慧が詰っている。
「煩悩即菩提」などの「即」は、「とりもなおさず」「「それがそのまま」という意味で、「白か黒か」と単純に二分せず渾然一体の分かちがたいものとして捉える考え方だ。
これは、大変な英知だと思う。
「生死即涅槃」などもある。
迷いとさ悟り。
生と死。
これは別でありながら単純には分けられない、というのだ。
とてもスケールの大きな思想であり、理にかなっている。
よくあんな昔に、このような智慧に行き着きついたなと思う。
日蓮について最も素晴らしいと感じたのは「即是道場」という、法華経の思想を実践したことだ。
今、生きているこの世の、この場こそが「道場」(仏道修行をする場)なのだという考え方だ。
この言葉を知った時は嬉しかった。
日蓮という人は、インドから伝わった仏教を探求し抜き、世界的な視野を備えていた。
当時は誰も持っていなかった「国土に対する意識」を、日本で初めて持った宗教人だったのではないだろうか。
それ一つとっても、本当に大きい人物だと思う。
世の中には、今、腰を据えてじっくり考える前に吐かれる、とげとげしい言説がはびこっている。
しかしながら、今この場所こそおが「道場」。
目の前の日常生活こそが自分を磨く場、という感覚を持つ人は、あまりそういった極端な言葉を使わず、そうした言葉に惑わされることもないのでは、と思う。
今後も、社会の難しい状況は続きそうだが、ともかく、めげずにいくことだ。
めげなければ、何か進む力が湧いてくる。
「頑張れ」は、どこか人ごとに聞こえる言葉だが、「めげちゃいかんよ」「めげずにいきましょう」は、私も専売特許のように患者さんに語っている。