こんにちは。
今年も残すところ、9日となりました。
ありがたくも今日という日は変わらずに訪れますが、時というのは面白くて、一瞬たりとも同じではない。
だから、同じ
12月22日も、かつて迎えた12月22日ではありません。(当たり前)
それが当たり前と思うのは、時という概念があたしにあるからであって、改めて今ここは、やはり一時も同じではないですが、だからと言って比べてもしょうがないこの一瞬だと感じています。
そういう意味においては、比べるものがないのだから、今ここは、永遠に変わらずに存在しています。
その中で、あたしは幸せに向かって生きたいと祈っております。
(しょっぱなから、おかしなことをあたしは言っているのかもしれません)
なんでそんなことを思ったかというとね・・・
今朝、これを
次男が見つけたんだ。
2階のベランダに放置していたアロエに、
花がついていた。
それも、5つも一斉についていた。
サボテン系の花は、なかなかに咲くことがありません。
リュウゼツランだったか?100年に一度とか言われて、それを目にするのは珍しいらしい。
アロエの花がどの程度で咲くのかはよく知りませんが、あたしゃ初めて見たですよ。
このご縁、なんでしょう?
そんな珍しい光景に出合って、あたしが何を思ったかというとね・・・
今年は2月に
じいちゃんが亡くなりまして、小さなお葬式を家族で慎ましくあげたんだ。
97歳のじいちゃんは、多分大往生と言っていいとあたしは思っております。
ただ、送るあたしに悔いがないかと思えば、ああしてやればよかった、こうしてやればよかった・・・と思うこともあるのです。
すでにかなわぬこの思いは、位牌となりました
父に、毎朝の勤行として祈り続けております。
そんな今年の今日に出会った、
アロエの花。
このアロエ。
実は、どうだろう?あたしの物心がつく前からあったと思いますが、
母が、ヤケドなんかするとこれが効くからと言って、庭に植えていたものを、17年ほど前に家を新築するにあたり、あたしがこれだけをベランダにもってきたんだな。
だから、もう何十年にはなると思いますが、花なんぞ見たこともない。
それが今年咲いて、あたしはとっさに
「贄」(にえ)という言葉を思い浮かべた。
贄・・・神様への捧げものとか、お礼のモノとか、そんな意味です。
かつてあたしがお茶を習っていたころ、
師匠が、
「床の花は、贄だとあたしは思います」
と言われたのが、ずっと頭に残っている。
贄・・・それが誰のためかは、捧げる側の意識に依るんだと思いますが、今回の花は、あたしと関係なく咲いた。
だから、それはあたしが捧げたものではない。
ただ、それを見たあたしがそう思ったとたん、これは何かしらんどちら様かの意志とあたしの意識が含まれた父への贄となったと、あたしは感じてしまったんだな。
手折って仏前に供えようかと思わないではなかったですが、父のことですから、
「それには及ばん。生かしてやれ。」
という言葉も想像は出来まして、そのままきれいに咲いていただきたいと思います。
偶然と言えば偶然。
でもね、そこに生まれた物語は、あたしには意味がありました。
そんああたしを、じいちゃん、はて?なんと思っているでしょう?
笑っていただけたら、それで良い。
今日は
神棚掃除をしました。
つつがなく、今年を終えられますように。
来たる年も、どうぞどうぞ、あまねく穏やかでありますように。
ありがとうございます。