こんにちは。
もう6月も終わろうとしていますね。
今のあたしは、日付も曜日も関係ないような生活になっていますので、まして室内で温度の変化も感じられないから、下界の肌感がありません。
3畳ほどのカーテンで区切っただけの部屋のベッドの上で日がな一日を過ごしますので、尚のこと変化がない。
だから暇で退屈と言えますが、そう言いたくないあたしもいますから、壊れない限り使える脳みそで思考することを楽しみます。
とは言え、こんな楽しみが来たりもする。
孫3号の誕生日の写真。
そして、
次男が、お母ちゃんと飲んで、あたしの応援にいい気分で塾歌を歌ってくれた。
(よく覚えたもんだ)
みんな、ありがとう。
さて、前回の続きにもなりますが、しばらく考えていたこと。
会ったその日の夜に,水を飲みたいと言いながらかなわず亡くなったおじいちゃん。
彼が幸せだったかどうか?は、あたしが関知するところではないと思いますので、それはそれとして、さて、あたしだったらどうであろう?と考えた。
その末期の瞬間だけ、飲めぬ水に念を残して逝くのであろうか?
はたまた、しょうがねぇなぁ・・・と達観できたのか?
それもまた、その時のあたしの精神状態とかもあるであろうと思いますが、ただ一つたぶんそうであろうと思ったのは、あの場面を救うのは、死ぬこと以外なかったのではないか?ということ。
彼の不本意は、もしくは痛み辛さは、死ぬことで解放されたのではないか?ということ。
となれば、死は決して忌避するものではなくて、むしろ魂の解放への手段だったともいえるのではないか?
どちら様にも理解いただけると思いますが、何より辛いのは、病気であるという事よりも、痛い辛いという事実的な痛み。
それをまず取り除くことが、当人にとっては喫緊となる。
死んでもいいから痛いのを取ってくれ・・・とさえ思うの、わかっていただけるかな?
今回の場面で、それをあたしは実際に見たような気がします。
死にたいわけではないが、死んだほうがいいくらいの辛さもあるという事。
精神的な痛みも含めて、それはあるとあたしは思うのだな。
元に戻る。
あのおじいちゃんがあたしだったらという思考の結論。
あれはあれで、なるべくしてなったのだと思う。
だから、そうならないように、極力入院しないようにする。
(救命はしていただくが、延命は避けたい)
そうなっても納得いくように、今できること、やりたいことはやっておく。
家族の負担も考えれば、最後見取りの場所で死ぬということは、悪いことではないと思う。
・・・
というようなことを、つらつら考えておりました。
子供たちへ
父の取り扱いは、こんな風にしていただけたらありがたい。
よろしくお願いします。