ぴかの独り言 GooBLOG vol.1

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いよいよ娑婆での生活、再開。

2024-05-26 12:43:38 | 病気

こんにちは。

退院後の当日は、姉たちのおかげできれいな部屋で無事に過ごしました。

2か月振りのお風呂、そして、久しぶりによく眠りました。

・・・やはり、家は良い。

病院のベッドとは違い、あたしはもともと畳に布団が好きなので、その大好きな布団からはみ出して大の字になっても、腕が畳に乗っかって疲れない。
それがよろしい。

そして何より、ご飯を作って一緒に食べて、次男がうまいと言ってくれるのだから(吉野家の牛皿でしたが)、これを幸せと言わずなんという?


かつてあたしは、病院には光がないから、光のある娑婆に戻りたいと書いたことがありますが、それがこういう事なのだ。

病院というところに光がないわけではない。

ただ、その光は、例えば病気が治りますようにと念じる人々の救いとなるものだったり、介護の皆さんの温かい言葉だったりという、ものすごく限定された光。

もっと言えば、太陽の光を反射してできる月光のようなもの。

それとは逆に、娑婆は、己の行動が無限にあり、その光も、己が発するものもあれば受け取るものもあるという、自発的な光のやり取り。

それは、病院内では叶わない、自由で喜びに満ちたもので、それをあたしはと称したのでした。


次男との食事は、まさにその光でした。

それを、改めて幸せの形として感じて、ありがたかったのでした。


その後、退院から一週間の24日の診察まで、足取りはまだまだヨロヨロとしつつも、日々の生活そのものがリハビリとなり、本当に少しずつでしたが、動きを思い出して体が慣れていくのも感じておりました。

車のバッテリーが上がっていたので、いつもの車屋さんに来てもらってバッテリー交換ののち早速試乗。

外を300メートルも歩くと疲れるので、近くのスーパーにも行けないのは困るのですが、車があれば足代わりになる。

久しぶりに運転して、それは問題ないことを確認。

そして、早速に近くのスーパーへ買い出しに行ってみた。

スーパーの台車の買い物かごが、杖代わりになってエエ具合です。

これで久しぶりに、食事の買い出しもできました。


車の運転の練習代わりに、念願の氏神さまにも出かけてみた。



祓い言葉でお礼かたがた、再び、お参りに来られましたことが、また嬉しいPでした。

ありがとうございます。


ついでなので、田んぼも見に行く。
(この時点で、自由に動けること、好きなところへ行けることが嬉しくてしょうがない)



田植え前の田んぼ。

メンバーが精魂かけて、力を合わせて守ってくれた田んぼです。

後日、次の週には田植えと聞きまして、その日には是非みんなに会いに来ようと思いました。

みんな、ありがとうね。


さて、家に帰ってゴソゴソしていると、誰か来た。

ジャン!



あたしの為に、FBにはコメントしないと願掛けまでしてくれていた丸ちゃんが来てくれた。

そして、退院を祝ってくれたのとともに、プレゼントまでいただいた。



「また、遊びに行こうね」とも書いてあって、感激仕切りのPでした。

丸ちゃん、ありがとうございました。

うん、体ができたら、ぜひ遊びに行きましょうね。

よろしくお願いします。


何とか薄皮をむくように、体を少しずつ動くようにと生活しておりまして、やがて退院一週間後の診察の日。

から「運転しようか?」と気遣いをいただきましたが、何とかひとりで行ける目途がありましたので、豊明の病院まで片道1時間30分を覚悟して、ゆっこりでもいいように9:50予約の診察でしたが、6時に家を出た。

が、あにはからんや、道もスイスイあたしの運転もスイスイと参りまして、7時過ぎには到着。

あらま、時間が余ってしまうなぁ・・・と思っていましたが、受付の機械がありまして、そこの前にはすでに人が並んで7時半の受付開始を待っていた。

それでも、早すぎだろう・・・と思って、あたしも並んで待っていたら、10分後くらいには受付開始。

で、ゾロゾロと動く人について行ってみると、審査前の採血が7:50から開始と書かれている採血室に着いた。

そこでは、早くから並んで受付をしていた人たちが、また同じように並んでいた。

はは~ん・・・そういうことだったのね。

つまり、この人たちは外来で、採血などするのに時間を知っていたので、並んででもスムーズに診察の待ち時間も少なくなるように動いていたというわけです。

それを合点しましたので、あたしもそれに倣って動いて正解なのでした。(朝早く出たのも、結果オーライでしたね。)


そして、いざ診察

一週間ぶりの担当医の診察。

簡単に、入院時のお礼とこれまでの生活ぶりを話して、お医者の見立てを聞く。

各別悪いことはなさそうだという言葉に安堵していると、それでも・・・とお医者が続ける。

今の調子は、薬を飲んでいるからであって、この病気は、落ち着いている状態がせめて1年は続くことを確認しないといけないのです・・・と釘を刺された。

それは確かにそうである・・・と、あたしも再認識をする。

診察後、お尻にコロナ対策として注射して、今回の診察はおしまい。

次はまた一週間後に来ることとして、会計を済ませて帰宅。

昼にはうちに帰りました。

往復の運転も大丈夫でしたね。少し自信が付きました。


そうそう、実は家に帰ってから突然味覚障害になりまして、何を食べても甘い。

それが気になったものだから先生に訊いてみましたが、今度の病気の副作用であろうから、そのまま治るのを待てという事でした。

が、それがいつなのかもわからないから、気長に待つしかないですね。

自炊だから、味がわからないのがつらいんですが、コウヤに味見を頼んで、あとは勘でやるしかないですね。

まぁ、いまのところ鍋の元とか中華の素とか冷凍食品とかで味の決まったものを出しているから、食えないことはないと思っていますが、作るこちらもなんだかやってやりたいところもあるので、たまに冒険したりしますが、せいぜいが野菜炒めくらいで留まっています。

早く治るといいなぁ・・・

(その節は、みずちゃん。いろいろ教えてくれてありがとう)


体の回復はボチボチで、食べてはいますが、体重が全然増えない。

家の体重計では、体重56Kg、体脂肪5%、内臓脂肪1%と出ます。

我ながらすごい数字だと思いますが、先生は気にしなくてよろしいとのことです。

こちらも、ゆっくり体を作っていこうと思っています。


さて、そんなこんなで昨日土曜日は、田んぼ同好会22回目の田植えでしたので、そそくさと皆に会いに行った。



すでに大半の苗が植わっていましたところへ来た。

そして、およそ一年ぶりのメンバーとの邂逅。

市野さん、きみ君、よししと君と挨拶、ならびに、田んぼをやってくれたお礼。

向こうからは、それぞれに退院できてよかったね、元気になってよかったねと祝いの言葉。

ありがたいのでした。



隊長だけ、この日は健康診断とかで遅れてきますと言いながら、まだみたいで会えませんでしたが、一番合いやすい男なのでそのうち会います。

その時に,隊長にもお礼申します。


さぁ、そんなこんなの今日まででした。

娑婆はやはり、光に満ちておりました。

それを実感して、あたしは生きる力が湧いてくるのを感じています。

人もあめつちも、全てが輝いております。

それが嬉しくありがたいのです。

ありがとうございます!!!































 


ついに、退院でっす!

2024-05-22 10:45:17 | 病気

おはよ。

おかげ様で、5月18日に無事退院いたしました。

入院初日が昨年の10月10日でしたので、7カ月余をあたしは病院で過ごしたわけです。

いやぁ、長かったなぁ・・・

そして、前にも書きましたが、知らなかったから耐えられましたが、入院期間終盤の移植後の治療は、本当にきつかった。

己ながらよく耐えたと思いますが、実は全くの一人だったら、あたしは狂っていたかもしれないとも思っています。

それは、病院の医療関係者はもちろんのこと、友人知人からの励まし、家族の支えあっての今日だと心から感謝するものでありました。

皆さま、ありがとうございました。

そして、10日前後に退院の話を聞いてからは、あっという間に18日退院が決定して、ついにあたしは娑婆に戻ってきたのでした。


当日は、いつも通り二人が車で迎えに来てくれました。

かねてよりの話で、10:30を目安に来てねと頼んでありまして、それまでの間に、全てとはいきませんでしたが、担当医はじめ格別世話になった看護師の皆様にお礼を申しました。

中には、わざわざ病室まで来て、おめでとうと言ってくださる看護師さんもいて、あたしは感激するのでありました。
(その中には、涙してくださる方もおられました)

いよいよ病棟を去る時、その時の担当の看護師さんがあたしと仲良しの看護師さんで、彼女もまた涙してくれるのでありました。

そして、ナースステーションに深く頭を下げて、病棟を後にしました。

余談

姉が来て、来るときのズボンを履いてみると(大部屋のスペースがなく、必要なもの以外すべて姉に持ち帰ってもらっていたので、姉が来るまで着替えがなかった)、お尻も通り越してするするとズボンが落ちていく。

あたしは間違いなく病人だったのだと、実感しましたね。


さて、ついに家に戻ります。

姉に礼を言って、次男はお仕事なので、誰もいない我が家に入る。

見慣れた玄関が、なにやら別物に見えた。そして、それは妙にあたしを安心させてくれた。

誰もいないですが、「おかえり」とどこからか聞こえたような気もしました。


まだおぼつかぬ足取りで階段の手すりを頼りに、よろよろと2階の居間へ向かった。

そして、まずは何をおいても、あたしはここへ来たかった。



おかげ様で、ようやく帰ってまいりました・・・と、先祖に向かって報告。

合わせて、何かしらの大きなお力をいただいたような気もしているものだから、久しぶりに祓い言葉と心経を唱えたのであります。
(この時、以前と声が違うことを知る。13キロ痩せると声まで変わるんだと思いました。
それと、お仏飯が新しいのに気が付いて、次男が取り替えてくれていたのだとちょっと感激しました。コウヤ君、ありがとう


その後、荷解きしたりして、お昼。

次姉がそこまで一緒にいてくれて、布団干したり掃除したりしてくれました。

その姉が、「買ってきてあげるから、お昼を食べなさい」と言ってくれたが、あたしはあたしで目論見があったので、仕事の終わった姉を返してから、インスタントラーメンをそそくさと作り始めた。

・・・

はい、どうしてもラーメンが食べたかったのだ。

棚にあったラ王しょうゆ味(次男が買ったやつ)に卵があったのでそれだけ入れての簡単なインスタントラーメン。

・・・うまかった!

そしてここでも、確かに娑婆に戻ってきたのだと実感するあたしでした。


その後、さすがに疲れてひと眠り。

やがて次男も帰って来て、あたし好みの濃いめの味噌汁だけは作って、夜は来る途中で買ってきた吉牛で夕飯。
(およそ何か作ってやることはできないと思ってのこと)

それもそれで、美味しくいただいました。


いやぁ・・・さすがに出来事大杉で、長くなります。

今日のところは、帰宅初日の様子まで。

思い出しても、怒涛の初日でしたが、心にはずっと「ありがとうございます」の言葉がリフレインのように底流していましたよ。

改めまして、P、無事帰宅、生還いたしました。

皆さま、本当に、ありがとうございました。














いろいろ書いておこうと思いましたが・・・

2024-05-15 16:57:55 | 病気

こんにちは。

退院までいよいよ3日となりました本日、こちらのブログに書き残しておこうと思ったことがありましたが、いざパソに向かうとそれが多すぎてなのか、書いても己自身でしかわからんだろうということに気が付いて、すこし元気になってからの俳句を残しておこう。

モノを書く、読むということ(それだけにとどまらす、あらゆること)が、病気になった人はわかると思いますが、極めて億劫になっておよそその上に俳句をひねるなどとは無理でしたが、心身が回復するとともに、そのやる気が戻ってきた。

これは、そんな気分になってきた5月5日の子供の日からの作句です。


穏やかに 吾子育ち来し こどもの日

行く春や 病床で見る 腕細し

老病に 意味はありしや? 春の暮れ

ありがたし 生受く春に 友の声

望外の 吉報嬉し 遅き春

瑞兆の コウモリ見たり 蒼き朝

退院の 感謝の礼に 夏も泣く


俳句の良し悪しは別にして、ここまで来れた体と心に感謝するのでした。

今朝も担当の医師が回診に来た折、

「少し早いですが、大変お世話になりました」

と、ベッドの上で、これもこの頃ようやくできるようになった正座をして礼を申した時、思わずポロっと涙が出たのは自分でも驚きましたが、あたしの中の純粋な気持ちの発露だったと思っています。


あと3日、皆様に感謝しながら、過ごしたいと思います。

よろしくお願いしまっす!




GWで、子供の日なんだなぁ。

2024-05-05 10:11:52 | 病気

おはよ。

テレビとかラジオとか新聞とかを全然見ないので、世間のことがあまりよくわからない。

この病院にいる限り、それは知らなくてもあまり変わりがない。

ただ、スマホのニュースのアプリで、大谷がどうしたとか、中日がどうであるとか、それは見る。

中日、とうとう最下位になりました・・・がっくし。


そんな毎日ですが、一昨日担当医から、

「ニーミさん。うまくいくと、5月中に退院できるかもしれませんよ」

とお知らせいただいた。

・・・これは嬉しい!

おかげ様で、白血球に続いて、血小板も合格の数値に達しまして、あとは赤血球が増えてくれると退院に近づくのだと思っています。

(もちろん、最後はお医者の判断ですが)

捕らぬ狸のなんとやらで、今からあまり言っても詮無いですが、当初の大目標・5月中に退院する!が、見えてきた。

ただ、今のまま、血液の数値だけ上がったとして、家に帰って元通り生活できるかというと、それはまだ無理だとわかる。

リハビリに頑張っていますが、筋力が付くというのは恐ろしく時間がかかるというのを実感していまして、それでも何とか目標達成の為に、おじいちゃん、頑張っています。

せめて台所に30分立てるくらいには回復したい。

そう念じて、今日も頑張りたいと思います。


少しだけ、治療中のことを書いておく。

いよいよ移植が決まってからは、目まぐるしい治療が始まった。

各種検査、放射線、薬の投与(点滴)などで、毎日が過ぎる。

体はというと、最初の頃こそ元気でしたが、ケモ(化学療法)が始まると、とたんに動けなくなった。

発熱がすごい。

38℃はざらで、解熱剤を入れて下げても、またすぐ上がる。

それが一日のうちに何度も起きるから、どうにもならぬまま動けなくなっていく。

それが一週間くらい続きます。

で、それが終わるころ、白血球がOになって、いよいよ長男の幹細胞が移植されます。

さて、ここからが本当の勝負で、ドナーとしての長男の細胞が、エエ感じに折り合いをつけながら、あたしの体に働くようになっていたいただかないといけない。

そして、ここでも、折り合いをつけるに際しての副作用がいろいろ出ます。

発熱、下痢がきつかったですが、一番は睡眠障害

すでにケモ治療の時から、点滴バンバン、夜昼なくての看護で、看護師さんの出入りがバンバン。

・・・寝られるわけがない。

30分ほどの短い眠りを、夜の間何度も繰り返す。

これがきつい。

やがて、治療の最後一週間ほどは、精神がおかしくなるのが自分でわかりましたね。

横になって寝ようとしても、何か変な感覚が頭に渦巻いてきて、それは意味もなにもないのですが、自分でどうにも御しがたいどす黒い感覚。

それが何か?を探ろうとしますが、もうね、どうにもならない。

で、その感覚がしばらく続いて、やがて・・・狂いそうになった。

が、狂う直前、治療が終わって、あたしは命を長らえたと思っています。

これは、怖い経験でしたね。


その後、いまだに治療中ながら、すっかり元気になりまして、おかげ様で5月退院・・・の話までとなったのね。

そして、今振り返って思うのだが、なんで狂わなかった?のかを考えてみると、あたしの性格に一因はあると思うのでした。

つまり、あまりに心配したり、真面目に考えすぎたりすると、あたしは狂っていたと思いますが、あたしはどこか出来事を斜に構えてみるところがありまして、「それ、ほんとかよ?」といつものような調子で病気も見ていた節がある。

つまり、熱が出たとして、苦しいのは間違いないのですが、それを「これは大変だ!」と思うより、「面白くなってきましたね?」と思うあたしもいたりします。

それのお陰で、精神が軽く受け止められたせいもあろうと思うのでした。

(バカも使いようでしたね)


長くなりましたが、およそ2か月の治療は、こんなことがありましたのよ。

それの記録を少ししておきました。

それでも、今となって、よくここまで回復したなというのは正直なところで(ほとんど奇跡みたいです)、改めて、医療関係者やご声援いただきました友人知人、家族のお力のお陰と感謝しています。

本当に、ありがとうございました。


不思議なのは、あれほど毎日繰り返してきた「祈り」(仏の前や神様の前での祈りは、ルーチンとしても欠かさなかった)ですが、今回、ほぼ全く心経にせよ祝詞にせよ、口にすることがなかったですね。

それも我ながら不思議と言えば不思議なんですが、たぶん頼るのはそこではないという思いはあったと思います。

その祈りは、いつも自分のためではなかったというのが、自認できた今回でした。

・・・おもろいね。


さて、5月退院がかなうかどうかはあちら様にお任せするとして、あたしは今日もリハビリ頑張ります。

退院しましたら、また遊んでください。

よろしくお願いします。

ありがとうございます。



治療中のあたし。
点滴の数が多すぎて、血管一本から3本の点滴注入の口が作られています。
そして、胸には心電図みたいなのが一日中付きます。
結局、こんなのもあって、寝られなかったのでした。
よく頑張ったぞ・・・おれ。