仕事の道楽化

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釣りの、どこがおもしろいか

2016年03月08日 | 趣味
 「大江戸釣客伝」(上・下)夢枕獏著を読んだ。

 この中に、釣りの面白さを主人公に語らせている描写があった。

 釣りの面白さをこれほどわかりやすく表現している描写はないなあと感じた。


「釣りの、どこが面白い」

 重ねて綱吉が問うてきた。

 采女は、困った。

 何かを答えて、綱吉を怒らせてしまうことを恐れたのではない。自分の中に答えが見つからなかったからである。

 確かに、自分は釣りのことを面白いと思っている。しかし、自分は、その釣りのどこを面白がっているのか。

 魚がかかった時、手元に伝わってくる、あのぶるぶるという感触であろうか。

 魚を、水中から抜きあげた時の、あのなんともいえぬ喜びであろうか。それとも、ごつん、あるいはこつこつんと手元に届いてくる魚信(アタリ)であろうか。

 どうやったらうまく手元に引き寄せられるか、もしかしたら、この魚はすぐに逃げてしまうのではないか・・はらはらしながら魚とやりとりしているあの心の動きや、心の臓の高鳴りであろうか。

 いやいや、釣り場に向かって、船に乗っている時であっても楽しい。

 それを言うなら、出かける前日に、あれこれと道具を引っ張り出してきて、仕掛けを作りながら、明日の釣りのことを考えているのも楽しい。

 釣りに行かなくとも、伴太夫や十郎兵衛と、ただ釣りの話をしている時だって楽しいのだ。

 そういう話のおりの大きな楽しみの中には、逃げてしまった魚のことを語ることも含まれている。

 “あのとき、逃げたヒラメは大きかった”

 ”いや、それほどの大きさではござりませぬ。このくらいでござりましょう。”

 ”何を申すか、それは、そちが釣ったヒラメではないか。”

 ”いえいえ、私が釣りましたのはこれくらいで。”

 ”そんな大きなヒラメなどおるか。”

 むしろ、逃げてしまった魚について語っている折の方が、互いに声も大きくなり、話も長くなる。

 大きな魚が、海面まで寄ってきて、ぎらりと太い腹を見せたとたんに、針が外れて逃げてしまうことがある。
 
 魚が天に跳ね上がり、竿を持っている右手がやけに軽くなる。この天地や自分が、この世から、一瞬喪失してしまったような気がする。

 あの空しさもまた、釣りに妙味を加えているような気もする。

 そうすると、一度の釣りというより、釣りという全体で考えれば、つれない釣りもまた面白いと言うことになる。



 困ったものである。この本に書いてあるように、どんな時も釣りは楽しいのだ。

 釣りの面白さを知った人は、その後もずっと面白さを感じてしまう。
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