「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・06・10

2005-06-10 05:40:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「敗戦直前まで、アメリカ人は鬼畜だった。直後は正義と人道のモデルだった。共産党でさえ、マ司令部の前で万歳を三唱した。今はベトナムを、ソンミを、沖縄を見よ――再び鬼畜である。その評価は情報の多寡できまる。まだきまらなければ繰返せばきまる。
 人は他人の目で見て、他人の言葉をおうむ返しに言う動物である。自分の考えと自分の言葉をもつものは希である。
 そしてこの世は、他人の言動に従う無数と、従わぬ少数とから成っている。無数は進んで従ったのだから、強いられた自覚がない。
 それにもかかわらず大衆は、自分が凡夫凡婦であることをひそかに承知して、ほとんど絶望している。だからある日突然、天才が出現してくれるのを待っている。ヒトラーもスターリンも、今は犬畜生だが、以前は神人か天才だった。天才なら仰いで一言もなくついて行けば、どこかへつれていってくれる。そこはいいところにきまっている。
 自分の考えもなく、言葉もなく、晴れてみんなで追従できるのだもの、こんなうれしいことはない。万一しくじっても、それは天才のせいで、凡夫のせいではない。
 昔なら英雄豪傑、今なら革命家の出現を、いつも、彼ら(また、おお我ら)は待っている。待っていれば、いつかは必ずあらわれる。私はそれをとがめているのではない。とがめて甲斐ないことだから、ただ無念に思っているのである。」

   (山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)
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2005・06・09

2005-06-09 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「きっぱり『良心』と言いきるなら男らしいが、皆さん『良心的』とおっしゃる。
 未練である。いさぎよくない。」

 「良心的な大人たちは、いまだに中国に対してすまないと言っている。侵略戦争の罪をつぐなっていない、と嘆息している。それなら朝鮮に対してはなおさらだろう。
 わが国の復興と繁栄の端緒は、この朝鮮戦争にある。朝鮮をはさんで、アメリカと中国が争ったおかげで漁夫の利を得た。
 以来、失業者はなくなるし賃金はあがるし、ついにはレジャーを楽しめるまでになった。
 だからときたま嘆息してみせるのだろうか。
 わが国は、間接的にベトナムに参戦している、それを思えば胸が痛むと、痛がるものがある。ベトナムには中・ソのほうがより参戦している。中・ソ両国民はため息なんぞつきはしない
 個人はもとより、国家の利害は複雑をきわめている。口先だけ潔白ぶると、次第に本当に潔白だと思いこむにいたる。すでに思いこんでいるなら、一度おのが内心を見よ。
 私は良心的な男女を、山ほど見た。それは車内の暴力を見のがす乗客である。行きずりの男に刺されたから、助けてくれとすがると、『私には関係ないことだ』とつき放す者どもである。
 彼らはその場を去れば、天下国家を論じて、中国に、ソ連にすまながる。それは良心ではない。良心的である。」

   (山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)
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2005・06・08

2005-06-08 05:40:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「人を被害者と加害者にわけて、自分はいつも被害者なら、さぞよかろう。大衆は自分を被害者という安全地帯におきたがる。
 被害者なら潔白にきまっているから、他をとがめる。新聞の投書は、たいていこれで、つねに口をとがらして、世の中を、政治を難じる。私はあれを『投書の言葉』と呼んでいる。
 たとえば、投書は常に社用の酒を難じる。けれども社用族を難じるのは、失礼ながら社用族になりたくて、なれない人である。
 ただの酒ほどうまいものはないという。なんならためしに、ながく抵抗できるかどうか飲んでごらん。できる人はそれだけの性根のすわった人で、つまりは別人だと私はみている。」


 「大衆の潔白は不本意の潔白である。その証拠に、上役になれば豹変する。そしてあらゆる上役の不正は、下役の正義のなれの果てである。
 嫉妬はしばしば正義を装う。にせものの潔白は、本ものの潔白だと主張する。
 この世は、この種の正論に満ちている。私はこの種の正論からは何ものも生れないと思うが、まじめ人間は思わない。そしてまじめ人間は大ぜいで、大ぜいなら衆寡敵しない。」


 「私は、正直者は馬鹿をみるという言葉がきらいである。ほとんど憎んでいる。まるで自分は正直そのものだと言わぬばかりである。この言葉には、自分は被害者で潔白だという響きがある。悪は自己の外部にあって、内部にはないという自信がある。
 『へーえ、そんなら貴君は正直自身かね』と問うと、男は一瞬たじろぐが、女はたじろがない。人みなジキル博士とハイド氏だと私は思っているが、まじめ人間は思わない。そしてこの世はまじめ人間の天下なのである。嗚呼。」

   (山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)
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2005・06・07

2005-06-07 05:35:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「年賀状は虚礼だという。ことに印刷されたそれは味もそっけもない、あんなもの、いくらくれてもうれしくない、こっちからは出さないからそのつもりでいてくれと、新聞雑誌に書く文化人が多い。
 戦前から書いているから、ははあそんなものかと思っていたら、なにあれは貰うのは好きだが、出すのは嫌いだというほどのことだと知れた。」

 「たとえ十枚でも年賀状が来るのは、まだ生きている証拠である。それを記憶してくれる人があるしるしである。死んだら一枚も来はしない。年々歳々ふえるのは、誰の目にもいよいよ生きて、いよいよ世間で活動しているしるしである。
 元日の朝、それを山とつんで、気分が悪かろうはずがない。生けるしるしと、商売繁盛のしるしの両方を共に見て、他人には『年賀状なんて』と馬鹿にするのだから、まっ赤なうそでないまでも、なかばうそである。」

 「年賀状なら誰しも貰ってうれしく、返すのは面倒だから、つい返さないのは人情で、深くとがめるには当らない。ただ、そのやりとりは愚かだと説教するのはよけいなお世話である。
 なぜこんな説教をするのだろう。人は高い所から、話したり書くときは別人になる。一面をかくして、一面を誇張して、それを自分だと思い、思わせたがる。
 かくて口と腹が違うのは、政治家や上役ばかりではない、我々の常である。正直を志す芸術家も、我にもあらずうそを書く。
 たかが葉書のやりとりでさえこれだもの、あとは推して知るべしである。印刷された言葉なら、まずたいていは眉つばだと、一度は疑ってかかるがいい。」

   (山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)
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2005・06・06

2005-06-06 05:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、良寛禅師の歌三首。

 「草の庵に 足さしのべて 小山田の
        山田のかはづ 聞くがたのしさ」

 「あしひきの 山田の田居に 鳴くかはづ
        声のはるけき このゆふべかも」

 「世の中に まじらぬとには あらねども
       ひとり遊びぞ 我はまされる」
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2005・06・05

2005-06-05 05:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、孔子の言葉。

 「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」
 (論語 「雍也」篇 20)

 中野孝次さん(1925-2004)の著書「中野孝次の論語」の中から、上の「読み下し文」に添えられた同氏の現代語訳を引用します。

 「孔子さまが言った、『物事を知っているだけの人は、それを好んでしている人に及ばない。物事を好んでしているだけの人は、それを楽しんでしている人に及ばない』」

 「論語」の中の「物事を楽しむこと」の快をうたった段を「読み下し文」で二つ。

 ――子貢曰く、貧しくして諂(へつら)うことなく、富みて驕ることなきは如何。子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好むものに如かざるなり。
   (「学而」篇 15)

 ――子曰く、疏食(そし)を飯(くら)い、水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦その中にあり。
   (「述而」篇 15)
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2005・06・04

2005-06-04 05:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集「毒言独語」の中の「みんな世の中が悪いのか」と題したコラムから。

 「非は常に、ことごとく他人にあって、みじんも自分にないと、このごろ相場はきまったようだ。
 徹夜マージャンのあげくの居眠り運転だから、恐れいるかと思うと、やっぱり悪いのは国鉄当局で、ひいては政治で、保守反動政権で、自分はなんにも悪くないのである。マージャンを禁じるのは、私生活の干渉だと、組合員の一人は大会の席で弁じた。
 ここはあやまるのが上分別だと、進言する組合員はない。あれば、現時点において、かかる発言をしては当局に乗じられる、それは利敵行為だと、仲間から非難される。
 けれども、夫婦喧嘩だって、非がことごとく細君にあることは希である。そりゃ細君は悪いにきまっている。同じく亭主も悪いにきまっている。その割合は五分と五分か。
 もう天災というものは、存在しなくなったのである。大風が吹こうと、大水が出ようと、それは政治のせいで、人災だといわれる。」

 「非は常に他人にあって、みじんも自分になければ、経験が経験にならない。他人の痛みはおろか、わが子を失った自分の体験も体験にならないから、昔ながらの惨事と新しい惨事はこもごも至る。
 いくら至っても、そのつど人のせいにすれば、惨事もさるもの大挙しておしよせる。居眠りに続く朝寝坊駅、酔いどれ機関士、素通り運転――以上は国鉄だけだが、ほかにもまだまだおしよせてくるはずである。」

   (山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)

 
 30年以上前に山本夏彦さんがコラムの中で書かれた「この世の中にニュースはない。」、「十年前に聞いた。百年前に聞いた。千年前に聞いた。」、「すべて十年前の、百年前の新聞に出ていることばかりである。」が、昨日もあり、今日もあり、明日もあるのです。
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2005・06・03

2005-06-03 05:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。


 「ついでながら、私はモダン・リビングで、『動線』とやらをやかましくいうのも、眉つばものだと思っている。リビング・キチンから風呂場へ、風呂場から寝室へ、最短距離で、むだなく、どこへでも行かれるのが、機能的なのだそうだが、たかが十坪や十五坪の豆住宅である。迂回して便所へ行ったところで、何ほどのことがあろう。
 私はちっとも損したとは思わない。むやみに動線を倹約するのは、どういう料簡か。
 けちか。」

 「私はいま、三十余坪の平家に住んでいる。私の部屋から手水場に達するには、端から端まで歩かなければならない。歩いたところで四、五間である。べつだんくたびれることはない。
 縁側もむだ、軒の出の深いのもむだ――あらゆるむだをさがしだして、見つけ次第撲滅せずんばやまぬ精神を、私は怪訝に思っている。
 私はこの世はむだから成っているとみている。そもそも私が生をうけ、こんにちまで生きてきたのは、むだそのものだとみている。私はむだに終始して、いまだにむだ中に埋没している。どうして区々たるむだを争おうか。」

   (山本夏彦著「日常茶飯事」所収)
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サーカス 2005・06・02

2005-06-02 09:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、中原中也(1907-1937)の詩一篇。

 サーカス

   幾時代かがありまして
     茶色い戦争ありました

   幾時代かがありまして
     冬は疾風吹きました

   幾時代かがありまして
     今夜此処での一と殷盛り
       今夜此処での一と殷盛り

   サーカス小屋は高い梁
     そこに一つのブランコだ
   見えるともないブランコだ

   頭倒さに手を垂れて
     汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
   ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

   それの近くの白い灯が
     安値いリボンと息を吐き

   観客様はみな鰯
     咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻と
   ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

       屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇の闇
       夜は劫々(こふこふ)と更けまする
       落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアと
       ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

  (角川春樹事務所刊「中原中也詩集」所収) 
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嘆きても 2005・06・01

2005-06-01 05:40:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」はアララギ派の歌人岡麓(1877-1951)の短歌二首です。
 二つ目の歌がとくに気に入っています。


 「ほぐれつつ 葉形つぎつぎ あらはるる 木々の芽ぶきの 時ぞ賑ふ」 

 「嘆きても かひなきことは おもはずに 明日はけさより 早めに起きむ」 
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