でも、鎌倉の水は教定に合っていたようで、宗尊親王御所で源氏物語絵屏風を奉行するなど活躍します。小侍所実時とも当然親交があり、子息雅有と実時娘が結婚するまでに。ここではまだ宗尊親王は下向したばかりですが、ゆくゆく将軍御所はそういう感じに華やいでいきます。
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教定があまり歌が上手くなかったようなのに対し、長兄は新古今歌人の父雅経似だったのでしょうか。長兄が早く亡くなり飛鳥井家を教定が継ぐことになるのを定家は相当不満に思っていたよう。そんな感じで教定に京都の水は合わなかったのでしょうか。早々に鎌倉に下って頼経以降将軍に近侍しています。
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↓ 宗尊親王の方違の場所に二条教定の屋敷が選ばれた記事。教定は飛鳥井雅経の次男です。母は大江広元娘。雅経が鎌倉に下向していた時に結婚。後鳥羽院に召されて夫婦で上洛し、教定が生まれました。雅経と親交あった定家は長兄の方を可愛がって教定をよく思っていないことが明月記に記されています。
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親御さん方へ(2)たとえ若者たちが霊的な生活に渇いているとしても、彼らのほとんどは、猜疑心にさいなまれているのです。彼らは、神に自分たちの信頼を置くことができないし、また、信じることもできないでいるのです。なぜなら、信用してきた人たちの生き方を信頼できなくなってしまったからです。
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『全訳吾妻鏡』より建長4年11月11日。将軍家(宗尊親王)、新御所に御移徒なり。時刻に御車(庇)を寝殿(相州の御亭)南面の妻戸の間に寄す。→宗尊親王のために新造した御所に親王が移られます。牛車は庇と注のある親王用の立派なもの。更迭されて帰洛する時は女房輿なので対比が辛いです。
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