花の咲くように
昨日は在籍校の入学式であった。愚生よりも若い保護者がたくさん駅から歩いておられた。ご心配なのであろう。また、どんな大学なのかということも含めて興味関心を持っておられるのであろう。拙ブログにも、そういう意味でアクセスしてくださる方が多い。gooがAccess分析を毎日してくださっているからわかるのである。昨日の検索でも在籍校の名前と入学式というキーワードが多かったからである。しかし、もう全くそういう数字は気にならないが、若干とはいえ拙ブログも在籍校の宣伝にはなっているのかもしれないと思うと、ま、それもありかと自己満足をしている。なんてったって学生ですからねぇ。(^0^)
昨日は、大学院のオリエンテーションがあって、それから成績表をいただいた。周囲には、修士の入学生が圧倒的に多い。これからの時代は、教育バブルだと言われた方があったが、実感する。修士が常識になってくるのかなって言われているし。ただし、愚生の学んでいるコースに博士後期の入学者はいなかった。修了というのがないからだろう。退学か、学位取得しか無い。これはなかなか厳しいものである。いまだに自信もない。だから学んだ証に、バリバリと論文書きをしているのだけれども。
成績表は、予想をこえていた。もっと悪いかと思ったが。これからも頑張るしかない。ある意味プレッシャーである。良い意味での。なにしろ学部を出たのがちょうど40年前である。国文学の同じ専門とは言え、こっちはすっかりアタマの働きが尋常ではないのだ。だから、老骨にムチ打つしかないのである。
長文を書いてばかりいる。ワープロのスクロールが遅くなる。常に全体を見通しながら書いているから、昨日の夕方にとうとうウィンドウズ8のノートパソコンを購入した。昨夜設定をしていた。速い。処理速度が。小さくて持ち運びもできる。これはいい。今日から院生室でやるつもりである。あるテーマで書かなくちゃならない。相変わらず、芸能と源流、そして宗教との関わりである。新しい視点で書いて、またそれを投稿するつもりである。いくらやってもこれでいいということがない。郷土史でもそう。どんどんやらないと年をとってしまう。こっちの世界は定年なんてないからである。思えば、いい場所を与えていただいたものである。郷土史である。死ぬまでやっていきまひょ。なかなか死なないでしょうけど(^0^)
昨日のキャンパス内の桜は散り始めていた。雨も降っていた。新入生がかわいそうになったが、これもまた仕方なし。散れば、また来年咲く。それの繰り返しだ。愚生は、その桜の精を追いかけて東北までいくけれども。毎日どこで咲いているかということをチェックしながら、和歌を眺めてはしたり顔でほくそ笑む。桜の花に狂っているのだろう。いいんだ、いいんだ。美しいものは美しい。それを追いかけていくのもまた人生。散るのが前提なんだから。散るから惜しいのであって、永遠はないからである。
愚生も花の咲くように人生を成功させたかったなぁという後悔はある。とうとう一介の田舎教師で終わってしまったし。今は残務整理をしているようなものかも知れない。
西行の
願わくは
花のもとにて
春死なむ
その如月の望月の頃
という和歌が気になる年齢ともなってきた。この和歌は18歳のときに学部で学んだのだが、なかなか分からなかった。心境が。そりゃそうだったろう。18歳くらいでこの歌の心境に到達できるほど、人間ができていなかったからである。
したり顔で、遠くみちのく津軽まで今月は旅をする。これもまたいいものである。許されよ。目一杯働いてきたのだから。オイラの花は咲かなかったけれども、花の咲くような夢だけは追いかけていきたいからである。