ふと思った。在野にあって宗教研究をスタートしたのが空海ではなかったかと。
むろん、中国から帰ってきてからの、空海はとんでもないエリート街道まっしぐらの人生であったことは間違いがない。巨大宗教集団を構築したのも彼だったし、今なお日本における影響力は大きい。
高野山に行ってみても、巨大寺院と大学、高野山そのものを核とした行政組織まである。あるどころか、まさに生活の核である。宗教組織が。
ボキは信仰というものをモタナイから、好き勝手なことが言えるのであるが、ちょっとは注意しながら宗教関係のことは書いているつもりである。信仰をゆがんでとらえている可能性もあるからである。むろん、信徒の方々にはお叱りを受けるかもしれないとは思っている。いるけど、どうしても書かなくちゃならないときは、書く。
在野にあるという視点から、すべてのことを見直してしまったのである。エリック・ホッファーである。最近である。だからまたまたやることがたくさん出来てきた。
つまり、在野の立場から、これまでのささやかなボキの読書経歴を整理しているのである。つまり、なんかのためにする読書、なんかになりたいという欲望、ゴミ論文を排泄物のように書き続けていた還暦以後の無明時代を捨て去ってしまったからである。
嗤い話のようである。
ボキ如きが、論文を書いて学者や研究者のまねごとをして意味があるわけもない。最初からナカッタのである。それに気がついたのが、エリック・ホッファーとの出会いであった。
論文を書くために、還暦すぎて入学した大学院での勉強を最優先するために、あらゆる定年後の再就職のお誘いをお断りして、専念してきたのである。それが全部崩れてしまったのである。
だから、アルバイトでやっている塾のセンセも週にフタコマしかやっていないのである。昨日、塾の教室長にもっとやってくれませんかと言われて、目が覚めた。そうなのである。もう最優先事項が消えているのに、あいかわらず働かないジジイをやっているということである。それに気がついたのである。働かない最大の理由は健康問題にあったけど、どうやらそれはクリアーしたようだから。マジに。だったら、労働者として生きなくちゃアカンですな。ホッファーのようにだ。塾なんて、少しの拘束時間しかないではないか。拒否する理由がないっすねぇ。
ま、そんなことはどうでもいい。
それより、司馬遼太郎の「空海の風景」である。
司馬遼太郎も、また空海を信仰していたわけではないだろう。ただし、空海のことは好きだったに違いない。
だから、この「空海の風景」の文庫本はムチュウになって読んだ。傍線がたくさんひいてある。司馬遼太郎らしい視点から、書かれている。つまり足で稼ぐ書きっぷりである。実際に見て、それをご自分の中に取り入れて、ボキのような血迷っている大衆のためにわかりやすく書いてくださっている。
だから「風景」という文字が書名に入っているのである。
こういう書き方なら、信仰問題とは別に空海に興味関心を持ってもゆるされるだろうと思う。面白いから、面白い。空海さんに興味を持って、調べてみたいというのがである。
ちょっと空海に興味があるとなると、さっそく勧誘されてしまう可能性もあるだろうから。宗教が勧誘というシステムをとるのは、ある意味当然であろうから。でないと組織が維持できないだろうからである。キリスト教会も献金というシステムがなければ、存続はできないだろう。否、あらゆる宗教団体がそうである。寄付金から、献金から成り立っている。それが信仰者には喜びになるのだろう。
でもボキはそれがイヤなのである。カネとからんだ信仰というのはかなり疑問がある。ずっとそう思ってきたから、信仰がないのである。特定の宗教団体に属していないからである。
もうひとつここに紹介したNHKの「空海の風景を旅する」の本のように、もうちょっと気楽に空海に接してみたいのである。信仰がないからである。信仰がないのだから、空海に関わる土地を旅しても許されるだろうと思う。
気楽な旅行者の視点である。
今年イタリアに行って、キリストを信仰していないのに、壮大な教会にも出入りしてみた。まるっきりの旅行者の視点である。バイブルもあちこちと読みあさったから、いろいろ知っていたのであるが、それでも単なる旅行者でしかなかった。
それでいい。それで。
ただの大衆である。ボキは。
死ぬまでボキはこうやって血迷っているのであろう。
つまらない一生だったのかもしれない。
真面目に信仰を求めてきたわけではないからである。
救われないんだろうなぁと思う。
それでも仕方なし。
それでもボキは死ぬまでは生きているんじゃから。
Bye-bye!