剣客商売の「東海道見附宿」という作品は読んだのだが、DVDも楽しい。
剣道の道場を経営している浅田なにがしという剣術使いのことが出てくるのだ。
主人公の秋山小兵衛は、彼を春風のごとしと評している。いい表現である。
息子の大治郎が、いぶかる。剣の修行は命のやりとりである、それを春風のごとく剣を扱うというのはいかにというのである。
楽しむというのは、道楽であるというのである。それではいかがなものかということである。武道の専門家である大治郎らしい台詞である。
しかし、おかしいではないか。
楽しんで武道をやってはいけないのか。
道楽で。
学問も道楽でやってはいけないのか。
そう思うからである。
命のやりとりである。確かに武道はそうである。
学問だって命のやりとりなんだろうなぁと思う。なんかになろうとしたら、まさしくそうだろうと思う。成果主義から言ったらそうだろう。大学教授になりたいとか、なんとかになりたいとか。そういう打算が優先するのだったら、苦しいだろうなぁと思うのである。ナンニモならないことに一生懸命になって、それはそれで馬鹿なことかもしれないが、充実していればそれでいいのではないのかねぇって思う。
郷土史の世界で生きていくとか、なんとかとか。師匠は愚生のその気持ちを見ぬいておられる。さすがに、日本を代表される碩学である。かなわない。当たり前であるが。
愚生のように、道楽で生きてはならんのかなぁと常日頃から思っている。
道楽で生きるのはけしからんという固定観念からきているような気がするからである。
愚生は逆に思う。固定観念というのはいけない。体験上である。凝りかたまるからである。
凝るというのはよくない。
肩凝りというのもあるからである。道楽は肩が凝らない。道楽はいいものである。それでいいのだ。それで。
あまり気ぜわしく生きておりますと、命を縮めますぜ。
春風のごとく生きたいものでありますなぁ。
まったく。
どうせ生きるなら、悩んで生きるのも一興。春風のように生きるのも一興。愛だの恋だの、離婚だのなんだのと、無明を生きていってはなりませぬ。
時間というものはもっともっと尊いものでありまする。
ホンマに。
所詮、ヒトの世の中なんてそんなもんですよ。
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