音というものにもっと興味関心を持つべきである。そう思った。耳勉強でアル。耳から入ってくる情報というモノにあまり興味関心が無かった。だから、短詩系文学に興味がわかなかったのである。
文字情報ばかり追っていた。しかもスピードを重視していた。なぜか。ゴミ論文を書くためであった。しかし、そのような機会もない。自ら捨ててしまたのだから、仕方なし。学業劣等で。
もっと洒脱に、気楽にこれからは追っていくことである。学者センセの書いたものを読んで、気楽に皮肉を言ったり、パロディを話してみたりするこったよ。江戸時代にはそんなのがいっぱいたから。論語の本だって、出版されるとすぐパロディ本が出ていたのである。
荻生徂徠が出した本「論語徴」(宝暦10年 1760年)が出ると、たちまち洒落者が「論語町」なる本を出して茶化すのである。跋文は虚来山人である。
徂徠先生は、落語にも出てくるような堅物である。千葉県の茂原にもいた方である。芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている。落語の徂徠豆腐である。これは楽しい。メシを食うカネもなかったから、豆腐屋さんがタスケルのである。それでもめげずに学問に精を出していった。そして、成果を出された。
ちなみに「論語町」という本はもっと面白い。
写真がある。以下のような本である。そもそも最初から吉原が出てくる。大門も出てくる。
楽しい。
実に楽しい。
なんせ、洒落を基本としているのじゃから。
それでもって、からかっているのだ。徂徠大先生を。
しかし、こっちの洒落本のセンセ、漢学の実力は相当なものである。
反骨と挑戦の態度がスケスケになって見える。だから楽しいのである。インテリとか、エリートがなにをのうたもうとも、笑っている。これが良いのである。
ちなみに、こういう態度をとっておられるブロガーもたくさんいる。だからネットサーフィンは楽しいのである。
こういうヒトが、現在の国会の乱れようをどう風刺するか。とりわけ一部マスコミの偏向報道と悪だくみをである。明日あたり、日本海の向こうからまたまたミサイルが飛ぶらしいが、こんなことをやっていて良いのかね。自称エリートさんたちに、聞いてみたいっすよ。
わははっははっはははっははっはははっは。
楽しみである、ボキには。エリートの方にである。なにを発言するのかというその一点に限ってである。なにせ、ボキは一介の年金暮らしジジイであるから。