無明を生きているというのは、良くないことだと思ってきた。そういうように思わされてきたのかもしれない。欲に囚われ、自我に囚われ、出世に囚われ、金銭に囚われ、クルマに囚われ、あとなんだ?・・・・まだまだたくさんあるかもしれないが。つまりそういうことの反面に、悟りへの憧れというものがあるのかもしれないということである。泰然自若というか、ちょっとの異常事態でも慌てないという心境に憧れていた。
しかし、ちょっと待てよということを考えた。いいじゃぁないか。囚われていたって。無明を生きていてもだ。なぜそんなことを考えたかというと、九鬼周造の「いきの構造」なんていう文章を読んでいたからである。これ、哲学書なんだけど、実はとってもおもしろい。「いき」ということについて考えたおそらく世界で唯一の哲学書なんではないかと思う。
『「いき」の構造』の「序」のなかに、「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」という言葉がありますが、哲学を単なる論理としてではなく、生きた現実そのものに触れ、それを把握するものとして理解していたところに、九鬼の哲学の大きな特徴があります。『「いき」の構造』という著作も、そういう九鬼の考え方から生まれたと言えます。
京都大学教授 藤田正勝先生
所属,文学研究科 職名,教授 生年,1949年 専門分野,哲学・日本哲学史
京都大学高等教育研究開発推進機構HPより引用
http://www.z.k.kyoto-u.ac.jp/pocket.cgi?action=course_detail&id=1802
禅宗の本にもあった。
禅問答の題材(公案)に、「婆子焼庵」というのがある。昔、ある所に老婆がいて、一人の禅僧に安心して修行に励めるよう、小さな庵に住まわせ、食事や身の回りの世話をした。しばらくして老婆は、禅僧の心の内を計ろうと、 美しい娘に身の回りの世話をさせた…禅僧が、娘の色香に惑わされるようなら、叩き出すつもりでいた。しかし、数ヶ月過ぎても、禅僧は娘に心を動かされることはなかった。 ならばと老婆は、娘に禅僧に抱きつくように指示した…娘は、座禅をしている僧の後ろから、 いきなり首に抱きついて、「こんなことをしたら…どうなさいます?」
禅僧は冷然として答えた…
「枯れ木が冷たい岩に寄りかかっているようなものだ…少しもその気にならん」
いかにも修行僧らしいみごとな態度に、娘は恥ずかしそうに戻って、老婆に告げた。 娘の報告を聞いた老婆…禅僧を庵から叩き出し、庵に火をつけて焼いてしまった。
この話は、人間である限り、性欲・物欲・執着心などの煩悩を消し去ることは不可能であると解釈すべきなんだろう。なのに、さも悟りきったように振舞った禅僧が、偽善者であることを老婆は見破ったというものであると愚生は思う。苦行の末に悟りを得たからといって、煩悩がなくなることは決してないことを、問答を戦わす中から学ぶんだろう。
これが何を意味するのかということを現役の職業人の時はよく考えていた。言っていることと、潜在意識というのは全く違っているのではあるまいかと思っていたからである。クチでは、オレは生涯一市井人で生きるとか、世の中の片隅で自分なりに生きるとか、出世なんか無縁に生きる崇高な人間であるとか、名誉とか勲章とかそんなモンいらねぇよということ等を標榜される方がおられる。それが殆どの場合にクチだけであるのを、年齢を重ねて、わかってきたからである。
つまり「ポーズ」なのであった。クチだけでそういうことを言っているだけだったのである。ほんとうは、一市井人として生きることを否定し、世の中のど真ん中で活躍したいし、出世もしたいし、カネも儲けたいんであるのはミエミエであった。そういうことを言うということ自体、それらの現象に囚われているということを自ら告白しているようなものである。「オレは執着なんかしてねぇぜ」という言い方は、見事に「執着」を表明しているようなもんであるからである。
しかしながら、囚われているのもまた楽しでありますなぁ。(^0^)
九鬼周造の言ったことは、「いき」ではあるが、こういう執着している愚生のような一般ピープルにもある意味救済である。「いき」って、現実にまみれて、いろいろ苦しんで、それでいいんであるってことですなぁと思ったからである。
ダブンを書いているのも、オレにとってはまさに「無明」を生きているようなもんだ。昨日の大妻女子大元教授の渡邊昭五先生の著書(「中近世放浪芸の系譜」 岩田書院 2000.2)に刺激されたんである。語り口も見事であるが、一番最後に学会での出来事がいろいろ書いてあった。ほんとにいろいろおありになるんだなぁと思ったからである。そして、ついに年齢的なものもあって論文執筆や研究活動から引退されるあたりを書かれていた。大変におもしろかったのである。
ある意味、いいんだ、いいんだと~ま君!と激励を受けたようなものである。そのままでいいんだよって。どうせモノにならならないだろうけど、いいんだよん!ってね。囚われ、執着して、迷い、這いずり回り、おそよ悟りとは異種の世界でノタウチ回っていくしかないようである。
いきに生きたいっていう覚悟だけはあるんですがねぇ。さ、これから「いき」に、斜に構えて電車に乗って、とぼとぼと学校に行こうっと(^0^)
※昨日書いていたTwitterの記事が拙ブログに反映されていませんが、どうしたんでしょう・・・オレと一緒でとほほ状態なんかね?ま、いいか。
著書に言及くださいまして
ありがとうございます。
渡邊昭五先生の本は、今日殆どを読了して多大なる学恩をいただきました。能のこと、高野聖のこと等々非常に参考になりました。さすがに碩学、憧れの方であります。Twitterにはもっといろいろ書かせていただいたのですが、反映されていないようで残念であります。
貴大学のますますのご発展をお祈り申し上げます。