○今日の指のトレーニングは以下のとおり
幻想と現実の境界で楽しむのは、少女マンガチックな楽しみでもあるのかもしれない。NHK大河ドラマ「花の乱」を見ながらそんなことを考えていた。日野富子が、15歳になって源氏物語の美男子を憧憬するようなシーンを見ていてそう思ったのである。今も、昔も変わりはないんだなぁとも。
京都に行くと、すでに潜在意識があるからか、古典の世界がそのまま現実世界に現れているような錯覚に陥る時がある。京都に昔から住んでいる方々は、生活があるからそんな夢のようなことを考えているわけではあるまいにと思うのである。そりゃそうだ。生活というのは、古典の中にはないから。
去年の十二月に京都で学会の発表をさせていただいた時にしみじみそう思ったのである。修学旅行とは違うんである。あるいは、「そうだ!京都、行こう」ってなわけで行くのとは違う。
なぜそんなことに今更ながら気がついたか。それは大会会場の龍谷大学にしか用がなかったから、そして、すぐさま居住地に引っ返したからである。つまり、遊びの要素が皆無であったからである。日常と変わらないわけだから。
そういう日常の眼で京都を見ると、地元の方々にはなんと見られているんだろうと考えてしまう。どうせ、遊びで、観光で来ているんだから、金さえ落としていけばあとは用はないんだぜと言われてしまったら、もうなんともしようがない。ま、そんなことは考えておられないとは思うが。
このことは、民俗学でも言えることであって、東北の田舎にあるからって、妙な前提は持たないほうがいいとオイラは考えている。田舎だから、あるいはとんでもない僻地があるからということで、前提を限定しないほうがよろしい。
なんでもかんでも宮沢賢治の書いたような話が転がっているとは限らないのである。生活している人々は、現実を生きているからである。それを忘れて、オシラサマのような話がどこにでも転がっていると考えては間違いであると思っているのである。オイラは。
とかなんとか言いながら、それはそれなりに楽しみに読書をしているのだが。
今では、新幹線で東京から二時間ちょっとである。これはもう、条件が違っている。だから常に自分の前提を疑ってかかるしかない。これでいいのか、こんなんでというわけである。
このことだけは動かしてはならぬようである。前提を常に疑ってかかるということである。
毎週日曜にテレビで一週間のニュースをまとめて見ているが、あれに出てくるコメンテーターという輩の言うことにいちいち反論を試みて喜んでいるのはオイラばかりであろうか。また、新聞の投書欄にも同様に、ホントかね?って反論しているんだけど。これって、ぼけ防止にはとてもいいんだってねぇ、ははははははははは。
いいんだ、いいんだ。頑固爺でありますから。
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