おはようございます。一日家にいることとなりました。昨日は早寝したので、今朝は早起き。やればやれるんですねぇ。退職してから、ずっと夜更かしをしていたのですが、かなりムリをしていたですね。焦りもあったのかな。学力が無いっていう現実もあったし。(^-^)/
郷土史家の平田篤胤のことを書かれた原稿をワープロ打ちをしていました。郷土史研究会の編集担当でありますから、なにかとあります。しかし、エライ先生の原稿は手書きですから、なかなか読みにくい。さらに専門用語がこれでもか、これでもかと押し寄せてきます。参りました。
もっとも原稿おこしは、映画「小川の辺り」(藤沢周平原作)を見ながら別のcomputerでやっていたから、そんなにダメージは無いんですケドね。単純作業が一番こたえますから、ながら作業でいくしかない。
藤沢周平の映画を見ていると、あっちは庄内地方ですが、山形にちょっと帰りたくなりますねぇ。桜も見たいし。春が待ち遠しいという点では、雪国故に日本一のところですから。待っていたから、桜がきれいなんです。なんでもそう。綺麗な女性もそう。待って、待って、待ち焦がれるべきです。(^-^)/
もっとも、待っていたおかげで、生涯独身というのもあり得るでしょうから、いろいろ考えた方がよろしいでしょうよん。これは年配者からのご忠告です。
富士山のように、見る角度、どっからでも美しいというのはなかなかありませんけど。女優の原節子様を除いては。(^0^)/
今日の記事に書いたイシガミ様のことは、書いてから気がつきましたが、こういうことをオレはやりたかったんだということでありました。いつもながら、書いて初めて自分のことがわかるというお粗末な人間ですので。それでは、また。夜にでもここに来ましょう。さ、ジムで身体を鍛えてきます。
私は信仰や宗教を学問として扱う気はないですが、でも私は割と切り捨てたがりな気がします。でも、文献に書かれて残っているものが、大海の一滴に過ぎず、ましてや、信仰や能楽のように今も続けて行われていることの場合、あまり簡単に判断するようにはしたくないとも思ってます。@genshin01
バランスの難しい話なんですが、自分の周りをイメージする限り、信仰対象を「文献に残された事実」だけで批判されることは非常に不愉快なことです。「文献に残されなかった事実」や「信仰されている事実」を如何に勘案して言葉にするか。この辺は、その人のセンス・人柄・能力なんだと思います。
信仰や宗教を扱う研究者が「文献に○○と書いてあるから××ではありません」という指摘をする時、その人の人柄がでるように思います。つまり「その次どうなんだ?」ということ。「文献には○○とあるが、××にも…」と意義を認める人、「文献学・歴史学では○○です」と切り捨てる人などに分かれます
明月院上杉重房像:本姓藤原氏で、宗尊親王(皇族将軍)が6代将軍に就任する際に近侍した。上杉氏を称し、謀反の疑いで解任された親王帰洛後も幕府に仕えた。足利氏と婚姻を結び、孫の清子が尊氏を産んだことから、子孫は関東管領に任じられた。twitpic.com/c5zqd7
梅原猛”縄文土器には空間の恐怖があるように思います。悪霊が入ってくるのを恐れるかのように全面に紋様をつけます。とくに口の部分や底の部分、つまり外部から悪霊が入りやすい箇所には非常にダイナミックな紋様をつけます。” j.mp/rEw280 『縄文人の世界』