と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

中国語では、男子にも相手にされなかったケド。(; ;)ホロホロ

2013年06月02日 09時17分48秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

セクハラは無明を生きている証

 

 

 昨夜は、夜の10時になって居眠りをしていた。はっと気がついたのが、11時頃。あああああ、こりゃ疲れているわいと思って早く寝た。二階にある自分の寝室で。あ、違う。あの部屋は、自分から志願して、他の村へお嫁さんとなって出ていった長女の部屋に、新しくベッドを買ってオレの部屋に改造してしまったのだった。だから長女のモノはなにもない。もう帰ってきてこないでくれ(離婚とかで)という父親らしい配慮だが。居場所はねぇぞということを宣言したのだ。人類学的には、他の村に贈与したのだ。哀しいけどね。

 もっとも、拙宅は、和室ならまだ8畳のが二部屋ある。帰省したら、そっちにいてもらっているが。孫も一緒だしね。二階は危ないから。階段を孫に歩かせるのが。まだ禁止ですよん。

 で、朝の3時にお目々がぱっちりになってしまって、それからずっと書庫で読書していた。小説を読もうとしたのである。なぜか。どうしても最近は、小説が面白くないのだ。特に、恋愛小説とか、不倫とか、離婚とかの、男女のからむものが、読むに堪えないのだ。もうそんなことに興味がなくなってしまったのだなと自覚している。

 では、なんで読むのかというと、ゼミで近代文学を教えていただいているからである。読むに堪えないとは言っていられないのだ。44年前には、国文学科で初々しい学部生であったから、慣れているはずなんだが。

 これもあれか年取ったせいか。もう男女がどうしたこうしたなんていう世界は、ひたすら面倒なんである。苦笑してしまうほど、オレには関係の無い世界ですなぁ。生まれてこの方、モテたことが一回もないのだ。だから、無縁の世界なのである。苦笑しているしかないのだ。かわいそうな青春を送ってきたもんですよん。

 だからオレは、そういうモノは情欲とからんでいて無明を生きているとしか思えないのだ。くだらないとまでは言わないが、どうにもこうにもご苦労さんとしか言いようがない。随分無駄なことで、男女は無明の世界をさまよっているもんだと思う。オレは、そういうどろどろした世界というのを体験したことがないから、文章上でしか知らないのだが。

 ただし、それでもオレはセクハラというのには注意している。か弱い女性を、なんだか知らない手段でセクハラしちゃいかんぞな。もっとも、最近はか弱い女性というのもだいぶいなくなったけど。(^0^)

 中国語を学んでいる事は時々書いてきた。居住地の社会教育の講座で学んでいる。月に、たったの二回である。これで困っている。語学は毎日やってこそモノになる。今週の水曜日には、女性講師と一緒に全員で水餃子を作って食べるのであるが、そんなことしかタノシミがないほど、オレの中国語は進展していない。能力ねぇなぁと思っている。当たり前である。英語だって、受験英語なら少々できるが、まったくしゃべれないし。

 城西国際には留学生もたくさんおられる。クラスメイトにもお聞きしたりしたことがあったが、ご迷惑になるからと思ってすぐ止めた。女性の留学生に中国語をおせぇてくれって話しかけたら、それこそセクハラである。そもそもオレは顔自体がセクハラだ。醜男きわまりないからだ。醜男故に相手に不快感を与えたら、それだけでセクハラだ。相手がそう思うだけで、条件が満たされると研修で随分聞かされたしなぁ。ほら、教員だったから。県立高校の。それに、オレはこーちょーセンセだったから、セクハラを取り締まる方だったし、そんなことをしたら洒落にならんですたい。今更、人生の最後になってさらし者にはなりたくねぇってやつでござる。

(^0^)

 男子の留学生にも頼んだが、頼んだこと自体ご理解いただけなかったようである。変なじいさんが、妙なことを言っているって思ったのかもしれない。

 そもそもオレの日本語はかなり怪しいからなぁ。言語学的には、ズーズー弁というのだし。シカトされたので、はれぇ・・・となってしまった。当たり前である。オレのようなじじいにつきあっている暇はないからだ。彼ら彼女たちは、これからの方々である。ライセンスをとって、出世していかなくちゃならん。オレは、これから死ぬだけだ。

 もう二度とおせーて頂戴とは言わないことにした。こんなじいじの世迷い言は。それでこそ、オレの成長はある。

 \(^^@)/

 それからNHKのテレビ中国語講座を録画して、隠棲室で視聴している。それでもできない。ため息が出る。中国語講座を見たいというのは、オレだけの都合でやっているのだから、来年はどっかの学校に入学してやってみるしかない。カネを払えば、やる気になるだろう。ハハハハハハハである。いつもそうだ。

 もっとも、あれだなぁ。駄文書きが最優先である。こっちにばかりアタマが行っている。だからできねぇんでしょうけれど。

 

? 言い訳しているね、言い訳。

 

 

 

※無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。

概要 仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。たとえば、闇(やみ)について、多くの人は「闇は存在する」と漠然と考えている。しかし、闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。闇がどこか別のところに移動したわけではない。つまり、闇は始めから存在しなかったということである。闇は「光の欠如」ということであって、闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。精神的な「苦しみ」についても、同じようにとらえることができる。智慧の光によって、苦しみはたちまち姿を消す。苦しみが、何か実体を伴って存在しているわけではない。実際には無いものを有ると考えるのは無明である。

(ウキペディアより)

 

 

 

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