人はなぜ花を愛でるのか
花は食えるか?あるいは、花を食わないと死んでしまうのか?
こんな問答を自分でやっておると、情け無くなる。しかし、花の精霊を追って、ふらふらとさまよい歩いている身としては、「なぜオレは花を追いかけるのか」という自問自答に答えることもできないでいるアタマの悪いオレに気がつくのである。今更である。
そして、昨日居住地にある大図書館で原稿書きをしていて、ちと疲れたからと思って、開架書庫をそれこそふらふらと眺めながら歩行運動をしていたのだ。あっと思った。最適の本が目に飛び込んで来たのだ。
「人はなぜ花を愛でるのか」(八坂書房)である。
まるっきりオレのために鎮座ましましていたような本じゃと思った。図書館には、書籍の精霊がいる。確実にいる。普段から、考えていること、感じていることに応えてくれる本というものはあちらから目の中に飛びこんでいらしてくださるからである。
なかなかおもしろい、この本。
佐倉の歴博の学者せんせたちも関係しているから、学術的にはしっかりしている。愚生なんか読んでもいいのだろうかと思うくらいである。ま、愚生は読み飛ばしも得意だから、あちこち誤解している部分もあるだろうけれども。それに、原稿書きがメインだから、ずっとこっち系を読んでいるわけにもいかない。さらに、来週火曜日は近代文学批評の講義もいただく。予習をしていかんとならん。資料を朝からずっと作っていた。明治以降の原作は、容易に入手できる。インターネットの青空文庫である。それを一枚に2頁から4頁程度に印刷して、メモを作る。カードである。こちら系は、18歳からずっとやっていたが、中断の時間が長すぎる。44年たっているからなぁ・・・・(^0^)
詳しくは同書を読んでもらいたいのだが、一つだけ感心したことがある。
それは古代の洞窟などには、動物とか、信仰対象のようなものが描かれているが、花もまた描かれている洞窟が少ないケドあったのである。これにはびっくりした。人は、パンのみにて生くるにあらずと言ったキリストの、あるいは旧約聖書のずっと前から、我が祖先達はパンのみで生きていたのではなかったということである。食うためにだけ生きていたのではなかったのである。なんか、古代の人類社会というと、お粗末な未発達の社会ばかり想像することが多いけど、実際はもっと進んでいたのだというのが愚生の実感なんだが。
群馬県立自然史博物館には、花を死者にたむける埋葬するネアンデルタール人の復元模型もある。なんだか、ネアンデルタール人というと性格も悪く、姿勢も悪いとか、凶暴とか、短足だとか悪口ばかり言われている。ホントか?と申しあげたい。性格の悪い人間は、現代の方がいっぱいいるんじゃぁねぇのかねぇと感じているから。普段から。
花は、自己の遺伝子を残すために美しくなったというのもあり得るだろうけれども、どうもそういう説明ではなくて、愚生は見ている人間のこころの側に原因があって、それで花が美しく見えるような気がしてならない。
これは女性を美しいと感じるこころと一緒なんじゃないかねぇ。こっちがわの勝手な思い込みというのも、しばしばあるんだろうから。経験不足でまったく書けない世界であるけれども。恋愛小説なんか書ける奴はたいしたもんだと思っているから。ついでに言えば、渡辺淳一みたいな不倫小説なんかぜったいに書けないなぁ。ハハハハ。
美を感じるこころというのは、言語の発達とも関連してくるのだろう。言語でもって、美を感じ、美を表現するからだと思っている。言語というものは、それくらいのチカラはあるのである。そう思っているのだ。
そもそもそれが愚生の追求テーマである。だから彷徨しているのである。
花を髪に挿しながら、ヨレヨレと歩いているのである。
あ、オレに髪は無かった。
(^-^)/ お粗末でした。