生涯歩き続けた信仰者や、芸能者というのがいる。否、いたというべきであろうか。一所不在の、永久の放浪者というか漂白者というか、そういう方々がおられたのである。一種の憧憬の対象であり、きちんとした職業の人々にこそ、そういう方々への憧れがあるのかもしれない。
山頭火などは特にそういうことであろう。山頭火に憧れる人もいるからである。事実、愚生もそうである。すべてをウッチャッテ、放浪の旅に出るというのは、なかなか格好がいい。固ぐるしい日常を抱えている人ほど、そういう非日常性に憧れるのであろう。わかるような気がする。これまではである。しかし、アタシは、もうオカタい日常というのがない。ただただ、とぼとぼと生きているだけである。仕事をしたくても、やらせていただけないからである。(笑)
ただし、放浪の旅人というのは、常にのたれ死にの危険性を持っている。
歩き巫女という方々がおられる。神につかえている方々である。神に憑かれたように、ひたすら歩き続ける。途中、野犬にあったり、強盗に襲われたりするかもしれない危険性をあえて冒して旅を続ける。背後には、留まるということがないということがある。留まったら死である。停滞は悪であるからである。それほどの覚悟を持って歩き続けるのである。停滞が悪であるならば、流動は善であり、その意味で実にシビアな生き方であると思わざるを得ない。
空也上人という方がおられた。彼を慕うある種の人々は、阿弥陀聖という方々である。宗教的な衝動を生涯持ち続けながら旅を重ねていかれるのである。お遍路というのもそれに近いのであろうか。もっとも、お遍路は宗派が違う。
しかし、お遍路にも生涯周り続ける方々がおられると聞く。
理由はいろいろであろう。家にいられないという理由の方もいるかもしれない。そのことをどうのこうのと言うつもりはまったくない。そうではなくて、共同体の中で生活することがどうしてもできないという方々のことを考えているのである。血縁、地縁、職場のしがらみ等々の理由はいくらでもある。そして、退職後はそういうしがらみと全く無縁で生活できるということを楽しみにするという方々もおられる。ホントは、そういう簡単な話で済むことではないのだが。どうしても一回人生をリセットしたいという方はおられるのであろう。それもまた良し。いいではないか。自分の人生だもの。どう生きようとである。
アタシャ、どっちだろうと思うことがある。
座布団に座って、鼻毛を引っこ抜いているというタイプで、一カ所に安住しているというじじぃではないようである。猫のように、かわゆく「にゃぁにゃぁ」と媚びを売っている暇があったら、なんか次のチャンスをねらって行動をしていくような人間らしい。
安住が苦手だし、家族とか共同体とか、政治的な野心とか、派閥とか、人脈とかまったく無縁で生きてきた。だから、歩き巫女のような旅に生き、最期は異郷の地で野たれ死にをしたいのである。でも、我慢している。迷惑になるからである。それは矛盾である。矛盾だからこそ、歩行への憧れが止まないのである。ほとんど病気のようなものである。
この夏、鬼来迎を見ていて思ったことがある。あの伝承を伝えた方々、その源流というのはそうした歩行者の存在を抜きにしては考えられないのではないかと。また、九十九里沿岸に伝わる伝承は、紀伊和歌山からのものがかなり多いということについてずいぶん考えさせられたのである。銚子に、山武郡に、安房に、幾多の伝承があるのである。私にとっては非常に楽しい話である。だから、いろいろと参考文献にあたって、この半年を過ごしてきた。
鬼来迎で言えば、現在の舞台には登場してこないが、石屋和尚という僧侶と、土地の有力者であった椎名安芸守との関わり方も非常に興味がある。石屋は、私の言うとことの永久歩行者であったのではないのか、と想像をたくましくすると楽しくなる。どんな顔をしていらしたのだろうかなぁと、思うのである。
もしかして、もしかしたら、石屋和尚は、宗教界という共同体からの離反者であったのではないかと想像すると、これは愚生に重なってくるからだ。離反、逸脱、変わり者という単語がである。ともあれ石屋和尚が、どんな宗派で、どんな思想を持っておられて、どんな生活をしておられたのだろうかと思うことが愚生にとって大事な問題であると意識させられるからである。
民族学者の谷川健一先生は、九〇歳をはるかにこえられて、まだまだ現役である。月のうち二〇日を取材の旅をされて、残りの一〇日で原稿書きをしておられる。先生もまた非常に尊敬すべき永久歩行者である。とてもとても、愚生ごときものがまねをすることなんて、できない相談であるが。(でも、しっかり憧れてはいるんだけど)
しかしながら、愚生の場合は歩き続けても終点がない。目標をきっちりと定めて、計画通りの生き方をすることが苦手なのである。これまでもこれからもである。そもそも、そんな生き方は愚生には似合わない。あてどもない永久歩行をまったく時間も気にしないで、やっていくしかないようである。世渡りも下手だったし、人脈もない、地縁もない、地元の学校も出ていない。どっかから来て、どっかへと去っていくしかないようである。
まったく風の吹くままでありますなぁ。だから、こんなブログを見ている時間がおありでしたら、時間を惜しんで計画どおり人生を歩まれた方がよろしいですよ。
つまらんじじぃからの助言でございますから。
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