読者は本の中の黒インキの文字を読んで、心のなかでその情景を思い浮かべねばなりません。心の中で言葉を聞かねばならない。読みながら、本当はその言葉を一緒に話さなければならないのです。これは他のなにものにも代えがたいある親密さ、近密さなのです。 『MOE 1993年2月号』
普通のニュースをみているとそうでもないのですが、新幹線の中の一行ニュースを見ていると、この数ヶ月ファシズムが台頭して来ているような錯覚(じゃなかったりして…)を覚える。で、そんなときこそ哲学者の思考が冴える時なのである。そして御用哲学者とそうでない哲学者が分かれる時でもある。
歴史的に言えば、道徳が政治に対立し、賢慮の働きや美の基準を乗り越えて、無条件的で普遍的なものであることを主張するに至るのは、メシア的な平和についての終末論が、戦争をめぐる存在論の上位に置かれる場合であろう。哲学者たちは、けれども終末論を信じていない。-全体性と無限-
こう言えるんじゃないかな。私がファンタジーを生み出すかたちは常に舞台のシーン的なものに向かって考えられていると。だからこそ、私は対話体をたくさん使い、それを重要視しているのです。 『MOE 1993年2月号』
歴史が二十世紀に近づくにつれて、人間は内にも世界を持つことを忘れ、周りを取り囲む外の世界にだけ関心を集中するようになる。でも、この私たちの中にある、内なる世界も同じように実在するのです。 『MOE 1993年2月号』
深層の意識は単なる思考ではなく、絵を通じて語りかけます。それが語ることは夢や幻想的ヴィジョンの性質を帯びるのです。おとぎ話や神話というのは、そのどれもが夢想的ヴィジョンの性質を持っていますね。この夢想的なヴィジョンには意味が沢山ある。 『MOE 1993年2月号』
祈りとは、キリストにわたし自身を完全にゆだねること、キリストと完全に一つになること以外の何者でもありません。そしてこのことが、わたしたちを、この世のただ中において観想的にさせるのです。
主体を問い直すということは、その現実的な破壊、その解体、その破壊、全く別なものへのその転換、こうしたものへと到るような何かを経験することを意味している。-M・フーコーとの対話-
高度に様式化された表現形式は自然主義的なことがらを表現できない。(内容としての)ことがら自体にも原ヴィジョン的な性質が必要になり、何らかのかたちで魔術的なものでなければなりません。 『MOE 1993年2月号』
■「命とはなにか。それは、夜の闇にまたたくホタルのきらめき。凍てつく冬の空気にバッファローの吐く白い息。草原を走りまわり日没とともに消えてしまう小さな影。」【インディアンの言葉】