[戦争の秩序の中]では、力の試練こそが現実的なものの試練である。とはいえ暴力は、傷つけ無化することにあるのではない。むしろ人格の連続性を中断させ、そこに自分を見出すことがもはや不可能であるような役割を人々に演じさせることにある。-全体性と無限-
形式をもった遊びを続けようとするなら、それが音楽であれ、物語であれ、その遊びは、内的な構造を必要とします。私にとっては、そもそもこの構造の方が、同時に生まれる作中の人物よりも、ずっと重要に思えるのです。 『ファンタジー神話と現代』
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
劇はその本質に従えば、悲劇であろうが喜劇であろうが、儀式的なものです。そして、儀式的である限りにおいて、つまり心理学化されない限りにおいて、他の形式と交換できないのです。これはまたもや、儀式化された題材、つまり、神話、メルヒェン、超越的出来事を扱うことを前提しています。
私には本来イメージ物語を物語ることが重要なのです。なぜなら、イメージは概念よりずっと多くのことを語ると信じているからです。人間の根源的な言語はイメージ言語です。私たちの夢はイメージの中で行われます。そして、ある意味で、あらゆる人間は夢を見ているとき詩人なのです。
古典時代の思考にとって、有限性というものの内容は、ただ無限性の否定だけであった。ところが18世紀末に形成される思考は、有限性というものにポジティヴなものの力を賦与する。その時に出現する人間学的構造は、限界を設ける臨界的役割と、起源をつくる役割とを、同時に果たす。-臨床医学の誕生-
幼さと幼稚さとを区別しなければなりません。人間の中の幼さは、感動でき、自発的で、経験に開かれた、もっと進化する能力です。人間はこの幼さを本来決して「克服」すべきではありません。それに対して幼稚さは、大人に現れるとき、ちょうど停滞し、発展しない、硬直したハビトゥスです。
■「すべての暖かい夜 月光の下で眠れ その光を、一生をかけておまえの中に取り込むのだ おまえはやがて輝きはじめ いつの日か 月は思うだろう おまえこそが月なのだと」【クリーインディアンの詩】
デモーニッシュなものを可視化し、命名することは、私たちに、それと対峙し、それを凝視し、それによって、すでにその本来的な危険性を取り去る可能性を与えるのです。闇と不安を秘密にする文学は、本当には治癒的に作用できない、言い繕いの文学でしょう。 『Magische Welten』
私たちは、まずまっ先に、時間のなかだけでも、空間のなかだけでも成り立たないような同時存在ということが、物質を通じて招来されることを知る。時間だけなら、並存ということを知らないし、空間だけなら、先、後、今の区別を知らない。
この「人」を「孫」と言い換えてもいい。
孫とは、いつか別れなければならない。何年後には、こっちが死んでしまう。ついこの間に、孫と初めて会... blog.goo.ne.jp/tym943/e/b8b25…
【造仏黎明期と鞍作止利】鞍作部は馬具を制作する渡来系の一族であったが、一族には仏教に精通するものも多く、蘇我氏との関係も深い止利が朝廷より造仏の命を受けたのは当然であった。模範となる仏像が存在しない上に、元来仏師ではない止利にとって、飛鳥時代の仏像造営はストラグルの時代であった。
芝居を見るという経験には、心を救う効果、つまり治療の効果がある。そういう経験の属する次元を変えない限り、それは人生に必要不可欠なものだ。ところが経験の成立するレベルを混同すると、経験は、人生に危険なもの、人生を破壊するものになる。