と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

古代から続いているもの

2013年03月29日 22時19分01秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

老人の叡智

 

 

 老いた人というのは、愚生を除いて、すこぶるいいことを言われることが多い。そういう方々の珠玉の言葉にこれまで何度も救われたことがあったし、愚生が若いときは本当にお世話になったと思う。事実、屁のつっぱりみたいな少年時代をやんちゃに送っていたから、バカなガキだったと思う。ま、それはそれで懐かしい思い出でもある。

 愚生は、聖書も読む。これまで新旧の聖書を七回ほど通読した。反対側で仏教の教典読解もしているから、およそ信仰とはほど遠い人間でもある。あくまで知識として勉強しているから、未だに救われないのだが。絞ることができないのである。10代からずっとやっているのだが、かえって混迷を深めていると実感している。

 このことを前提として、イエスのことをちょとだけ書かせていただく。それは、イエスは青年の思想ということである。思想と言ったら信徒の方々に叱られるのだろうけれども。イエスは30代で亡くなっている。だからである。愚生は年取ったイエスが何を言っただろうかと思う時がしばしばあるからである。愚生と同じ60代ならば、何を言ったのだろうかと思うのである。それはもう歴史的な必然としてあり得ない話しであるから、これ以上は書かない。それでも、老いとか、病いとか、挫折とか、敗北とか、左遷とか、どういうように話しをしたであろうかと思う。

 一神教というのは、非対称としてのゴッドが主人公である。絶対の存在であるから、愚生のような凡人には永遠に乗りこえられない存在でもある。だからちっぽけな存在としての愚生なんかは、圧倒的なゴッドの前で原罪を意識せざるを得なくなる。このことは圧倒的な現実である。あいもかわらず、愚生なんか、つまらないことばかりやっていて善人の反対側にいる。そりゃ法律的な悪を行うわけではないが、食物連鎖の中で生きていて、魚を始めとするいのちを食べることによって生命を維持している。なんだか申し訳なくてたまらないのである。

 旧約聖書にヨブ記というのがある。実にヨブは怖い。あらすじは、ここには紹介しないが、あのようなヨブ記を読んでいるから、西洋人は怖いのだ。ヨブ記の場合は、ゴッドは頭ごなしにしっかりせよと言う。ヨブはどんな悲惨な目にあっても、救われない。(と、愚生は思っているのだが)だから、見捨てられるからこそ西洋の一神教は成り立つのであろう。イエスが、最後に十字架にかからず、ゴッドから救済されていたら、キリスト教はこの世に存在しなかったであろうから。

 日本人は、多神教である。一神教の割合が少ない。理由についてはここでは述べない。愚生の大きな関心事であるから。それは別に書く長文の駄文でこれから書いていきたいからでもある。そして思うのが、日本人というのは、ヨブとか、イエスのような生き方は苦手なのではないかということである。最後はどっかで救われてしまっている。へらへら笑いながら、4月には仏陀の祭りを祝い、12月にはキリストの誕生を祝い、正月には神道の神社に初詣でに行く。なぜなのだろうと思うのである。こういう精神構造は、日本人がふざけた民族であるというのではないのだろうとも思う。むしろ旧石器時代から連綿として続いてきた、古代からのDNAなのではあるまいか。

 よく言えばバランスのとれた思考をすることができるということなのであろう。二者択一をしない。AかBかと迫らない。戦わない。不戦勝をねらっている節もある。激しい感情の変化を厭う傾向もある。

 こういうのを「老人の智慧」というのではないか。日本人は古来からそうやって生きてきたような気がするのである。和をもって尊しとなすと言われた聖徳太子のような方もおられたのだ。そういう意味では希有の國でもある。

 そんなことを今日は思ったのである。

 

 

 (^_-)-☆

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