さすがの愚生も、往復492キロの運転は疲れた。(体力しか自慢できないから)
昨夜は、ワンカップ大関みたいなものを、ちゅ~っと呑んでいたらあっというまにバタンキュ~。もっともその前に、疲れたときは逆に身体的な疲れを体験すべきであるというので、ジムにも行っていた。サウナにも入ってきたからお酒が効いた。しっかり効いた。
そして、朝3時には目が覚めてしまった。ずっと橋本治先生の書籍を読んでいた。Amazonからもたくさん先生の古本を買ったので、赤鉛筆を片手に仕込み中である。で、飽きるとこっち。つまり、ブログを書き始める。愚生の場合、ブログはノートの代用品だから習慣になっちまっている。あ、それと愚生ってブログ書くの異常に早いんです。これって、知ってる人は知っているんだけど(ナンダ?それ・・)。だから、あっという間に書いちゃう。表現がおかしいところが出てきて困ってしまうから、後で訂正する。ともかくやってみることを優先しているのが、愚生の生き方でしたから。過去形でしか言えないのがマコトに残念なんだけどなぁ。
もっとも、相手は最初想定内読者5人と思っていたら、読んでくださる方が増えた。ありがたいことである。現役時代のブログの記事も、このブログに全部コピーしてあるから、その時は52万のヒットであったが。このブログは新規に立ち上げたのでゼロからスタートした。
再スタートでは、生涯学習という分野であった。学校教育ではスタートしていないのである。徐々に見てくださる方がおられればいいと思っていただけであった。しかし、もうそんなことは言っていられないんだろう。毎日、ご訪問してくださる方がおられるようになってきた。ただし、教育関係のことはまったく無関心を装っている。マスコミを賑わしている話題だって、関心がないわけではない。オレならばどうするのかということは、即座に出てくる。しかしである。当事者の気持ちを思うと、こんなあふぉ~なブログであれこれコメントを書いてみるということはできない。それほど、恥さらしではないつもりである。大変です、頑張ってとエールを送るしかない。
ニンゲンナンテ、勝手なもんである。当事者の気持ちなんてまったく考えないのだから。一億総評論家である。わかりもしないことを、あれこれ想像して言ってみたり、書いたりしたらいかんのである。インタビューもしないで、他人のことを書いてはいかんし、そんなモンが多いのは事実である。
最近言われたことが、現役のときのこと。ナンニモしなかったんだろう?と。4年間ただ学校でぼ~っとしていただけだろう?やったのはおめぇの前までの校長だよなぁ、ってことだった。
ハイハイ認めましょ。そう言って欲しいんでしょ?(^0^)
しかし、これだけは言いたい。校長がダメでも、頑張ったのは先生方であった。先生方は、大輪の豪華な花であった。愚生は、肥やしだけひたすら蓄えていたなんの起伏も無いただの大地でしかなかったなぁ。のっぺらぼうの、草木も生えない荒れ地だ。そういう意味ではナンモしなかったのだろうなぁ。
気楽に見えていたんだろうな。ソンなカオをしているわなぁ。ま、どうでもいいことだけど。どうせ、よく調べもしないで、噂話で人を評価しているんだから。
狭い社会で生きているとそうなる。自分のやっていることが、唯一絶対になっちまう。Pedanticというのは、そういうことを戒めるために自分に課してきたそうしちゃならないという自戒なのである。だから当然他人に対しても厳しい見方をさせていただく。あまり表面には出さないが、諧謔ということの本質はそこにあるんではないかと思うのである。自信と、相手を攻撃するというのは裏腹の関係であって、だからといって何でも許されるとは思わないほうがいい。いちばん厳しいのが、インテリジェンスである。パワハラ、アカハラ、セクハラというのも思い込みである。勘違い。やっているご本尊には、そういう自覚がないのだ。自分だけがエライとなると、自分が見えなくなるからだ。
それに「臭み」ということも気をつけられた方がよろしい。長年、同じことばかりやっていると、職業的臭みが出てくる。聞きもしないのに、前職時代は偉そうな地位にいたから、そして今回はたいした仕事をしていないから、発言に失礼があったらご容赦を、といけしゃーしゃーと言う御仁がいるが、笑いますなぁ(^0^)マークがいくつあっても足りませんぜ。(^0^)/ウフフ
だから、愚生は自分のことを「愚生」と自称する。「愚たる」「自分」という意味である。この基本的な構えが無かったら、相手が馬鹿に見えるだけではないか。冗談では無い。世の中にはすぐれた人がたくさんいるのである。このことを忘れてはならないのである。「自戒」ではあるが。
路傍の草にだって、学ぶことはたくさんあるのだ。じっと堪えながら、あるいは踏みつけられ、慮外の理不尽な攻撃を受け、存続すらできない可能性もある路傍の雑草には。悪ガキ時代にはそんなことを考えもせず、遊び歩いたものであった。山や川で。もっとも、愚生はその路傍の草を自生させる大地のようなことしかしてこなかったケド。柔道しかり。
大地には「教え子」という名の大輪のハナが咲いていて、そのおかげで今は柔道をただひたすら楽しむだけの境涯にいることができるんだから。
あの時代に戻りたい。しかし、もう不可能である。だいいち感受性が戻らない。いちいち大自然の動きに感動し、いろいろと考え、それを日記に書いていた。あのすこぶるパワフルな時代にである。要するに加齢をしたということなのであろう。しかしである。それを求めなくては、大自然の方も愚生に与えてくださる可能性はない。それは間違いない。求めなくては、何も得るものはない。バイブルにも書いてあるではないか(^0^)/ウフフ
今日は、これから城国大に行く。いくつかの書籍を携えて。また、図書館に、隠棲室に籠もる。でないと、ついていけないからである。大地だけで生きてきたから、オレの花が咲いていないからだ。もっとも、永久に咲かないだろうけど。肥やしだけだったからなぁ。
そんなもんはどうだっていい。
楽しいからやっているだけなんだから。
それでは行って参ります。
あ、そうだ。高校生はもうほとんど授業ないみたいですなぁ。だからと言って、何もしないでいるといけませんぜ。世の中には、高校生よりも勉強しているじじぃがいるのかも知れませんから。今週に限っては。(^0^)
(余計なおせっかいですが)