お早ようというのは挨拶ではあるが、見たかった映画のタイトルでもある。
実は真剣にDVDを捜していたのである。どこかに無いかと言うわけである。しかし、なかなか無かった。神田の中古DVDの店にも無かったのである。困っていた。監督の小津安二郎さんのことは大ファンであるからである。
ところが、灯台もと暗し。本学にあったのだ。むろん図書館である。視聴覚の設備もかなり整っているから、愚生は早速見せていただいた。昼休みのちょっとした時間を活用させていただいて、愚生は映画鑑賞をさせていただいていた。ちなみに、小津安二郎監督は、文学部系統の大学では卒論とか、修論の対象になっている。取り組んでいる方々もかなり多い。
そういうことをおやりになりたいなら、本学へどうぞである。
1958年の映画である。
監督は当然小津安二郎である。主演は佐田啓二 久我美子 笠智衆。
あらすじは、東京は西の端、5軒の建売住宅が軒を連ねる。そのうちの1軒、林家はサラリーマンの主人(笠智衆)、その妻(三宅邦子)、妻の妹(久我美子)、小学生の息子2人の6人家族である。最近、この5軒の家にすむ子供達の間ではオナラの鳴らし合いが流行していたという設定。これがなんともユーモラスである。たまらないほどおかしい。なぜなら、愚生も同様なことをやって遊んでいたからである。そんなとき、婦人会の会費を巡って主婦同士の間でちょっとした悶着が起こる。
つまらない大人の女性達の争いみたいなものが先行して、はらはらさせられる。しかし、事情は簡単であった。町内会長をしている杉村春子の母親が会費を預かったことを忘れていたということなのだった。その母親役で、助産婦のおばあさん役をやっている三好栄子がたまらないほど怪人ぶりを見せている。実の娘役の杉村春子と一緒に暮らしているのだが、娘への悪口を言いながら毎日を過ごしているのである。あんな娘、産まなきゃ良かった、どこの馬の骨だかもわからんつまらん男とくっついて、・・・・・・とブツブツとやっているのである。愉快である。実に愉快である。
このばあさん、あの怪優殿山泰司が演じる押し売りを退治してしまう。鉛筆や、亀の子たわしを買ってくれと、凄む殿山泰司。切れ味鋭いナイフを取り出して、玄関先で鉛筆を削って見せる。凄んでいるわけだ。ところがどっこい。この三好栄子演じるおばあさんはめげない。もっとよく切れるのがあるよと言って台所から、出刃包丁のでかいのをもちだして、鉛筆を削り始める。さくさくと実によく切れる。怖くなったのは、押し売りの方であったのだ。すごすごと帰っていく押し売り。
笑ったな。
殿山泰司がまだ若いせいか、ひと頃の悪役めいた性格俳優的な毒がない。むしろ、いいおっさんのようにしか見えないからこれは不思議である。愚生の方が、この頃の殿山泰司よりも実質年齢が上であるからかなぁと思った。
テレビの無い家庭が多い時代に、テレビが欲しくてハンストをやり始める兄弟と、それを取り囲む友人たち。相撲の若秩父とか、後に柏戸となる富樫がテレビに出てくる。これもまた懐かしい。こういう時代があったのだ。経験しているからこそ、この「お早う」を見たかったのである。
愉快な、楽しい笑いの連続の中で、笠智衆と東野英治郎を巡る「定年」というテーマが裏に隠されている。そんなに深刻な描き方はしていないが、確かに定年になると男はやることが無くなって、酒場に入り浸ったりしているしかないのかもしれない。そのあたりの屈折を東野英治郎はうまく演じていた。再就職が決まって、嬉々として笠智衆のところに報告に来るところなんぞまことに実話のようである。
この映画を見ていて、だんだんとおぞましくなった。
この昭和30年代という時代はやたら懐旧の思いでもって喧伝されるのであるが、ちょっとおかしいのではないかと思うのである。むしろ今よりもまともであったような気がしてならないのである。確かに貧しかったし、東京西北の文化住宅とか団地とか出てきてはいる。されど、時代のキャッチフレーズが違っていたと思うのである。良かったというのではない。
今のように、切り捨て文化に毒されていないということを感じるのだ。自己責任とか、嫌なら辞めてもらうとか、国家から民営化へとか、どっかの複数の大国にあっちふらふら、こっちふらふらとくっつき歩いて、なんだかワケのわからんことにはなってはいなかったのではないかと。
これ以上は書かないが。
今日は橋本治先生の小説「桃尻娘」も読みながら、駄文という名の駄文(世間的にはロンブンというのだそうな)もちょろちょろと書いていた。楽しいもんである。趣味だから。
(^0^)
実は真剣にDVDを捜していたのである。どこかに無いかと言うわけである。しかし、なかなか無かった。神田の中古DVDの店にも無かったのである。困っていた。監督の小津安二郎さんのことは大ファンであるからである。
ところが、灯台もと暗し。本学にあったのだ。むろん図書館である。視聴覚の設備もかなり整っているから、愚生は早速見せていただいた。昼休みのちょっとした時間を活用させていただいて、愚生は映画鑑賞をさせていただいていた。ちなみに、小津安二郎監督は、文学部系統の大学では卒論とか、修論の対象になっている。取り組んでいる方々もかなり多い。
そういうことをおやりになりたいなら、本学へどうぞである。
1958年の映画である。
監督は当然小津安二郎である。主演は佐田啓二 久我美子 笠智衆。
あらすじは、東京は西の端、5軒の建売住宅が軒を連ねる。そのうちの1軒、林家はサラリーマンの主人(笠智衆)、その妻(三宅邦子)、妻の妹(久我美子)、小学生の息子2人の6人家族である。最近、この5軒の家にすむ子供達の間ではオナラの鳴らし合いが流行していたという設定。これがなんともユーモラスである。たまらないほどおかしい。なぜなら、愚生も同様なことをやって遊んでいたからである。そんなとき、婦人会の会費を巡って主婦同士の間でちょっとした悶着が起こる。
つまらない大人の女性達の争いみたいなものが先行して、はらはらさせられる。しかし、事情は簡単であった。町内会長をしている杉村春子の母親が会費を預かったことを忘れていたということなのだった。その母親役で、助産婦のおばあさん役をやっている三好栄子がたまらないほど怪人ぶりを見せている。実の娘役の杉村春子と一緒に暮らしているのだが、娘への悪口を言いながら毎日を過ごしているのである。あんな娘、産まなきゃ良かった、どこの馬の骨だかもわからんつまらん男とくっついて、・・・・・・とブツブツとやっているのである。愉快である。実に愉快である。
このばあさん、あの怪優殿山泰司が演じる押し売りを退治してしまう。鉛筆や、亀の子たわしを買ってくれと、凄む殿山泰司。切れ味鋭いナイフを取り出して、玄関先で鉛筆を削って見せる。凄んでいるわけだ。ところがどっこい。この三好栄子演じるおばあさんはめげない。もっとよく切れるのがあるよと言って台所から、出刃包丁のでかいのをもちだして、鉛筆を削り始める。さくさくと実によく切れる。怖くなったのは、押し売りの方であったのだ。すごすごと帰っていく押し売り。
笑ったな。
殿山泰司がまだ若いせいか、ひと頃の悪役めいた性格俳優的な毒がない。むしろ、いいおっさんのようにしか見えないからこれは不思議である。愚生の方が、この頃の殿山泰司よりも実質年齢が上であるからかなぁと思った。
テレビの無い家庭が多い時代に、テレビが欲しくてハンストをやり始める兄弟と、それを取り囲む友人たち。相撲の若秩父とか、後に柏戸となる富樫がテレビに出てくる。これもまた懐かしい。こういう時代があったのだ。経験しているからこそ、この「お早う」を見たかったのである。
愉快な、楽しい笑いの連続の中で、笠智衆と東野英治郎を巡る「定年」というテーマが裏に隠されている。そんなに深刻な描き方はしていないが、確かに定年になると男はやることが無くなって、酒場に入り浸ったりしているしかないのかもしれない。そのあたりの屈折を東野英治郎はうまく演じていた。再就職が決まって、嬉々として笠智衆のところに報告に来るところなんぞまことに実話のようである。
この映画を見ていて、だんだんとおぞましくなった。
この昭和30年代という時代はやたら懐旧の思いでもって喧伝されるのであるが、ちょっとおかしいのではないかと思うのである。むしろ今よりもまともであったような気がしてならないのである。確かに貧しかったし、東京西北の文化住宅とか団地とか出てきてはいる。されど、時代のキャッチフレーズが違っていたと思うのである。良かったというのではない。
今のように、切り捨て文化に毒されていないということを感じるのだ。自己責任とか、嫌なら辞めてもらうとか、国家から民営化へとか、どっかの複数の大国にあっちふらふら、こっちふらふらとくっつき歩いて、なんだかワケのわからんことにはなってはいなかったのではないかと。
これ以上は書かないが。
今日は橋本治先生の小説「桃尻娘」も読みながら、駄文という名の駄文(世間的にはロンブンというのだそうな)もちょろちょろと書いていた。楽しいもんである。趣味だから。
(^0^)