孫との楽しい二日間であった。動画を徹底的に撮って、昨日今日は家族で鑑賞会をやったのだ。孫の表情・しぐさ・ぷにゅぷにゅとした体つき等々ほんとうに馬鹿じっち丸出しで喜んでいた。ほんとうに楽しいものである。後は、孫の成長を祈るばかりである。どんな大人になっていくのであろうか。彼が20歳のときは、愚生は80歳ちょうどである。厳しい現実がまっている。つまり、永遠に生きているわけにもいかんだろうから。後が詰まっていると叱責されたら、すごすごと引き下がるしかないのである。
これは定年という問題もそうである。後が詰まっているということは、若い世代には切実な問題であろう。その点、イチローさんという野球選手の生き方も参考になる。
世代交代があってこその、世代間贈与である。前の世代からいろいろなものを贈与されて、アタシらは生きている。このブログだって、そうである。いろいろな本があるから、書けるのである。当たり前である。全部が全部オリジナルだという御仁がいたら、それは偽物である。
孫はその贈与論の最高の対象である。なんでもかんでも、じじぃとしては、彼に贈り物をしていきたい。迷惑だろうけれども。こっちはいなくなっちまうからである。
だから、命の問題ということを考えてしまうのである。なんだか、若い世代では、仕事がどうのこうのとか、どれだけ成果を上げたとか、そんな話題ばかりが先行する。はたまた、愚生が元ティーチャーであったということで、すぐ教育界はどうのこうのとかのたまう方もまだいらっしゃる。そんなの退職したんだから、まだオレは攻撃対象なんかね?って聞いてやりたいくらいである。退職したら、教員ではないのだ。ましてや校長なんかではないのだ。ただの平凡な普通に生きている人であるのだ。これは、諸先輩から厳しくご指導をいただいたことである。元コーチョーとか威張っていたら世間の笑いものになりますぜ。厳守したいことである。
だから、可能な限り教育問題にコメントはしない。現役の先生方に失礼ではないか。今更、こんなじじいがなにをかいわんや。
教員時代からずっと思ってきたが、手法とか、方法とか、マニュアルを教わったからと言って、自分で考察するということをしないのは、身につかないのである。考えなくちゃいかんでっせと思うのである。
さらに、新聞記事を読んだだけの知識で、教育全体を云々できるといううぬぼれはいかがなものか。世の中には、黙って、黙々と教育実践に励んでおられる方々も多々おられるのである。
そういう「地の塩」的な方を馬鹿にしてはいけないと、オレは思うのである。表面に出ているものばかりが、スターなのではないのである。勘違いをしてはならないのである。普通に生きて、普通に退職して、普通に死んでいくことがどんなにありがたいことかということを、よくよく考えなくてはいかんのである。自分自身にいい聞かせているんだケド。
もっとも、愚生なんぞは、なかなか他者に追いつかないから、常識レベルに達していない。なんの実績もないしなぁ。学会活動なんて全く経験無いし。もしかしたら、ミチを間違えたのかなと思うことしきりである。もっとも、教育実践にまったく関心なくして、学会活動ばかりやっているというのも、これはいかがなものかと思ってきたが。
この4月に入学したのに、まだ言われる。大学院なんて行ってなんになるんだ?という多くの方々の問いである。これは、本当に切実である。まったくそのとおりであろう。なんかになろうという前提ならばである。最近はよくこのことを考える。
ステップアップという考え方が愚生にはまったくないからである。昔からないんである。わらっちまうくらいない。あっさりしているんだろう。だから、親分も子分もいない。交際の中から、オレをえらくしてくださいませということは一切なかった。登竜門と言われる研修も受けていないんである。マジである。だからオレのことを知っているお偉いさんはいないのだ。(^0^)
ただひたすらやってみたい、興味がある、それらを元に駄文という名の駄文(ナンダ?そりゃぁ)を書いてみたい、発表ツールはなんでもいい。だから許して・・・(ナニガ?)というレベルの話なんである。これはずっとやってきた。実は20代の頃から、いろいろと書かせていただいた。20代で道徳教育の駄文を。30代で困難校における国語教育を。退職の前4年間は、ずいぶんあちこち書かせていただいた。
今晩から、駄文書きを再スタートさせる。これまでとは異分野である。しかし、たったの40枚の原稿である。だから、質的な内容をしっかりしなくちゃいけないのだ。中身が問題である。だいたいの構想は練った。修士の時にお世話になった通信教育の方の武蔵野大学大学院にかなり厳しくご指導をいただいたからである。良い経験をさせていただいたものである。一字一句ご指導をいただいたのである。生涯学習のメッカでもある、我が母校は。(オレのような懶惰な学生が、母校と言ったら通学生に叱られるかな?)
ポメラで書いていくつもりである。ポメラ自体は、数万字も入る。それを常時持ち歩いて書くのである。楽しい、楽しい。
しかしである。
だからといってそれがなんになるんだ?と言われると、「そのとおり!よっ、旦那さん」と申し上げるしかない。これまで書いていなかったからとも言えるのかもしれない。
と~まなんか、たしたことはないからなぁと直接言われたことも随分ある。棚からぼた餅を狙っているのか?と聞かれたこともある。ワハハ、ワハハである。そんなこたぁねぇんですよ。自分の能力は、自分が一番知っているでごじゃりまする。(^0^)/ウフフ
なんだか,オレのようなじじぃの存在を許してくださらんのかねぇとも慨嘆しているのである。世間が。
オレ、本当に好きで学問をさせていただいているだけです。半端なんだけどね。
(^-^)/
これは定年という問題もそうである。後が詰まっているということは、若い世代には切実な問題であろう。その点、イチローさんという野球選手の生き方も参考になる。
世代交代があってこその、世代間贈与である。前の世代からいろいろなものを贈与されて、アタシらは生きている。このブログだって、そうである。いろいろな本があるから、書けるのである。当たり前である。全部が全部オリジナルだという御仁がいたら、それは偽物である。
孫はその贈与論の最高の対象である。なんでもかんでも、じじぃとしては、彼に贈り物をしていきたい。迷惑だろうけれども。こっちはいなくなっちまうからである。
だから、命の問題ということを考えてしまうのである。なんだか、若い世代では、仕事がどうのこうのとか、どれだけ成果を上げたとか、そんな話題ばかりが先行する。はたまた、愚生が元ティーチャーであったということで、すぐ教育界はどうのこうのとかのたまう方もまだいらっしゃる。そんなの退職したんだから、まだオレは攻撃対象なんかね?って聞いてやりたいくらいである。退職したら、教員ではないのだ。ましてや校長なんかではないのだ。ただの平凡な普通に生きている人であるのだ。これは、諸先輩から厳しくご指導をいただいたことである。元コーチョーとか威張っていたら世間の笑いものになりますぜ。厳守したいことである。
だから、可能な限り教育問題にコメントはしない。現役の先生方に失礼ではないか。今更、こんなじじいがなにをかいわんや。
教員時代からずっと思ってきたが、手法とか、方法とか、マニュアルを教わったからと言って、自分で考察するということをしないのは、身につかないのである。考えなくちゃいかんでっせと思うのである。
さらに、新聞記事を読んだだけの知識で、教育全体を云々できるといううぬぼれはいかがなものか。世の中には、黙って、黙々と教育実践に励んでおられる方々も多々おられるのである。
そういう「地の塩」的な方を馬鹿にしてはいけないと、オレは思うのである。表面に出ているものばかりが、スターなのではないのである。勘違いをしてはならないのである。普通に生きて、普通に退職して、普通に死んでいくことがどんなにありがたいことかということを、よくよく考えなくてはいかんのである。自分自身にいい聞かせているんだケド。
もっとも、愚生なんぞは、なかなか他者に追いつかないから、常識レベルに達していない。なんの実績もないしなぁ。学会活動なんて全く経験無いし。もしかしたら、ミチを間違えたのかなと思うことしきりである。もっとも、教育実践にまったく関心なくして、学会活動ばかりやっているというのも、これはいかがなものかと思ってきたが。
この4月に入学したのに、まだ言われる。大学院なんて行ってなんになるんだ?という多くの方々の問いである。これは、本当に切実である。まったくそのとおりであろう。なんかになろうという前提ならばである。最近はよくこのことを考える。
ステップアップという考え方が愚生にはまったくないからである。昔からないんである。わらっちまうくらいない。あっさりしているんだろう。だから、親分も子分もいない。交際の中から、オレをえらくしてくださいませということは一切なかった。登竜門と言われる研修も受けていないんである。マジである。だからオレのことを知っているお偉いさんはいないのだ。(^0^)
ただひたすらやってみたい、興味がある、それらを元に駄文という名の駄文(ナンダ?そりゃぁ)を書いてみたい、発表ツールはなんでもいい。だから許して・・・(ナニガ?)というレベルの話なんである。これはずっとやってきた。実は20代の頃から、いろいろと書かせていただいた。20代で道徳教育の駄文を。30代で困難校における国語教育を。退職の前4年間は、ずいぶんあちこち書かせていただいた。
今晩から、駄文書きを再スタートさせる。これまでとは異分野である。しかし、たったの40枚の原稿である。だから、質的な内容をしっかりしなくちゃいけないのだ。中身が問題である。だいたいの構想は練った。修士の時にお世話になった通信教育の方の武蔵野大学大学院にかなり厳しくご指導をいただいたからである。良い経験をさせていただいたものである。一字一句ご指導をいただいたのである。生涯学習のメッカでもある、我が母校は。(オレのような懶惰な学生が、母校と言ったら通学生に叱られるかな?)
ポメラで書いていくつもりである。ポメラ自体は、数万字も入る。それを常時持ち歩いて書くのである。楽しい、楽しい。
しかしである。
だからといってそれがなんになるんだ?と言われると、「そのとおり!よっ、旦那さん」と申し上げるしかない。これまで書いていなかったからとも言えるのかもしれない。
と~まなんか、たしたことはないからなぁと直接言われたことも随分ある。棚からぼた餅を狙っているのか?と聞かれたこともある。ワハハ、ワハハである。そんなこたぁねぇんですよ。自分の能力は、自分が一番知っているでごじゃりまする。(^0^)/ウフフ
なんだか,オレのようなじじぃの存在を許してくださらんのかねぇとも慨嘆しているのである。世間が。
オレ、本当に好きで学問をさせていただいているだけです。半端なんだけどね。
(^-^)/