世阿弥のことば「年々去来の花」「時時の初心を忘るべからず」="若い頃から年齢が高くなるまで、その時々に身に付けた藝を忘れないように"。世阿弥自身、少年時の連歌の教養を、後年になっても持ち続け藝論に生かした。世阿弥にとってもこのことばは、能の実演にかぎられたことばではなかった。
世阿弥の藝論は、能楽の実演にかぎらず、いろいろなことに応用できると言われる。それもそのはず、世阿弥自身が「能の実演」だけを特別視して他から切り取ることがなかったのだ、ある戒めを能の実演だけでなくほかのことにも当てはめていたのだと気がついた。
私自身、人を迷わせ翻弄させていないか、強弁していないか、「我を張って」いないか。「ほんとうのことは何か」「あなた(たとえば世阿弥)はどんな人か」から軸がずれなければ。「稽古は強かれ、情識はなかれ」という世阿弥のことばも、能を演じるときだけのことばではない。
世の中に多い講演・講義も、「○○大学(大学院)教授」とか”有名な人"とか、"単純なわかりやすい話”とか"ビジュアル"とか、人々を迷わせ翻弄するものがほんとうに多いと感じる。でも講演・講義を聴く方々も「我」にとらわれずによく御覧になれば、"本物"かどうかはきっとわかる。
研究作業で「締切に追われて忙しい」「人を説得できなくては」「何かこれを証明する資料がないか」こんなことを考えていたら、結局はうまく行かない。こんなことは「自分」の都合で、「我を張る」ことでしかない。これでは相手(研究対象)はこちらへやってきてくれない。傍にいても気がつかない。
学問研究は、当たり前のことだけれど、常に誠実な態度で臨みたい。歴史的なことをするなら「ほんとうのことは何だったのか」をいつも忘れないように。目の前に翻弄されること、誘惑されることが多いのだから。
生駒山の東山麓にある往馬神社の火祭り。2011年に県の無形民俗文化財。「いこま」なるほど(^^)/拝殿そばに咲く上溝桜(うわみずざくら)写真で見るとクリペッチンの花みたい。これも桜なんや!(今朝の朝日奈良版)
イエスのことばを確実に理解することができるために、イエスへの渇きをいやすことができるために、イエスへの愛を満たすことができるために、イエスは御自分をパンとなさったのです。しかし、主はそうまでなされても、満足されません。主ご自身が飢える者となられたのです。
東京新聞:川崎の郷土史研究家ら 謎の難読碑文 tokyo-np.co.jp/article/nation… 江戸末期、「桜田門外の変」の惨劇から逃れた彦根藩士が、現在の川崎市に残した碑文を、地元の郷土史研究団体が解読した。碑は小田急線向ケ丘遊園駅近くの広福寺(同市多摩区)にある。
おはようございます。9:00です。さ、これから在籍校へ。キャンパス内の桜が散りかけていましたが、昨日。けふは大丈夫かなぁ。
美しいものは、みんなはかない。残念ながら。美人もそうだけど、滅びていくものには哀愁があるなぁなんて思うのですよ。哀愁のある生き方をこれからしたいもんです。オレも滅亡していくんですからねぇ。あと、何年生きられるかわからんけれども。もっともオレは、美とは縁遠いけど。(^-^)/