と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

さ、今日も大学にいこうっと。

2013年09月17日 05時39分09秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

演者と観客

 

 

 儀式の演劇性ということをつらつら考えていたのだが、そこに例えば離島ということがからんだ場合には、コスモロジーというものが発生してくるのではないかと4:41はたと思った。今日はこのあたりからスタートして、駄文書きを始めるつもりである。

 なんちゃって、随分格調高く始めたもんだ。

 なんということはない。オレなんか、ただの素人・まがい物である。Facebookとか、Twitter、あるいはブログでちょこまかと書いているだけの、アマチュアである。趣味で、芸能と宗教をあちこちと読みあさっているだけのつまらないじじいである。間違いない。自分で言っているのだから。

 でもねぇ、こんなまがい物をいろいろと読み漁っていると、時々、ドキドキするような経験もするのだ。それが今日のお題である「演者と観客」ってことである。

 つまりオレは、演者を演じているのではないかということである。生涯学習をやっているのだが、そしてそれはまさに生涯続けていくつもりであるが、どっかに観客の存在を意識しているのではないかと、ふと思ったのである。つまり意識して、生涯学習者を演じているのではないかと。

 そこには言い訳がありゃしませんか?ということである。能力への言い訳である。自分自身の。学位もとれないだろうし、研究者とか、学者にもなれないということへの自己弁護である。これは確かであろう。それらを目指して、死ぬ思いで努力している若者をたくさん見ているし、事実オレの周囲にはそういう人がたくさんいて、切磋琢磨しているのだから。

 なんだか、場違いなところにいるという疎外感はずっとある。当たり前である。年齢が違いすぎる。だから周囲の人々の理解を得られないのだ。そもそも生涯学習自体の理解も、日本社会には無い。

 学校に行くということは、資格取得のためであり、就職のためであるというのは、当然のように思われている常識だろうから。じゃ、オレのように定年で引退したのはどうすればいいのだということになるからだ。オレは今更就職しようにもできない。雇ってくれるところがない。そういうことを云っているのである。なにも無理して、生きていくこともないけれども。

 無理は禁物だ。健康を損ねる。オレは、100以上生きるつもりだからだ。わははははははなのだ。わははは。マジに。

 

 しかしだ。いくら生涯学習と云っても、誰でもとれるインチキ・ライセンス・ペーパー商法を生涯学習とは云いたくない。1時間ほど勉強して、ライセンスをくれるものもある。つまらない資格商法をやっているものが確かにある。そういうのを生涯学習とは読んで欲しくない。カルチャーセンター的なものをも、オレは生涯学習とは思わない。

 そこには自ずから困難があってしかるべきであると思うのだ。ふううううとため息をついて、ああオレはもうついていけない、挫折だ、もう退学するしかないという困難があってこそ生涯学習であると思っている。

 去年、在籍校に入学させていただいてから随分学会で発表をさせていただいた。現役の高校の校長をさせていただいていたので、学会活動というか、そういう世界での経験はまったくなかったからである。在籍校の先生方の激励もあったし。オレ自身も、修士はとったものの、学会活動ではまったく実績もないし、このままでは博士後期課程在籍者として不適であると思っていたからである。

 当たり前である。なんの実績もなく、あまつさえじじいだというのでは、ゴミと一緒ではないか。いてもいなくてもいいというレヴェルではない。そもそも要らないのである。いたら困るっていうことであろう。なんで?理由は?博士課程?無理じゃん!と嘲笑されたこともあったからなぁ。

 (^-^)/

 去年の12月8日に京都龍谷大学を皮切りに、今年になって武蔵野大学大学院での学会勉強会で発表、今年の6月に千葉県郷土史研究連絡協議会から出ている「房総の郷土史41号」でデビュー。9月7日に、浦安の明海大学での日本安全教育学会で「房総の津波と日本古典」で発表をさせていただいた。さらに、採択待ちの学会誌がひとつある。10月5日には、高校の退職校長会で卓話をさせていただく。12月には、ある学会で五大院安然のことを発表させていただきたく応募している。まだ結果はわからないが。

 以上のことは、まったく「オレが演者」であって、オレは十分「観客」を意識しているということに他ならない。つまり、演者であるオレ自身のことをなんとかして欲しいということではなくて、観客とオレの関係性というものを意識しているこということなのだ。これはある意味俳優と一緒の意識であろうと思うのだ。

 どう見られているかというのではない。あくまで主体は演者としてのオレにある。結果はどうでもいい。あるいは、ウケねらいの漫才師でもない。むろん、女優の如き心境でも無い。自己陶酔と云われるのかもしれない。それならそれでもいいとすら思っているけれども。

 そもそも、たいしたことはやっていないのだから、すっこんでおれと云われたら、「オーレ、オーレ」とかダジャレを飛ばして、舞台から飛び降りるしかない。誰も期待なんかしてくれないんだし。

 だいいち、オレの演じる村芝居なんか、誰も見に来てくれないか。

 相手してくださるのは、郷土史の世界だけか。大事にしましょうよん。マジに。古文書だけは、しっかり勉強していくつもりです。いろいろな先生方にご指導をいただきながらです。経典もです。空海の古文書の写しなんか、感激しちゃいますからねぇ。

 でも無理だろうなぁ。モーロクしてるから。

 あははははははである。

 

 

 さ、今日も大学にいこうっと。

 つまんねぇこと考えてないで。

 

 

 (^_-)-☆

 

 

 

 

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