概説的にものを考える方と、そうではなく、自分のオリジナリティを求める方とボクの周囲には二種類の方がおられる。このことに最近気がついてきて、人間観察にはとても楽しい日々を過ごしている。
概説的な方というのは、いわゆる受験秀才である。学校の教師にたまにいる。幅広く、浅く知っているというタイプ。しかも、他人に指導するのが大好きというタイプである。
鬼来迎のことで、指導をいただいた。若い時から知っている方であるから、謙虚に聞いていた。ボクの論文を見て、ふんふんとそれこそ概説的にざっとながめてくださった。因果応報のことが書いていないとか、鬼の面のこととか、言われておる。しかし、ボクは根拠の無いことは書かない。推測で論文が成立するなら誰でもできるのである。
既知のことであったので、反論もしなかった。はいはいありがとうございます、である。指導の好きな人である。小学校の教師だったから。だがそこに落とし穴がある。あまりにも概説的な知識であると、部分的にアナができるのだ。民俗学はそこのところが恐ろしいのである。部分的には、自分よりも詳しいのが世の中には必ずいるからである。
世間は厳しいもんである。絶対にうぬぼれてはならんのである。戒めである。ボクちゃんには。自分だけが知っていて、他人は知らないだろうとか思っちゃいけないんである。ボクは、絶対にそんなことはいたしません。
(^_-)-☆
外国人の論文を拝見させていただいていた。本人から、日本語のチェックをしてくれと頼まれたからである。こういうことならお安いご用である。日本語のネイティブだから。(苦笑)
いろいろと書き込みをしていた。原稿に。
そして、気がついたことがある。概論的ということにである。非常に多くの文献を読みこなしているけれども、自己の考えがない。つまり文献の解説的な文章が多くなっている。これは研究手法としてはいかがなものかと思っているので、本人ともオオイニそのことは議論している。出身国家によって手法が異なるんであろうけれども。
だから難しいものなのである。謙虚にならざるを得ないのである。
他人はいざ知らず、ボクちゃんは能力に乏しいからなぁ。お助けはできても、指導は一切できねぇから(^▽^)
今日からは、音というものから中世の史料を眺め直す作業が始まる。楽しいものである。論文のテンプレートも使い慣れたし。しかし、このテンプレートってかなりいいですねぇ。参考文献、注を書いて、それを訂正しても、連動して全部数値が入れ替わるんです。修士論文提出のときに、かなり苦労したのでまるで夢のようです。知らないってことは、まったく仕合わせなアタマだってことを証明しているようなもんですな。あははははですわ。まったく。
今日からはまたまた新生「と~ま君」であります。
どんな老後が待っているのか、これだけは自分でもまったくわからんから、楽しみですなぁ。
楽しいから生きてられるんで。
(^-^)/