そのままVon

おもに31文字の語呂合わせ日記

人生で一番若い日を生きる

2014年02月03日 | 字余り

2014/02/03

DVDの整理をしていて「人生で一番若い日を生きる~西村恵信(こころの時代~宗教・人生)」という番組録画をゆっくり見てみた。落ち着いて見ているとすごく内容のある番組だった。東近江市の興福寺の住職である西村恵信和尚は、花園大学の学長や禅文化研究所の所長をされたこともあり、著作も色々されていてその道では有名なんだろうとおもわれる。
具体的なことは映像を見ていただくとして、内容について気がついたところをあげておきたい。
・三余居窓話。書斎の名前で、はじめ堂としていたが居がいいだろうということで、三余居になった。山田無文老師に書いてもらった。
・三余とは、夜は一日の余り、冬は一年の余り、雨は時の余りである、ということだ。つまり、晴耕雨読の精神のこと。
・孫が将来、結婚式に出てほしいといったとき、つい90才まで生きると宣言したとのこと。
・いつ死ぬかわからないが90才まで生きるとして、引き算の毎日を送っている。こう考えることで毎日が充実する。
・大学の卒論は、キェルケゴールのキリスト者の実存と禅の実存をテーマにした(久松先生に激怒された)。
・養父で、師匠の南明宗寿の人生は八割が草むしりだった(禅や座禅のことは言わなかったが、禅坊主という言葉は使った)
・自分を形成しているものは自分で意図的に作れない。奇麗な花だと見て感じたら、その経験が次の自分を作っている。
・『鐘が鳴るかや、橦木が鳴るかや、鐘と橦木の間アイがなる』といって、鐘をついていた
・緒方宗博というもう一人の師をもった。禅坊主で初めて英語をしゃべる人だった。
・留学させてもらいクェーカー教徒の大学に行った。瞑想とハンドシェイクのクリスチャンだった。翻って、禅は日常的に瞑想しているか。
・'69にバチカンの対話局ができて日本にもいろんな人が来た。国際会議などにかり出され忙しかった。
・キリスト教は奉仕が言われるが禅坊主は座っていてよいのか。教と道徳とは違う。遺産としての禅。禅僧には禅僧の生き方がある。
・己事究明:座って悟ればいいができないのが一般的。自己を追求することが禅僧の役目。
・自己を説明しようとしてもしきれない。1.母親のお腹から出てきた塊、という面。2.こころの窓-五感-が関わりをもった内容-経験-が作る、という面。
・西田幾太郎のことば『個人があって経験があるわけでない、経験があって個人がある』
・経験を取り込み自己ができる。最後の経験が死である死は自己を完結する。
・自己を追求して新しい自分、今日が一番若いと思って生きることが、わたしの考える禅である(といっていた、と思う)。

コメント
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