承久3年に発生した鎌倉幕府と京の朝廷との武力衝突は、通常「承久の乱」と言われる。
この言い方について歴史は深く、十四世紀半の「保暦間記」にはすでに「承久ノ乱」と書かれていて、以降大正時代まで一般的だったと言われる。
大正9年、皇国史観により、上皇様が反乱を起こすというのはおかしいとのことから「承久の変」と呼ばれるが、戦後また「承久の乱」に戻り現在に至る。
しかし、今も頑なに「承久の変」という言い方にこだわってる人もいる。
僕の認識では、「乱」はいわゆる権力に対する武力反乱、あるいは権力の奪い合いで内乱になることで、「変」は権力を武力あるいは陰謀、暗殺などによって強引にとって変わろうとする事件のことで未遂も含む。
なので、承久の乱のような数万人規模の大規模な内戦を「変」と表記するのは明らかにおかしいと思う。
承久の変派の人が言う、上皇が反乱を起こすっておかしい、乱ではないという説について僕の考えはこうだ。
鎌倉幕府を開いた時点から、天皇というのは現在の象徴天皇みたいな状態になり、実際に政治を行っていたのは幕府だということ。
それを再び天皇が権力を取り戻そうと乱を起こしたので、乱で間違ってない。
また、この時点では鎌倉幕府の権力は全国区ではないとの意見もあると思うが、その場合は上皇側と瀑布側の権力の奪い合いによる内戦となるので、やはり乱で間違いないだろう。
乱後は、天皇が政治に口出しすることはほとんどなくなり、それは江戸時代が終わるまで続くことになる。
というより、現在まで続いていると言っても過言ではない。
ちなみに僕が言うまでもなく、歴史学者と言われる人のほとんどは「承久の乱」と書いているので、確定しているといってい。
皇国史観というのは、例えば前にも書いたけど、元寇の勝利は本当は日本軍が強かったからによる実力によるものなのに、「劣勢だった日本軍だが、神風が吹いたおかけで勝利した」というような歴史捏造を平気で行ってるので要注意である。
乱と変の違いについて、完全に間違った認識が一部でまかり通っているのが気になる。
それは、成功したクーデターが変、失敗したクーデターが乱というもので、これは間違いである。
失敗した変はいくらでもあるし、成功した乱も少ないけどある。
さらに乱と変について調べるため、日本史における全ての乱と変を解説するという4時間に及ぶ動画を見た。
あくまでも乱と変についての解説であり、ナントカの役、ナントカの戦い、ナントカ戦争などは省略している。
日本の全ての乱と変についての解説を聞いた結果、やはり僕の乱と変についての認識は間違ってなかったと確信した。
変と乱で読み解く日本史
中には、乱と呼ばれてるけど変のような内容だったり、変なのに乱みたいなのもある。
例えば平治の乱の第一戦である三条殿焼き討ちは乱というより変かもしれない。
しかしその後の六波羅合戦は完全に乱である。
これを戦国時代に例えると、本能寺の変と山崎合戦がワンセットになったようなものだろう。
また幕末の禁門の変は、事件の前から長州勢が武装決起するのを幕府側は知っており、あらかじめ防備を固めた状態で合戦となっているので、乱といってもいいくらいだ。
話を承久の乱の戻すと、天皇や上皇が内乱の主役になり、敗北して流罪などになっている事例は他にもある。
壬申の乱しかり、保元の乱しかり。
また、元弘の乱も承久の乱同様、天皇による鎌倉幕府に対する反乱で、こちらは反乱側の勝利となり鎌倉時代の終わりとなる。
かと言って再び天皇が政治権力をもつことはなく、室町幕府成立に繋がるのだった。
この言い方について歴史は深く、十四世紀半の「保暦間記」にはすでに「承久ノ乱」と書かれていて、以降大正時代まで一般的だったと言われる。
大正9年、皇国史観により、上皇様が反乱を起こすというのはおかしいとのことから「承久の変」と呼ばれるが、戦後また「承久の乱」に戻り現在に至る。
しかし、今も頑なに「承久の変」という言い方にこだわってる人もいる。
僕の認識では、「乱」はいわゆる権力に対する武力反乱、あるいは権力の奪い合いで内乱になることで、「変」は権力を武力あるいは陰謀、暗殺などによって強引にとって変わろうとする事件のことで未遂も含む。
なので、承久の乱のような数万人規模の大規模な内戦を「変」と表記するのは明らかにおかしいと思う。
承久の変派の人が言う、上皇が反乱を起こすっておかしい、乱ではないという説について僕の考えはこうだ。
鎌倉幕府を開いた時点から、天皇というのは現在の象徴天皇みたいな状態になり、実際に政治を行っていたのは幕府だということ。
それを再び天皇が権力を取り戻そうと乱を起こしたので、乱で間違ってない。
また、この時点では鎌倉幕府の権力は全国区ではないとの意見もあると思うが、その場合は上皇側と瀑布側の権力の奪い合いによる内戦となるので、やはり乱で間違いないだろう。
乱後は、天皇が政治に口出しすることはほとんどなくなり、それは江戸時代が終わるまで続くことになる。
というより、現在まで続いていると言っても過言ではない。
ちなみに僕が言うまでもなく、歴史学者と言われる人のほとんどは「承久の乱」と書いているので、確定しているといってい。
皇国史観というのは、例えば前にも書いたけど、元寇の勝利は本当は日本軍が強かったからによる実力によるものなのに、「劣勢だった日本軍だが、神風が吹いたおかけで勝利した」というような歴史捏造を平気で行ってるので要注意である。
乱と変の違いについて、完全に間違った認識が一部でまかり通っているのが気になる。
それは、成功したクーデターが変、失敗したクーデターが乱というもので、これは間違いである。
失敗した変はいくらでもあるし、成功した乱も少ないけどある。
さらに乱と変について調べるため、日本史における全ての乱と変を解説するという4時間に及ぶ動画を見た。
あくまでも乱と変についての解説であり、ナントカの役、ナントカの戦い、ナントカ戦争などは省略している。
日本の全ての乱と変についての解説を聞いた結果、やはり僕の乱と変についての認識は間違ってなかったと確信した。
変と乱で読み解く日本史
中には、乱と呼ばれてるけど変のような内容だったり、変なのに乱みたいなのもある。
例えば平治の乱の第一戦である三条殿焼き討ちは乱というより変かもしれない。
しかしその後の六波羅合戦は完全に乱である。
これを戦国時代に例えると、本能寺の変と山崎合戦がワンセットになったようなものだろう。
また幕末の禁門の変は、事件の前から長州勢が武装決起するのを幕府側は知っており、あらかじめ防備を固めた状態で合戦となっているので、乱といってもいいくらいだ。
話を承久の乱の戻すと、天皇や上皇が内乱の主役になり、敗北して流罪などになっている事例は他にもある。
壬申の乱しかり、保元の乱しかり。
また、元弘の乱も承久の乱同様、天皇による鎌倉幕府に対する反乱で、こちらは反乱側の勝利となり鎌倉時代の終わりとなる。
かと言って再び天皇が政治権力をもつことはなく、室町幕府成立に繋がるのだった。