Music Mania

No Music No Life

チャーリー・ワッツ

2021年08月28日 | 音楽
ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツさんが亡くなった。
現役ロッカーとしては最も高齢なミュージシャンの一人だったけど、いざ訃報が届くとやはり驚いてしまう。
ストーンズサウンドになくてはならない人だったので、今後バンドはどうなるのだろう?


チャーリー曰く「俺はジャズドラマーである。ジャズドラマーがたまたま世界一のロックバンドにいるだけさ」とのこと。
たしかに、彼のドラムセットはジャズセットのように見えるし、スティックの持ち方もジャズドラマーに多いレギュラーグリップである。
ただ、ストーンズの音楽は典型的なロックサウンドなので、チャーリーのドラムもとくにジャズっぽいとは感じない。
プレイスタイルとしては、ジョン・ボーナムやキース・ムーンのような自己主張の強いタイプではなく、リンゴ。スターのようなバンドのボトムを支えるタイプだ。
この手のドラマーは過小評価され勝ちで、おそらくチャーリーも過小評価されてる一人だと思う。

THE ROLLING STONES - Honky Tonk Women


チャーリーのプレイスタイルでとくに印象的なのは、スネアを叩くときハイハットを止めるやり方だ。
ライブ映画「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」で初めてそういう叩き方をしてるのを知った。
こうすることにより、スネアの音をよりいっそう響かせることが出来るという。
これは賛否両論があり、例えば山下達郎なんかは「絶対ダメ」と否定している。
理由は、ハイハットを止めるとそこでグルーブが途切れるからとのこと。
しかしストーンズを聞いてノリが悪いと感じる人は皆無だろう。
これはチャーリーだからこそ、あるいはストーンズのメンバーにしか出来ない奇跡的なリズム感なのかもしれない。
(チャーリーのこのスタイルはデビュー当時からのものでなく、途中で彼自身が作り上げたものである。60年代の映像を見ると、スティックはマッチドグリップだし、ハイハットも止めていないのがわかる)

The Rolling Stones - The Last Time - Live


最後にチャーリーのジャズドラマーとしての活躍を見てみよう。
90年代からストーンズとは別にジャズドラマーとしても活躍していて、ライブ活動も行なっている。
元々シンプルなプレイスタイルだけど、ジャズをやってもそのシンプルさは変わらない。
あくまでも縁の下の力持ちな人だったのだ。

Charlie Watts - (Satis)Faction

フォードvsフェラーリ

2021年08月22日 | 日常
昨年の映画「フォードVSフェラーリ」を見た。
フォードチームが打倒フェラーリを目指してル・マン24時間レースに挑む物語である。

伝統あるレース、ル・マン24時間レースを制することは、自動車メーカーにとって大きなイメージアップにつながる。
アメリカの巨大企業であるフォード社はこれに目をつけ、新車の販売台数をさらに伸ばすためレースに参戦するのだった。
当時このレースの覇者はイタリアのスポーツカー専門メーカーであるフェラーリだ。
当初、フォード社はフェラーリ社を買収しようとしていた。
フェラーリ社はレース成績はいいものの、大量生産が出来ないため経営難に陥っていたのだ。
しかしエンツォ・フェラーリ社長は、フォード社からレースへの情熱が感じられないため、同じイタリアのフィアット社に身を預けることになる。
買収に失敗したフォード社は、なんとしてもフェラーリに勝つため、プロジェクトを立ち上げるのだった。
しかしフォード社のような巨大企業は、上役と現場の間には高い壁があり、下からの意見は上には通じない。
苦労の末、フォードGT40を完成させてレースに参戦するが、全車途中リタイヤという惨敗な結果に終わる。
プロジェクトの現場責任者は、フォード社長を無理矢理レースカーに乗せ、本気でレースをやる気があるのか、とレースの恐ろしさを体感してもらい、以前よりはずいぶん風通しのよい環境となる。
それでも、メーカーの体裁ばかりを気にする上役の妨害を受けながらも、なんとかル・マンに参戦し、とうとう打倒フェラーリを達成するのだった。

一般的にこの手のストーリーというのは、弱小メーカーが大資本メーカーを負かすものである。
しかしこの映画は逆で、大資本メーカーであるフォード社が弱小メーカーのフェラーリに挑戦するものになっている。
そこには、大企業であるがゆえの社会的イメージや売り上げ促進といった縛りがあり、社内もホワイトカラーとブルーカラーという階級に縛られている。
対してフェラーリ社は小企業ゆえの小回りの良さや、社長からエンジニアまで一枚岩でレースに挑んでる点で勝り、勝利の常連である点が面白い。
結局は大企業フォードが勝つものの、勝利の鍵はエンジニアとドライバーという現場の力であり、潤沢な資金があるとはいえ、金で勝利は買えないというのが示されている。
現場からすると、真の敵はフェラーリではなく、上層部だったのだ。

映画『フォードvsフェラーリ』予告編 2020年1月10日(金)公開

YouTubeで誹謗中傷コメント入れる人

2021年08月21日 | 日常
今に始まったことではないけど、youtubeは面白い。
そんなことは誰でも知ってるし、いくつものyoutubeチャンネルを登録してる人も多いだろう。
これだけ面白いと当然、依存症のようにyoutube中毒になる人もいる。
スマホ依存症という言葉があるけど、スマホ依存症の中には、ゲーム依存だったりSNS依存だったりポルノ依存だったりいろいろあり、youtube依存もその一つだ。
それで、youtube動画のコメント欄も見る。
毎回ではないけど、その動画に対して、人々はどういう反応をしてるんだろうか、と確認するのだ。
そして当然のごとく、誹謗中傷コメントも見受けられる。
この誹謗中傷コメントだけど、きちんと論理的に反論してる人はいいとして、悪意しか感じられないコメントをする人もいる。
そういうのを見かけると、これはいったいどういう人物なのだろうかと、その人のアカウントページを見てみる。
すると、僕が見た限り100パーセント、自分では全く動画投稿をせず、誹謗中傷するためにアカウントを持ってるような人である。
今日はそれについて考えてみたいと思う。

自分自信は動画投稿をしていない、というのがポイントだ。
なので、人の投稿に対してボロクソなコメントをしても、自分は叩かれる心配はないのである。
これはヤフコメなどで誹謗中傷コメントを繰り返し、挙げ句の果て自殺に追い込むような人と同じということだ。

自分で動画投稿をしている人は、それなりに責任感もあり、荒唐無稽な誹謗中傷コメントをする人は少ない。
どちらかというと、自分の動画も見てもらいためのヨイショコメントが多いくらいだ。
たとえ社交辞令のヨイショコメントであっても、それがあまりにあからさまな場合をのぞいて、そんなには気を悪くすることはないだろう。

お互いの顔が見れる一般社会の中では、よほど態度の悪い人ややサイコパス気味の人ではない限り、基本的には社会人として普通の会話が出来る。
いきなり「おまえ、よくそんな顔で道歩けるよな、一回死んだら?」みたいなこという人はいないし、ライブでも「おまえヘタクソすぎ、恥ずかしくないの?」みたいなことをいう人もいない。
それがyoutubeになると、自分ではいっさい動画投稿をせず、ひたすら誹謗中傷コメントを入れる。
こういう人は臆病者であり、はっきり言ってクズである。

なので、意味のない誹謗中傷コメントなどまったく気にする必要はないのは言うまでもなく、むしろこういうクズがつまらないコメントをしてる時点で、このクズに勝っているのである。
なにか動画に対して、あるいは動画投稿者に対して、むかつく、気に入らない、と思わせてる時点で、こいつに勝っているのだ。

ちなみに僕の数少ない再生回数の動画に対してもアホなコメントする人もいます。
アホは相手にしない、これにつきます。

モンテクリスト伯

2021年08月21日 | 日常
僕は基本的に民放のドラマは見ないんだけど、少し前はまったドラマがあった。
2018年に放送されたディーン・フジオカ主演の「モンテクリスト伯」だ。
途中から見たけどストーリーが斬新で最後まで毎週楽しみに見ていた。
出来れば第一話から見たいと思っていて、ようやく全話見ることが出来たのだ。

原作は古いフランスの小説で、今もミュージカルなどで何度も上演される人気作である。
それをうまく現代の日本に設定を変えている。
とある港町で一人の青年は結婚式を迎える。
幸せの絶頂のなか、仲間の裏切りにあい地獄へ突き落とされてしまう。
10数年後、大富豪となった男は再び港町に戻ってくる。
そして自分を陥れた人間への復習が始まる、というストーリーだ。

このドラマは役者の演技がとてもいい。
ディーン・フジオカのクールな演技がとてもはまっている。
その他、高橋克典の悪辣でありながらどこか滑稽な演技もいいし、伊武雅刀のほとんど目だけの演技もすごいし、山口紗弥加の狂気じみた雰囲気は怪演そのものだ。

第一話で、主人公がプロポーズに成功したときのPVとしてKANの「愛は勝つ」が流れる。
その後も何度かこの曲が流れるんだけど、この「最後に愛は勝つ」というのがポイントだ。
大富豪になって復讐劇を繰り広げるも、最後の最後は、愛が勝ってしまうのである。
ほとんど救いようのないストーリーのなか、それでも一つの希望のように、静かに愛は勝つというのがテーマになってるのが面白い。

洲崎パラダイス赤信号

2021年08月15日 | 日常
今日は、1956年(昭和31年)の映画「洲崎パラダイス赤信号」について。

同時期の映画「赤線地帯」が思いの外とても良かったので、同系列の映画を探したところたまたま発見した。
こちらは男女関係を中心とした人間ドラマで、ダメ女とダメ男というダメ人間コンビが面白い。

元娼婦のツタエとやる気のない無職のヨシジはお金もなくフラフラと彷徨っている。
こうなったら再び娼婦に戻るしかないと、花街の洲崎パラダイスへ向かうが、手前の居酒屋で「女中募集」の看板を見つける。
ツタエは住み込みで仕事をもらい、おかみさんの紹介でヨシジは近くの蕎麦屋で働き始める。
ツタエは店の常連であるオチアイと良い仲になり、アパートを借りてやるとのことで店を出て行く。
ヨシジは同じ蕎麦屋で働くタマコに惚れられる。
ツタエからすれば、甲斐性のないヨシジより、お金もあり事業も上手くいってるオチアイの方がいいはずである。
またヨシジからしても、浮気性で根無草のようなツタエより、真面目で可愛いタマコの方がいいはずだ。
それなのに、結局二人は元鞘に戻っていく。
居酒屋のおかみさんもおかみさんで、他の女と出て行った夫に愛想をつきながらも、ふと夫が帰ってくると今までのことはなかったように大喜びする。
タマコもタマコで店の金をくすねるようなヨシジをダメ人間と知りながら、世話をせずにはいられない。

ダメな人に惹かれる人というのはいつの時代にもいる。
洲崎パラダイス赤信号はとても古い映画だけど、男女関係というのは今も昔も非常に微妙なところで成り立っているのがわかる。
今ならYouTubeで見れるので興味のある方はどうぞ。
ついでに言うと、この映画のテーマ曲もいい。すごく前衛的というか、不気味というか、こういうのってどういうジャンルになるのだろうか。
映画の重要な場面で流れるんだけど、不思議な魅力がある。


suzaki paradise: red light 1956 eng sub