風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

生い立ちの景色③ ラジオ体操

2008-08-02 | 生い立ちの景色
1951年8月。5歳の夏。

 4つ年上のキョウ子姉やんとラジオ体操が始まる前に畑に行って、茄子やトマト、スイカなどの野菜を取りに行くことから俺の夏の日の一日が始まる。

 このところ天気のよい日が続いているので、野菜もどんどん大きくなって今日も竹篭に入らないほど。姉やんが竹篭を肩に、俺は両手でスイカを腹の上に乗せるようにして持ち帰った。
家に着くなり、スイカはバケツに入れて井戸の中に吊るした。

 「時間や!」と姉やんが集会所前でやっているラジオ体操に走った。
俺も出席のはんこを押してもらうカードを持って後を追いかけた。息を切らして着いたら、もうみんな集まっていて歌が始まっていた。

 キョウ子姉やんは朝の涼しいうちに夏休みの宿題をしていたが、二番目の中一のイサム兄は日ごろから勉強が苦手のようで、勉強をしているのを見たことがない。夏休みになると朝から晩まで淀川に遊びに行っている。

 一番上のマサル兄やんは事故の後遺症で手足が不自由になったおっ父に代わって一家の大黒柱として、おっ母と田の仕事をしている。
田の仕事が暇な時季は隣町(島本町)にある建設省の砕石場に働きに行っている。今日も自転車の荷台に風呂敷に包んだ大きな二段積みの弁当箱をくくりつけて出ていった。

 真ん中のチズコ姉やんは中学を出たばかりだったが、おっ母の手伝いをしながら、近くで建設省が行っている淀川右岸の嵩上げ工事現場で臨時雇いで働いている。俺は、オッサンやオバハンばっかりのところで何で若い姉やんが働くの?と可哀相に思っていた。

 一番上の姉やんのエツ子はおっ父の姉が後妻に入った家に2年前に嫁いでいた。この辺の複雑な経緯については俺もあまり知らない。相方は戦争に行って負傷して帰ってきた人で役場に勤めているという。そこそこの資産もある家らしいが、異母の甥姪もいる10人の大家族で大変らしい。

 以上が俺の家族全員だ。子供6人は上から女、男、女、男、女、そして俺が末っ子、みんな3歳くらいの間隔。うまいこと生んだものだ。もちろん長姉は嫁に行ったので今は7人暮らしだ。
 俺はおっ母が45歳の時の子で、終戦半年後の2月16日に生まれた。

 ラジオ体操から帰ったら、すでにおっ父もおっ母も田の仕事に出かけいていなかった。チズ子姉やんが「あんたらも早よう食べ!」といった。朝飯のおかずはいつもの胡瓜と茄子の朝漬け、それと先ほど持ち帰ったトマト。

 俺は一番大きなトマトを手に持ってガブリと食った。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。旨い~!