夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

【YouTube】に於いて、映画の『ひまわり』の予告編を観て、改めて私は感動し・・。

2011-04-29 00:01:17 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、加入している【YouTube】を開き、

《 あなたにおすすめのチャンネルが見つかりました 》

表示された下段に、

《 これらのおすすめは、あなたの再生履歴、共有動画、チャンネル登録などに基づいて表示されます。》

と表示されて、8つぐらいが紹介され、

この中のひとつに映画の『ひまわり』の主題歌をピアノ・ソロが掲載されていた。

私は映画の『ひまわり』であるならば、オリジナル・サンドトラックの方が、
この名作の叙情の余情が味わえる思い、少し検索したのであった。

http://www.youtube.com/watch?v=1m4NHNwulF4&feature=fvwrel
☆I Girasoli (ひまわり/Sunflower)-Henry Mancini ☆

投稿者された方は、Mrmikeyjrさんであり、
この映画の予告編かしらと私は思ったりしているが、
Mrmikeyjrさんのこの映画に対する思いの深さを感じたりした。

この映画は解説も不要の名作であるが、このラスト・シーンの駅構内・・
もとより監督のビツトリオ・デ・シーカーの演出も良いが、
これに応(こた)えたソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニも
国際俳優の名に恥じない好演をしている。

私は若き26歳の時、映画館で観たり、
そして50代の半ば、ビデオ・テープで視聴したり、
その後は数年に一回ぐらい観賞している映画であるが、
改めて、予告編を見たが、名作は何度でも感動する・・と感じたりした。


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洋画の大人の『恋愛映画』、若き頃に映画・文学青年の真似事をした私が、ときには思い馳せれば・・。

2011-04-16 13:22:56 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
このサイトに於いて、一昨日の14日に於いて、
【 遥か遠い昔、百年前のこの日、『タイタニック号が氷山に接触し沈没』と私は学び・・。】
と題して、投稿した。

この中に於いて、
1997(平成9)年に上映された映画、ジェームス・キャメロン・監督の『タイタニック』に関して、
【・・あのようなお子さまランチのような内容に、私は高校生の女子生ぐらいまでが感動するは瞬時に解かるが、
女子大生以上の大人の女性が魅了されるのか、解からないひとりであった。】
と私は綴ったりした。

そして私は映画の作品より、『タイタニック』の主題歌『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』を
唄われたセリーヌ・ディオンに圧倒的に魅了されている私は、
セリーヌ・ディオンに関して、数多く綴り、大いに肝要のテーマから脱線してしまったのである。


この後、この映画に於いて、【あのようなお子さまランチのような内容・・
女子大生以上の大人の女性が魅了されるのか、解からないひとりであった。】
と書き込んでいたが、
大人の女性が観賞し魅了される洋画の『恋愛映画』は、どのような作品ですか、
と抗議されるお方もいる、と思い、
私なりに遠い昔に思いを馳せながら、大人の『恋愛映画』を思い浮かべたりした。


私は1964(昭和39)年の東京オリンピックが開催された頃、
大学を中退し、アルバイト・契約社員などをしながら、
映画・文学青年の真似事をしたりした時期があった。

映画に関しては、シナリオ・ライターをめざしていたが、
新劇の長老から、映画で生活していくのは、益々大変な世界になる、
と助言を頂き、純文学の小説に転進した。

そして確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ安定したサラリーマンの身に転向し、
35年ばかり身過ぎ世過ぎのサラリーマンをし、定年退職を迎えた。

このように若き一時期に映画館に通ったりし、数多くの洋画・邦画の作品を観賞した。

そして定年退職を迎えた頃には、洋楽映画に関してだけでも、
少なくとも5000作品前後を鑑賞したかなぁ、と思ったりしていた。


こうした中でも、たとえば恋愛物のジャンルもあるが、
どなたでも人生のひととき、恋心を抱き、
物狂いのように冷静に先が見えなくなる状況を過ごされたと思うので、
こうした人生のある期間を切取った恋愛映画は私は好きである。

そして私は映画の作品からは、人生の教科書のように学んできたので、
大人の恋愛映画はある程度観たりしてきた。

こうした中で私なりに独断と偏見で、あえて3作品を選定すれば、
二十歳の頃は、デビット・リーンの『逢びき』(1948年)、
その後はジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』(1994年)、
アンソニー・ミンゲラの『イングリュシュ・ペイシェント』(1996年)が代表として瞬時に甦(よみが)る。

少し恥ずかしいことを告白すれば、
私が高校生の時は、ジョージ・スティーヴンスの『陽のあたる場所』(1952年)、
ヴィットリオ・デ・シーカの『終着駅』(1953年)、
エリア・カザンの『草原の輝き』(1961年)などを名画館で、
ため息したり、動悸しながら観たことをある。


このようなささやかな私の体験から、
やはり『タイタニック』(1997年)に関して、10代が魅了されるだけの、
お子さまランチなのである。


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遠い昔、1983年(昭和58年)4月4日、NHK連続テレビ小説「おしん」が放送開始、と私は学び・・。

2011-04-08 13:05:09 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の66歳の身であり、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
【新おとな総研】というコーナーがあるが、この中に【あの日あの時】と題された連載がある。

ときおり私は、この【あの日あの時】を読みながら、齢を重ねたせいか、
この記事を読みながら、過ぎ去り日々に思いを重ねて愛読してい。

先ほど、たまたま4月4日を見ていたら、

《 【 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」がスタート。‐1983年(昭和58年) ‐ 】 》

と題された記事があり、私は思わず読み込んでしまったのである・・。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
     1983年(昭和58年)4月4日  NHK朝の連続テレビ小説「おしん」がスタート。

明治30年代、山形県の小作農の家に生まれた女性が、
貧しさやいじめ、関東大震災や戦争という時代の荒波をくぐって生き抜く姿を描いたNHK朝の連続テレビ小説「おしん」。

物語は、脚本家の橋田寿賀子さんが、
「米一俵で奉公先に行かされ、その後、女郎に売られながら逃げ出し、
ミシン技術を学んで商売を起こして、今、子供たちと幸せに暮らしている」
という匿名の女性からの手紙を基に高齢者の苦労話を募って書いた。


「戦争も日本の経済成長も女が支えてきた。
女が主人公の歴史を書きたかった」
と橋田さん。

「おしん」役は、奉公先などで苦労する少女時代を小林綾子さん、
16~45歳を田中裕子さん、
子供たちとともにスーパーを出店する50~83歳を乙羽信子さんがそれぞれ演じた。

この年11月には最高視聴率62.9%、
平均視聴率52.6%(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区)という高視聴率を記録した。

さらに、海外でも現地語で放送され、異例の評判を呼んだ。
中国や東南アジアでは特に人気が高く、
中南米、中東、東欧なども含め60か国以上で放送されたほか、リメーク版まで制作された。

国内では、軽薄短小が広がった1980年代にあって、
高齢者を中心に我が身や両親らの苦労を思い起こしながら見た人が多かったが、
日本はこの2年後からバブル時代に入っていく。(稲)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://otona.yomiuri.co.jp/history/anohi110404.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==【新おとな総研】
     <==【あの日あの時】《 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」がスタート。‐1983年(昭和58年) ‐》☆


この当時の私は、中小業の音楽業界のあるレコード会社に勤めて、
情報畑のシステム関係を担当していた。
自社の業績が悪化して、コンピュータは委託処理をしていたのであるが、
自社導入で経費削減を図れ、と首脳部のひと言で、奮闘し始めていた頃であった。

そして、特に秋になると、睡眠時間を削りながら勤務していたので、
テレビ・ドラマの『おしん』は視聴していなかったが、
世の中の熱狂されたブームで少し知った程度であった。

システムを困苦しながら、何とか翌年の6月に軌道に乗せたが、
運営と一部開発業務も重なり、多忙の時を過ごした。

この後、あるレコード会社との販売委託などで、奮闘を重ねた後、
ある旅行会社の冬の蔵王の樹氷、山寺の鑑賞、そして最上川の舟下りの企画に魅せられて、
私たち夫婦は初めて団体観光ツアーに参加したのは、1986(昭和61)年の2月下旬だった。

この旅の中で、冬の『最上川の船下り』をしたのであるが、
この地域も『おしん』ブームの余情で、乗船前に売店で、『おしん』に関する商品が売られていた。
私は、これ以上の深い意味合いを知らなかったのである。


たまたま今年の2月中旬、私たち夫婦は、
東北地方の山形県の銀山温泉に滞在し、その後は最上川の船下りの旅をした。

私達夫婦は国内旅行は共通趣味のひとつであるが、
銀山温泉は未知の世界であり、
昨年の夏過ぎ、雪舞い降る時に銀山温泉に行って観たいわ、と家内は私に云ったりした。

そして私たちは、雪が舞い降る確率の多い今年の2月の中旬を選定し、
東京駅より大石田まで『つばさ』を乗車し、
銀山温泉に4泊して、街並み、そして付近を散策をした。

その後は、『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルに1泊宿泊し、
帰路は新庄駅より『つばさ』で帰京する5泊6日となった。


銀山温泉の『旅館 永澤平八』に宿泊滞在をしていた時、
談話室とロビーを重ね合わしたような大きな囲炉裏、隣室は和室となり、
色々な伝統工芸品などが置かれ、壁際には、著名人の色紙、写真が掲げられていた。

この中に、乙羽信子さんが銀山温泉の中心に流れる川の橋のふもとで歓迎を受ける2葉の写真、
そして『旅館 永澤平八』の女将との記念写真があった。
私はフロントの男性に説明を受けて、『おしん』の放送が終った後の熱狂ブームの中、
乙羽信子さんが招待を受けて、銀山温泉に來訪された、と知ったのである。

この後、私は『おしん』の概要も無知であったので、家内に教えてもらい、
初めてドラマの銀山温泉の関連を知ったのである。


この後、『最上川の船下り』は、25年ぶりとなったが、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に云ったりしていた。

この時の私の心情は、【冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。】と題し、
8回に及び投稿した中で綴っている。

【・・
私達は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。


この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。

船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。

案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、
この舟は出航した。


私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。

そして、案内人兼船頭さんの『真室川音頭』、『おしんの唄』などを四曲の唄声に、手拍子したり、
或いは周辺の案内を聴いたりしていると、時を忘れるかのように過ぎていく・・。
まもなく、舟下りの降船場に着岸し、私達は大きな建物の最上川リバーポートへの階段を上がった。

そして、一角に乗船前に撮影して下さった写真が掲載されていた。
私は夫婦の記念写真に瞬時に最適と思い、千円を支払った。
そして、私達夫婦としてお互いに微笑んだ珍しい記念写真で、
私は家内に見せながら、良き記念写真となったねぇ、と私は微苦笑しながら家内に云ったりした。
・・】


帰宅後、この旅の余韻か私は『おしん』に関して、少し興味を持ち、
ネットで色々と検索し、【YouTube】の動画のひとつのに、
圧倒的な感動をして、思わず涙を流れてしまったのである・・。

http://www.youtube.com/watch?v=TmQ3qcedkcM&feature=related
☆【YouTube】Oshin 07 Sub Spanish.avi ☆

もとよりテレビ・ドラマの『おしん』の中のひとつの放送された内容である。
画面の最下段にあるスーパーはスペイン語が明記されているので、
スペインか南米の諸国でテレビ放送されたものかしら、と思ったりし、
どの国も貧しい人が多い人たちがいるので、このドラマに共感をする、と深く感じたりした。

もとより日本に於いてでも、1955(昭和30)年の頃までは、
私も含めて生活に困窮した人たちが多かったのである。

このようなこともあり、特にこのシーンは私の心に圧倒的にゆすぶられ、
私は熱い涙があふれたのである。

そして、改めて脚本家の橋田寿賀子さんに、敬意を重ねている。


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『二十四の瞳』、遠い昔に初めて観賞した頃、ささやかな私の想いで・・。

2011-04-06 10:16:26 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜の10時過ぎからNHKのBSプレミアムで、
『山田洋次監督が選んだ日本の名作 ~映画は家族をどう描いてきたか~』の第2作目として選定された、
木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954=昭和29年)を視聴した。

私はこれまで、ほぼ10年於きぐらい観賞してきたが、
改めて日本人の誰しもの素直に、心の琴線を揺り動かす突出した日本映画の史上に燦然と輝く名作である、
と確信させられたのである・・。

居間にあるテレビで観賞し終わった後、私はビールを呑みながら、
ぼんやりとこの『二十四の瞳』を初めて観賞した頃に思いを馳せたりした。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
『山彦』、『海彦』になれなかったので、やむえず里の児の『里彦』だ、と心に決めたりしていた。

その後、私が小学2年の三学期(1953=昭和28年)の3月に父が病死し、
翌年の1954=昭和29年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

こうした困窮した我が家の生活の中で、私は母に懇願して独りで映画館に通ったのは、
確か私は4年生の頃で、東映の『笛吹童子』、『里見八犬伝』等の娯楽映画を満喫していた。

この当時、我が家の最寄駅は、京王腺のつつじヶ丘駅(当時は、金子駅)であり、
児童の私としては、15分の道のりで、通学していた滝坂小学校は駅に近くあった。
この当時の映画館は、大映撮影所に近い調布駅の繁華街に『調布銀映』、
日活撮影所の最寄駅だった布田駅には『調布映画劇場』、
その後、都心のベットタウンに変貌し始めた千歳烏山駅には、『千歳映画劇場』が新築されたりした。


このような時代の背景の中で、
確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
布田駅にある『調布映画劇場』で『二十四の瞳』を観賞した・・。

私は同級生と座席に座り、たまたま女の同級生と並んだのである。

『二十四の瞳』の児童のひとりの女の子、松ちゃんが困苦した家庭の中で、
百合の花の絵柄のついたアルマイトのお弁当箱が欲しい、と母親に懇願するシーンで、
隣席の同級生が泣き出し、
俺も泣かないとまずいかなぁ、と思ったりした。

私は観賞しながら、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。

そして私が涙を浮かべたのは、この松ちゃんが奉公に出され後、
同級生だった人たちが、ほぼ全員揃って修学旅行に来て、
引率してきた大石先生が、たまたま同僚の人とふたりで、
偶然に食事処で、従業員として働かされている松ちゃんと再会するシーンであった。

松ちゃんは同級生だった人たちに身を隠し、帰船する同級生を波止場で見送るシーン、
私は涙をポロポロと流れていたのである。

しかし恥ずかしながら、この当時は、ストーリーも完全に理解できなかったのである。


後年、二十歳の私は、映画青年の真似事をしていた時で、
確か銀座の『並木座』と思われるが、この『二十四の瞳』を観賞した。

この時は、何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉は一年生のときの記念写真を指差しながら、全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった生徒が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』の歌は、これ以来、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の片隅が蘇(よみがえ)り、『浜辺の歌』を心の中で唄ったりしている。


このようなことを私は、深夜思い馳せたりしたのである。

尚、この『二十四の瞳』は、封切公開されたのは1954(昭和29)年9月14日であり、
この当時の松竹の宣伝ポスターの文面には、
《・・
美しい景色に囲まれた瀬戸内海小豆島!
女教師と十二人の教え子が綴る涙ににじむ愛の物語!
・・》
と私は後年に知ったのである。


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山田洋次監督は、何故『男はつらいよ』のシリーズを撮り続けてきたのか・・!?

2011-04-04 15:14:44 | 映画・テレビ
私は山田洋次氏の監督された作品は、多くの監督された作品より、観賞した作品は少ないが、
特に『男はつらいよ』シリーズに関して、
1969(昭和44)年~1995(平成7)年)の27年間に全48作が製作されたが、
苦手な私は、たぶん6作品前後しか観ていないと思われる。

これ以外の作品を思いめぐらすと、
『下町の太陽』(1963年)
『馬鹿まるだし』(1964年)
『馬鹿が戦車でやってくる』(1964年)
『霧の旗』(1965年)
『故郷』(1972年)
『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)
『遙かなる山の呼び声』(1980年)
『キネマの天地』(1986年)
『たそがれ清兵衛』(2002年)
『隠し剣 鬼の爪』(2004年)
『武士の一分』(2006年)
このくらいの作品が浮かんだりしている。

そして名作と名高い、『同胞』(1975年)、『息子』(1991年)、
『学校』(1993年)から始まるシリーズを、無念ながら見逃している。


私は1969(昭和44)年『男はつらいよ』シリーズが始まり、その後は周知の通り大ヒットを重ねるのであるが、
それまでの間は、山田洋次監督は模索していたのではなかろうか、と思ったりしたのである。

監督のデビュー前から、同じ松竹映画からは、大島渚、篠田正浩、吉田喜重の三氏が、
気鋭の新人としてヌーヴェルヴァーグ旋風を巻き起こして、活躍されて私は注視していたひとりでもあった。

脚本家、まして監督となれば、ご自身の思考されている企画の作品を撮りたい、
そして多くの方たちに映画館で観てもらい、ヒットを重ねたい、
と誰しも同じような思いと私は想像する。

しかし、映画の作品を完成し、映画館で上映し、観客の目に触れるまでは、
膨大な諸経費を要するのである。

小説の世界では、創作者は出版社、そして編集者のアドバイス、思惑で作品を完成し、
店頭に並ぶまでは、映画と比べ、そほど経費は要しない。

音楽の世界も、ひとつのアルバムを店頭に並ぶまでは、
映画の作品より経費は掛からないケースが圧倒的に多い。


映画界は、作品を私たちが観るまでには、原則として製作・配給・興行の三つの世界から成り立ち、
製作は作品を完成させるまで、配給は制作から販売権を買取り、宣伝費などを含めて、
映画館の興行に一定の比率で行われるのが、通常であった。

東京オリンピックが開催される頃の1964(昭和39)年の当時の頃までは、
たとえば映画会社の大手の場合は、
製作関係のプロデューサーが企画し、監督を始めする脚本家、そして撮影、照明などのスタッフなどが指名され、
撮影所などで作品を完成し、
配給部門の方たちは宣伝費などで付加価値を加味し、
できるかぎり自社の全国の映画館で上映する、製作・配給・興行が一体化が、
望ましく、このようなことが多くあった。

しかし有力な監督の場合は、ときには映画会社の思惑に同調できず、
独立した製作小会社として、ブロダクションを設立したりしたが、
大半は赤字が多く、次作までは困憊したりした。

或いは映画会社の専属契約となった監督が自ら企画を提出し、
結果としヒットされれば、喜ばしいことであるが、予測した以下の観客数で、赤字になった場合、
次作の依頼は当分適わず、映画会社より干されるのである。

この当時の伝説となったが、この間の監督自身の生活は、
リヤカーをひっばって、屋台で営業されて、飢えをしのいだ、と私は風の噂で聞いたりしていた。
作品が良くても、採算がなく赤字は、
映画会社は民間でもあり、監督自身の家族の生活まで困窮することなのである。


このような背景の中で、山田洋次氏は監督としてデビューしたのである。

そして松竹の専属契約の中で、山田洋次監督は『男はつらいよ』シリーズが大ヒットを重ねる間、
松竹に多大な業績をもたらした功績として、ときおりご自身の意図された作品を完成され、
私たちに数々の名作を観賞できる状況になった、と私は深く思っているのである。

このような成功した例は、まったくの稀(まれ)なケースである。

たとえば黒澤明の作品の軌跡を思い馳せれば、明白なことだろう。
『隠し砦の3悪人』(1958年)で製作日数、製作直接経費も予定よりオーバーし、封切予定日も遅延し、
契約していた東宝はやむえず、『黒澤プロ』の設立に同調した、と風の噂で聞いたりした。
その後は、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)は大ヒットとなったが、
『赤ひげ』(1965年)を最後に、
その後は撮りたくても取れない状況が続き、『どですかでん』(1970年)以降の作品は、
輝きが乏しく、かっての作品からは色あせている。


ここ数10年の映画界は、従来の映画館の入場料などの興行の収入、
そしてビデオ・DVDの収入、テレビ放送するテレビ権の収入などがあるが、
依然として作品の単位としてみれば、赤字が多く、
ときおりのヒット作品でカバーしているのが実態である。

映画会社の大手としては、制作費の膨大の危険性を避けるために、外部の製作会社に委託したり、
そして配給権、興行権を行い、
その上に土地建物賃貸収入などで、映画会社としての経営基盤が成り立っている。

このように時代の変貌に思い馳せると、改めて長年に及び名作を発表している山田洋次監督は、
稀(まれ)な巨匠であり、敬愛を重ねている。


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『山田洋次監督が選んだ日本の名作 ~映画は家族をどう描いてきたか~』、私は視聴しながら・・。

2011-04-04 10:11:55 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の66歳の身であるが、
昨夜、ぼんやりとテレビのニュースを視聴した後、何か良い番組がないかしら、
と思い新聞のテレビ番組表を見て、
NHKのBSプレミアムで、午後10時より『山田洋次監督が選んだ日本の名作』と題された番組を知り、
遅れをとったと思いながら、番組の途中から視聴したのである。

正式な番組名は、『山田洋次監督が選んだ日本の名作 - 映画は家族をどう描いてきたか -』であり、
何かしら山田洋次監督が出演され、選出した「家族」の映画50本への思いや作品にまつわるエピソードを発露され、
司会として山本晋也さん,キャスターの小野文恵さん、
そしてゲストスターとしてピーター・バラカンさん、女優の香川京子さんが出演されて、
5名で名作を語る、という内容であった。

この間、大林宣彦監督が映画の世界を短かな言葉で発言したテープが流され、
教示を受けたりした。

この番組は、今後にこの番組として、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本~家族編~」』の放送を前の
序章のような番組と、私は途中から判明した。

http://www.nhk.or.jp/yamada100/
☆【NHK BSプレミアム】<==、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本~家族編~」』☆


私は若き頃に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をし、挫折した身であるが、
今でも映画に対する熱い思いは、心の片隅に残っているので、
真摯に山田洋次、山本晋也、ピーター・バラカン、香川京子、大林宣彦の各氏の発露された言葉を
受け止めていた・・。


番組の中の一部として、女優の香川京子さんが、
『・・『男はつらいよ』のシリーズの第一作で、マドンナ役として、
松竹のプロデューサーの方から出演の依頼がありましたが・・結果としては、取りやめになりました・・』
とこのようなことを話された。

『香川京子さんは大スターですし・・あの頃の『男はつらいよ』はB級映画の扱いで、
製作コストも余り賭けられなくて・・』
とこのような趣旨を山田洋次監督は微苦笑をまじえながら、発言された。


私は山田洋次監督を敬愛しているが、この中の思いのひとつとして、
いつも『『男はつらいよ』のシリーズを長年に及び、結果としては48作品を監督されきたのか・・』
念頭に思い続けているひとりである。

次回、『山田洋次監督は何故、『男はつらいよ』のシリーズを撮り続けてきたのか』を命題に、
投稿する予定である。


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今宵9時、脚本・倉本聰の『歸國(きこく)』を私は待ち焦がれ・・。

2010-08-14 08:50:37 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞を読んだりして、思わず微笑んだりした。
28面に【テレビ番組】であり、最下段には、

《 終戦ドラマスペシャル 歸國(きこく)」
       今晩9時  脚本・倉本聰  》

と大きく明示され、右側には、

《 愛する妻よ、恋人よ、妹よ!
  君たちは幸せだったのか。
  現代によみがえった英霊たちが見たものは--。 》

と明記されていた。

そして私は定期コーナーの『試写室』に於いても、
このドラマが取り上げられて折、私は精読したりした。

無断であるが、笹島拓哉氏の綴られた批評文を転記させて頂く。
《・・
本当の豊かさとは何か、幸せとは何か。
これらの問いに対する答えは人それぞれだろう。

戦後65回目の終戦記念日、秋吉部隊長(長渕剛)、大宮上等兵(ヒートたけし)ら
戦争で命を落とした兵士の英霊を乗せた列車が、
未明の東京駅に到着した。
英霊たちは夜明けまでの限られた時間、
それぞれの愛する者を訪ねていく。

利己的な現代人の醜さを描くだけではない。
愛する人を思い続ける洋子(八千草薫)や
戦地から生還した秋吉の上官・遠山(笈田ヨシ)ら、
戦争体験者の言葉は切なさに満ちている。

脚本の倉本聰と演出の鴨下信一は、子どもの頃に戦争を経験している。
ドラマに込められた強烈なメッセージに、
豊かさや幸せについて改めて考えさせられた。
・・》
注)批評の原文をあえて改行を多くした、


私は過ぎし9日の夕方、読売新聞の夕刊を読んで、
【テレビ&ラジオ】に於いて、ひとつの記事に思わず精読したのである。
この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20100809-OYT8T00362.htm
☆【YOMIURI ONLINE】
     TBS系ドラマ「歸國(きこく)」に出演、長渕 剛(ながぶちつよし)
             「長渕色」とことん消した☆

この記事を私は読んで、敬愛している創作家の倉本聰氏が、
テレビ・ドラマ化にされた、と知ったのである。

この後、まもなくして、秘かにTBSのホーム・ページを検索し、
http://www.tbs.co.jp/kikoku2010/intro.html
☆TBS 「歸國(きこく)」 終戦ドラマスペシャル ☆

そして私は1時間ばかり読んだり、見たりしていたのであるが、
『脚本・倉本聰』コーナーで、氏の作品の思いを幾度も読んだりしたのである。

そして、このドラマを今宵14日の夜9時より放映されるので、
待ち焦がれていたのである。


私は倉本聰氏にはお逢いしたこともないが、
数多くのテレビのシナリオ、放送されたテレビの作品、映画の脚本、作品に思いを重ねたりしたのである。
或いは随筆の数々を私が熱愛し読んだのは昭和が終る頃であった。

どなたでも作家の作品、シンガー・ソングライターの歌などで、偶然に接して、
ある日突然に心がざわめき魅了され、無我夢中に熱愛すると思われる。
私も創作家の倉本聰氏を書物で偶然に知り、
その後にある時から魅了されて、夢中に過去の作品を読んだり、観たりしたひとりである。

このサイトに於いても、私は創作家・倉本聰氏から、
数多く教示されたことがあり、投稿したりしているが、今回は省略する。

私が倉本聰氏の作品に初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。
映画の脚本家・橋本忍(はしもと・しのぶ)氏の『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本聰氏の作品に初めて知り、印象が残った。

この後、10数年後に私にとっては、倉本聰氏に信愛するひとりとなり、
人生は不思議な賜物(たまもの)があると深く思ったりしている。


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黒澤明・映画監督の選定した世界の名作を拝読し、思わず共感したり・・。

2010-06-09 10:16:49 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
過日、北東北を旅行した時、
青森市の新町の本屋で、偶然に一冊の本に目がとまり、買い求めたりした。

映画監督の『黒澤明』の生誕100年を記念して、
河出書房新社の文藝別冊で、『黒澤明 生誕100年総特集』である。

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309977300
☆河出書房新社『文藝別冊』 『黒澤明 生誕100年総特集』☆


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に、
大学を中退して、映画青年のよう真似事をした時期あったので、
少なくとも邦画は3000作品、洋画は5000作品ぐらい、
大半は映画館で観たり、或いはビデオで自宅の居間で視聴したりしてきた。

そして映画雑誌の『キネマ旬報』とか映画批評・シナリオの単行本など買い求め、
愛読してきた拙(つたな)い身であるが、
昨今は数多い映画ファンのひとりとなっている。

たまたま今回の雑誌を拝読して、特に魅せられたのは、
ご令嬢の黒澤和子さんが編集された『黒澤明が選んだ百本の映画』であった。

この記事の《はじめに》に明記されているとおり、
《一監督一作品》が前提であり、
黒澤明が選定したそれぞれの作品への思いなどのコメントが付記されていたので、
私なりに精読した。

そして、思わず共感したりて、微笑んだり、
或いはある監督への選定作品は、これ以外の作品が良いのに、と思ったりした。

選定された作品は、もとよりサイレト時代の1919年から、トーキー時代を得て、
そして昨今の1997年に製作された作品まで、満天の星空のようにきらめく名画の数々である。
私としては無念ながら観ていない作品が10数作品があるが、
それなりに深く愛読し、特に共感させられた作品を列挙する。


☆『会議は躍る』 製作・1931年(ドイツ)

☆『綴方教室』 製作・1938年(日本)

☆『自転車泥棒』 製作・1948年(イタリア)

☆『道』 製作・1954年(イタリア)

☆『大人は判ってくれない』 製作・1954年(フランス)

☆『かくも長き不在』 製作・1960年(フランス)

☆『ジョニーは戦場に行った』 製作・1971年(アメリカ)

☆『ジャッカルの日』 製作・1973年(アメリカ)

☆『ゴッドファーザー PARTⅡ』 製作・1974年(アメリカ)

このような作品が黒澤明が選定した作品の思いと私が共感した作品である。
少なくとも百年間の歴史のある映画作品から、
その上に《一監督一作品》の前提規約もあり、黒澤監督にしても選定は困苦を極めただろう、
と私は苦笑しながら、拝読した作品のコメントもある。

こうした思いを馳せたりすると、時がたちまち過ぎていく享受な日々でもある。
                                 


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斉藤由貴(さいとう・ゆき)さんの発露された言葉に、思わず微苦笑させられて・・。

2010-05-11 08:38:14 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、読売新聞の夕刊を読んでいたら、ひとつの記事を読み微苦笑させられたのである。

13面に『テレビ&ラジオ』で、
私は視聴していない【テレビ朝日系「同窓会~ラブ・アゲイン症候群」】に
出演されている斉藤由貴(さいとう・ゆき)さんが、
読売新聞のインタビューに於いて、

《 恋愛 私にはほど遠い 》

と大きな掲げられて、齢を重ねた私は、思わず記事を精読し、
読み終えた後、この中で発露された言葉に、思わず微苦笑させられ後、
確かな大人の女性の思いである、
と感心させられたのである。


この記事とほぼ同一の記事が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載され、
片山一弘・記者の綴られた記事であり、無断であるが転載させて頂く。


《・・
「中学卒業後30年目の同窓会」の場面に、
高校生の頃から歌やドラマに活躍してきたこの人の姿があると、
同年代の視聴者には、本当の同窓会のように見える。

40代の恋愛をサスペンス調に描く、テレビ朝日系のドラマ「同窓会」(木曜午後9時)で、
黒木瞳、高橋克典、三上博史らと共演中だ。
撮影前は、プライドがぶつかりあうような硬い空気の現場になるのでは、と不安だったという。

「だって、すごい方ばかりですから。10年前なら、本当にそうなったかも」

始まってみたら、意外なほど楽しくて、安心した。

「みんなホントに大人で、格好つけた部分もなく、気楽な、ほどけた感じ。
黒木さんが、全体をまとめる女親分です」



脚本は「白い巨塔」「14才の母」などをヒットさせた井上由美子。
井上作品への出演は初めてだ。

「現実の出来事としては、それはないのでは、というベタなセリフもあります。
でも、例えば昔の歌謡曲って、ちょっと聞くと恥ずかしいかもしれないけれど、
実は計算されていて、だからこそ人の心に残る。
そういうことも井上さんの中で咀嚼(そしゃく)した上での台本なのかな、と思います」

演じる西川陽子は、中学時代にはメガネの秀才だったが、
今は起業家の妻となり、ぜいたくな暮らしを楽しむ。
反面、夫が愛人に産ませた子を引き取って育てるという複雑な事情を抱えてもいる。

「彼女は間違いなく努力家。
すごく頑張って、いい学校に入り、自分を磨いて、いろんなものを手に入れた。
でも、それゆえに悩みを人に言えず、自分の殻を破れずにいる。
その孤独感にウソをつかず、きちんと体験するように演じたい」

陽子と自分に共通点は少ない、と言いながらも役への理解は深い。
「私には、ほど遠いもの」という恋愛についても同じだ。

「恋愛というのは、自分の社会的立場や、この年齢ならこうあるべきという概念から外れた行為。
自分の中の若い部分と葛藤(かっとう)し、じたばたする。
大人の恋愛というのは格好いいものではなくて、みっともないくらいのものなのかも知れません」

私生活では3児の母。
「子育てはとても楽しい」と相好を崩す反面、出産後はいつも、あまり長くは休まずに復帰してきた。

「仕事がしたかったんでしょうね。
便宜上『仕事』と言ってますけど、私にとってお芝居は、自分が自分でいられるために必要な場所。
普段は存在が希薄な人間なので、役を演じることで、ちょうどいい濃さになる。
両生類的なんです」

制作発表では、「私は学校が楽しくなかったので『同窓会恋愛』って、ちょっと謎です」
と話して周囲の苦笑を誘った。
率直で、豊かな言葉を紡ぐ人である。
(片山一弘)

(2010年5月10日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20100510-OYT8T00643.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】
【テレビ朝日系「同窓会~ラブ・アゲイン症候群」】に出演されている斉藤由貴さん インタビュー記事☆


私は斉藤由貴さんに関しては、映画に出演されている作品は観賞した記憶もなく、
テレビ・ドラマも視聴したこともなく、
ラジオからこのお方の唄われた音楽を聴いた程度である。

しかし、何かの雑誌でこのお方を見たり、読んだりしているので、
何かしら私にとっては、遠い親戚の娘さんのような存在である、と身勝手に思っている・・。

偶然に今回のインタビュー記事を読んで、感心させられたのは、
《・・
「恋愛というのは、自分の社会的立場や、この年齢ならこうあるべきという概念から外れた行為。
自分の中の若い部分と葛藤(かっとう)し、じたばたする。
大人の恋愛というのは格好いいものではなくて、みっともないくらいのものなのかも知れません」
・・》
このお方なりに人生体験をされて、発露された言葉・・
まぎれなく正鵠な言葉を表現された、と感心させられ、真の大人の女性・・
と思いながら、
斉藤由貴さんは素敵な女性、と私は微笑んだりしたのである。




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今宵は、NHKテレビで『倉本聰の“創る”世界~ラジオドラマ制作の舞台裏~』を視聴・・。

2010-03-18 18:40:18 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
午前中のひととき、このサイトに於いて、
【創作家・倉本聰(くらもと・そう)氏から教示された私は・・。【上】】と題して投稿し、
午後は読書をし、昼寝までしてしまった・・。

ぼんやりと読売新聞の夕刊を先程見ていたら、
テレビ番組表で偶然にNHKテレビの夜の10時より、
『倉本聰の“創る”世界~ラジオドラマ制作の舞台裏~』の放映番組を知り、
今宵の私の予定を変え、視聴をしょうと小躍(こおど)りしている・・。

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2010-03-18&ch=21&eid=5110
☆ NHKテレビ 『倉本聰の“創る”世界~ラジオドラマ制作の舞台裏~』 ☆

総合月刊誌として『文藝春秋』があるが、『日本の顔』の連載特集記事で、
最新の4月号に於いて、この人の特集であり、私なりに深い思いで拝読したばかりである。

昨今、ふしだらな私でも、何かとついているかしらと微笑んでいる。


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改めて、創作者・山田太一(やまだ・たいち)氏から教示されることは・・。

2010-02-19 11:16:11 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
読売新聞の朝刊に於いて、『時代の証言者』の連載記事があるが、
2月9日から、テレビ脚本家、小説家として著名な山田太一氏の証言を愛読している。

私は昨今のテレビ脚本家は無知であるが、
倉本 聰、向田邦子、山田太一の3氏に限り、ときおり観たりしているひとりである。

そして、山田太一氏に関しては、
平原日出夫・著の『山田太一の家族ドラマ細見~愛と解体と再生と~』(小学館、発刊・1994年11月10日)、
蕪木和夫・著の『TVドラマの鉄人BIG4』(蒼洋社、発刊・1995年6月10日)に於いて、
倉本 聰、向田邦子、山田太一、橋田寿賀子の4氏の評論集を読んだりしている。

或いは山田太一氏がテレビに出演されて、松竹の大船撮影所の思いで、自作のテレビドラマを語られることなど、
偶然に視聴したりしている。


このように私のつたない山田太一氏への思いがあるが、
今回、『時代の証言者』を読みながら、私なりに改めて、創作者としての山田太一氏から、
多々教示されたのである。

読売新聞の編集委員の鈴木嘉一氏の書かれた記事で、無断であるが、引用させて頂く。


◎テレビドラマについて

《・・
(略)
自ら殺人などの犯罪は禁じ手としました。
犯罪ものは時代や社会のゆがみを描きやすい。
でも、多くの人は犯罪に走る手前で踏みとどまっている。
ドラマチックじゃないけれど、大多数の人の現実を書こうと。

「ある男がなぜ殺人を犯したかより、なぜあの奥さんと結婚したかの方がスリリングだ」。
(略)
映画に比べると、衝撃力は弱いかもしれないが、
弱いからこそ、日常のささいなことや細部を延々と描くことができる。
テレビは大きなストーリーより細かい部分を大切にすべきです。
(略)
・・》


◎ノンフィクションとフィクションの効用の相違

俳人などで名高い亡き寺山修司氏と大学時代から交流していた氏は語られ、
《・・
(略)
(寺山修司)その俳句や短歌をめぐり
「母親が花売りだった、などというのはウソ」との指摘は当時もありました。

父を戦争で失い、母一人子一人なので、親子関係は複雑だったでしょう。
リアルに書いたら角が立ち、
フィクションだからこそ真実が表現できたと思います。
(略)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は昨日までの連載第8回の記事を精読し、多々教示を受けたが、
少なくとも引用させて頂いた氏の証言は、私にとっては千金の重みのある言葉である。

このようなことを私は昨夜のひととき、深く思い返したりした・・。




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幸運にも、映画専門誌の『オールタイム・ベスト 映画遺産200』にめぐり逢えて・・。

2010-02-17 17:17:02 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昼過ぎに少しばかり寒い曇り空の中、駅前の商店街に向った。

ドラッグ・ストアーでカミソリの替え刃などと家内から依頼された薬を買い求めるた後、
何気なし本屋に寄ったのである・・。

この商店街は3軒ばかりの本屋があるが、今回入った本屋は、
大手出版社より中小出版社が発刊された本が多い上、それぞれの趣味別に書棚があり、
私のお気に入りの本屋のひとつである。

私は『ちくま文庫』の棚で、何かしら興味を惹かれる文庫本はないかしら、
と探したりしたが、無念ながらなく、たまたま後ろを見たら、『映画』の棚であったので、
何気なしに本を眺めたりしたのであった・・。

そして、『オールタイム・ベスト 映画遺産200 日本映画編』と明記された本を手に取り、
パラパラと捲(めく)っり、キネマ旬報が創刊90周年の特別編集本と判ったのである。
この本の下には、『オールタイム・ベスト 映画遺産200 外国映画編』もあり、
私は小躍りしながら、この二冊を買い求めたのであった。

http://www.kinejun.com/tokubetsu/90th_bestten.html
☆ キネマ旬報社 創刊90周年『オールタイム・ベスト 映画遺産200』 ☆


私は小学4年生の頃が独りで映画館に通い、映画の数々の作品の魅力を感じ、
その後は益々熱中して大学を中退し、映画青年の真似事をした時期があった。
専門書を購入したりしたが、もとより専門誌は『キネマ旬報』の定期、特別号を熱読し、
過ぎ去った遥か昭和30年代に発刊された『キネマ旬報』を古本屋で探し買い求めたりしていた。
そして確か『シナリオ全集』という名と記憶しているが、
著名の脚本家の作品を収録して、6冊ぐらいの別冊号があり、愛読してたりした。

この後、映画青年の真似事も挫折し、友人の映画青年に殆ど映画に関する本を差し上げた後、
10冊ていどを残して、数年後には民間会社に中途入社して、サラリーマンに身を投じた。

たまたまレコード会社に35年ばかり勤めている間は、
定年退職後は映画をゆっくりと自宅で観ようと思い、映画のビデオ・テープ、DVDを買い求めたり、
或いはNHKのBS、そしてWOWOWで放送される映画作品を収録したりしていた。

そしてこの間も映画の専門誌として、
『キネマ旬報』の創刊80周年記念『映画人が選ぶオールタイム・ベスト100』邦画、洋画別などを買い求め、
愛読したりした。


私は1970(昭和45)年の頃までは、映画館に通い観賞していたが、
サラリーマン時代は激減し、自宅の居間で観賞することが圧倒的に多くなり、
その上、2000年以降の作品は100ぐらいであるので、
敗戦後から昭和の終わりの頃までが、心を寄せられる作品が多くなっている。


平素は小説、随筆、現代史、ノンフェクションの読書が多いが、
ときおり音楽を聴き心酔するのと同様に、映画を鑑賞したりしている。

今回たまたま買い求めることのできた二冊は、私の秘かな友のひとりと思ったりしている。



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ふたたび、私なりの歴代の洋画のベストテンは・・。

2010-02-10 12:53:10 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
一昨日の8日に、W.ワイラーの『ローマの休日』をテレビで視聴したのであるが、
この映画に喚起させられ、
昨日に【恥ずかしながら、初めてW.ワイラーの『ローマの休日』を視聴し・・。】、
その後【W.ワイラーの『ローマの休日』、なぜ日本では評価が高いのか・・!?】をこのサイトに於いて、投稿してきた・・。

そして、この中の一部として、
【・・
私は小学生の頃から映画が好きで、洋画だけでも少なくとも6000作品は鑑賞しているが、
あえて、『ローマの休日』は避けていたのである・・。
・・(略)・・
しかし映画の作品の評価としては、私の今まで観た洋画の中では、
1000位にもならない作品である。
・・】

このように広言したのであるが、それだったならば私の洋画を観賞した中で、
最良の作品はどうなのよ、と問われる前に、
私なりの歴代のベストテンを公開する義務があるので、あるサイトに掲載したことがあるが、
あえて再掲載をする。

【 私なりの歴代の洋画のベストテンは・・。 】

映画専門雑誌の『キネマ旬報』による映画人が選んだオールタイム・ベスト100の外国映画編に対応し、
私なりに選定した。

『キネマ旬報』のベストテン《参考》1999年10上旬特別号

①『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)

②『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック 監督(1968年)

③『ローマの休日』ウィリアム・ワイラー監督 (1953年)

④『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)

⑤『風と共に去りぬ』ヴィクター・フレミング監督(1939年)

⑥『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)

⑦『駅馬車』ジョン・フォード監督(1939年)

⑦『禁じられた遊び』ルネ・クレマン監督(1952年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑦『道』フェデリコ・フェリーニ監督(1954年)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)

②『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年)

③『イングリュシュ・ペイシェント』アンソニー・ミンゲラ監督(1979年)

④『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン監督(1993年)

⑤『かくも長き不在』アンリ・コルピ監督(1961年)

⑥『街の灯』チャールズ・チャップリン監督(1931年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑧『自転車泥棒』ヴィットリオ・デ・シーカ監督(1948年)

⑨『ジョニーは戦場へ行った』ドルトン・トランボ監督(1973年)

⑩『逢びき』 デイヴィッド・リーン監督(1945年)

数多(あまた)の感動をもたらしてくれた作品の中より選定するのが、酷な作業でした・・。

『時』が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

尚、選定の際に於いて、
『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)、
『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)、
『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)、
『許されざる』クリント・イーストウッド監督(1992年)
『カサブランカ』マイケル・カーチス監督(1943年)等は最後まで検討した作品です。

《1999年9月29日、私の日記より》

小説、映画、音楽などの選定の結果、その人の性格、人格、思想までを表わす、
と改めて思った次第です。


このように投稿しているが、ここ10年の公開された作品は殆ど観賞しておらず、
1999年9月29日に書き込んだ上記のベストテンの改定はなく、
その人の情念、深淵まで描いた作品が好みかしら、と私は微苦笑している。


尚、私が中学を卒業する1960(昭和35)年の3月までには、
『大いなる西部』ウィリアム・ワイラー監督 (1958年)に感動しながらも、
ジーン・シモンズに魅了され、こうした女(ひと)と結婚できたらと夢を見た純粋無垢な少年であったことを付記しておく。



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W.ワイラーの『ローマの休日』、なぜ日本では評価が高いのか・・!?

2010-02-10 00:09:03 | 映画・テレビ
私は遅ればせなから、W.ワイラーの『ローマの休日』の映画を観た、
と前記のこのサイトで【恥ずかしながら、初めてW.ワイラーの『ローマの休日』を視聴し・・。】と題して投稿した。

この中に於いて、
【・・
日本の映画好きな著名人の歴代洋画作品に於いて、
ベストテンの上位に『ローマの休日』が選定されることが多く、
私はおとぎ話のような作品が選ばれるのは、程度の低い人たちと思っていたのである。
・・】
このように私は広言したが、私は映画をテレビで観終わった後、考え込んだのである。


この映画が日本で公開されたのは1954(昭和29)年であり、
この当時の日本の多くの人は、娯楽はテレビはもとよりなく、ラジオ、映画などが主役であった。
大手の新聞の映画の広告欄は現代より多く、上映されている作品が映画館別の一覧表も常設され、
映画の作品批評、紹介欄もあったのである。

映画専門の評論家、そして新聞社の芸能全般の記者も折、
各映画会社は試写会などでこのような専門家を招き、少しでも良い批評、紹介を書いて頂くのもひとつの宣伝の業務であった、
と感じたりしている。

そして、この『ローマの休日』の場合は、もとよりある王女と新聞記者のコメディ・ラブロマスであり、
特に新聞社の記者たちは何らかの親近感があったろうし、
この映画を観た結果、記者になりたて新聞社に入社を志望された方もいる、
と私は何かの雑誌で読んだ記憶がある。

このような上映公開前の好評も得た上、日本の興行も大成功であった。
この年の興行の外国映画の上位には、
①『ローマの休日』     配給 2億8404万円
②『砂漠は生きている』  配給 2億2107万円
③『グレン・ミラー物語』  配給 1億8202万円
であった。
②の『砂漠は生きている』は、私は小学生で学校として3年生以上ほぼ全員が映画館に行って観たので、
個人の動員数の視点から、『ローマの休日』は突出した首位とでいえよう。

もとより上映されてから、オードリー・ヘップバーンの魅力とローマの情景に話題を重ねた結果が主因と想像する。

その後のオードリー・ヘップバーンも映画主演のたびに、
これまでのアメリカ女優にないファニー・フェイスとして、確固たる存在感を示した上、
衣服などを含めたトータル・ファションまで数多くの人たちに魅了させ、影響をもたらした稀な女優となった。


そして幾10数年過ぎた時、歴代の洋画作品を選定する時、
それぞれの観客者はオードリーの原点である鮮烈な『ローマの休日』に思い浮かべ、
自身の過ぎ去った軌跡に思いを重ねて、この作品を選ばれたのだろう。


このようなことを私は深夜に深く思ったりしたのである。

そして、偶然であるが、猪木武徳・著の『戦後世界経済史 ~自由と平等の視点から~』(中公新書) を読んでいた時、
この『ローマの休日』の作品の製作資金などのことを教示されたのである。

戦後、アメリカは疲弊した西ヨーロッパの諸国を救済するひとつとしてマーシャル・プランは多くの方に知られた通りであるが、
《・・
マーシャル・プランはこの他にも、「技術援助プログラム」としてヨーロッパの技師や経営者を米国に招き、
米国の産業事情を直接観察してもらうというプロジェクトを実施した。

また、米国の映画産業に関しても興味深いエピソードがある。
マーシャル・プラン以前は、米国政府の政治的な力で、
経済的な援助の代わりに(フランスの映画産業には迷惑なことだが)アメリカ映画を上映するというよう政策を採っていた。

しかし、マーシャル・プラン以降50年代に入ると、
米国の映画産業は国内ではテレビの普及に押されて、次第に興行成績が低下し始める。

テレビに対抗するために大型スクリーンが導入され、独立プロの時代に入った。
独立プロの映画製作資金は、メジャー各社が海外に持つ「凍結ドル」であった。

これはマーシャル・プランによって米国では使えないドルである。
名画『ローマの休日』はパラマントがこの「凍結ドル」を利用して作った映画なのである。
オープニングの字幕に、
「この映画はすべてイタリア・ローマで撮影され、録音された」
と大きく出てくるのはそのことを示すためである。
・・》
引用:68ページ
注)原文にあえて改行をした。

このような製作資金の秘話があるが、こうした制約の基で、
W.ワイラーは製作と監督の立場で、名作『ローマの休日』を完成させ、
多くの功績を残したことには、作品の優劣に関わらず、私は思わず脱帽したのである。




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恥ずかしながら、初めてW.ワイラーの『ローマの休日』を視聴し・・。

2010-02-09 17:08:02 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、NHKのBS2でアカデミー受賞作品特集として、『ローマの休日』が放映されると、
夕食の前に知り、どうしょうかしら、と考えたりしたのであった。

私は小学生の頃から映画が好きで、洋画だけでも少なくとも6000作品は鑑賞しているが、
あえて、『ローマの休日』は避けていたのである・・。

もとよりこの映画は、製作は1953(昭和28)年に製作されて、日本で公開上映されたのは翌年の1954(昭和29)年であったので、
私が小学3年生の時であり、この頃は東映の時代劇の三本立てに夢中な時であり、
幼年のせいもあり、観てはいない。

その後、高校2年の1961(昭和36)年頃には、リバイバル上映として、
この『ローマの休日』をはじめ、ジョン・フォード監督の『駅馬車』(1940年=日本初公開)、
ビクター・フレミング監督の『風と共に去りぬ』(1952年=日本初公開)、ルネ・クレマン監督の『禁じられた遊び』(1953年=日本初公開)、
チャールズ・チャプリン監督の『街の灯』(1934年=日本初公開)等が日比谷の映画館で上映されて、
私は殆ど観ていたが、『ローマの休日』だけは予告編を観た時、
王女と新聞記者のコメディ・ラブロマンスで余りにもおとぎ話なので、高校生から二十歳までの若い女性向き、
と直感して見送ったりしていたのである。

その後、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をした後、挫折をし民間会社に入社し、
35年間ばかりあるレコード会社に勤めて、定年退職した身である。

この間、映画館で映画を観るのは激変したが、ときおり映画の雑誌、文庫本を買い求めたりした。
そして日本の映画好きな著名人の歴代洋画作品に於いて、
ベストテンの上位に『ローマの休日』が選定されることが多く、
私はおとぎ話のような作品が選ばれるのは、程度の低い人たちと思っていたのである。

その後、専門雑誌のキネマ旬報の中で、『オールタイム・ベスト・テン』に於いて、
アメリカ映画協会(AFI)の選定に寄れば、『ローマの休日』の選定されておらず、
私は安堵しながらも、何故日本はあのようなおとぎ話しが好感するのか、
と不思議に思い続けていたのである。


私は監督のウィリアム•ワイラーの作品に関しては、
『ミニヴァー夫人』(1941年)、『我等の生涯の最良の年』(1946年)、『必死の逃亡者』(1955年)、
『大いなる西部』(1956年)、『ベン・ハー』(1959年)、『噂の二人』(1961年)ぐらいしか観賞した記憶がなく、
巨匠として名高い戦前の作品は観た事がないので、批評の資格はない。

そして、問題のオードリー・ヘップバーンの主演した作品は、
『戦争と平和』(1956年)、『緑の館』(1959年)、『噂の二人』(1961年)、
『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)・・
現在、思い出されるのはこの程度の作品だけで、
私は性の匂いが感じることがない女優は、高校生の青春映画ならともかく、苦手なのである。


このような思いで、苦手意識を秘めた『ローマの休日』でも、思い切って昨夜、
テレビ画面であるが、視聴したのである。

おとぎ話でも、良く出来た脚本であり、やはりW.ワイラーは一流と云われた監督であると、
納得させられたのである。
この映画は少なくとも2つの功績がある。
この製作された1953年の当時の欧米の状況を考慮すれば、
ローマの名所を作品で数々登場させて、この後のローマを中心としたヨーロッパ観光旅行を誘発させた点である。

このことはデビット・リーンの名作のひとつ『旅情』(1955年)に於いて、
アメリカの平凡なオールト・ミスが、あこがれのローマでの出来事を描いた作品でもあり、
アメリカからも多くの方がヨーロッパ観光旅行をされたことである。

そして、監督から主演に抜擢されたオードリー・ヘップバーンの存在である。
これまでのアメリカ女優にないファニー・フェイスとして、確固たる存在感を示した上、
ショートカットのヘアー、そして衣服のファションまで数多くの人たちに影響をもたらした稀な女優である。

オードリー・ヘップバーンは私は苦手な女優のひとりであるが、
数多くの女性から敵視されない稀な存在であることは、私も認める女優である。

このようなことを観終わった後、感じたのである。

しかし映画の作品の評価としては、私の今まで観た洋画の中では、
1000位にもならない作品である。

この後、私は深夜にもかかわらず『20世紀の映画監督名鑑』(共同通信社)に於いて、
長谷川正のW.ワイラーの解説を、改めて読んだりした。
氏の解説の一部には、
《・・
戦後、メジャーの力に左右されず監督の立場を強化しょうと、リバティ・プロを創設する。
これは武士の商法で失敗に終わったが、終始リベラルな立場を明確にして、
あの米ソ対立の時代、アメリカ下院の行った〔赤狩り〕にも批判の目を向け、
共産主義者として追放された脚本家ドルトン・トランボを、
あえて『ローマの休日』に変名で起用するなど、気骨あるところもみせた。
・・》

このようなことを読んだりして、今まで観たW.ワイラーの作品を思い馳せたりした。


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