私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の66歳の身であり、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
【新おとな総研】というコーナーがあるが、この中に【あの日あの時】と題された連載がある。
ときおり私は、この【あの日あの時】を読みながら、齢を重ねたせいか、
この記事を読みながら、過ぎ去り日々に思いを重ねて愛読してい。
先ほど、たまたま4月4日を見ていたら、
《 【 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」がスタート。‐1983年(昭和58年) ‐ 】 》
と題された記事があり、私は思わず読み込んでしまったのである・・。
無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
1983年(昭和58年)4月4日 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」がスタート。
明治30年代、山形県の小作農の家に生まれた女性が、
貧しさやいじめ、関東大震災や戦争という時代の荒波をくぐって生き抜く姿を描いたNHK朝の連続テレビ小説「おしん」。
物語は、脚本家の橋田寿賀子さんが、
「米一俵で奉公先に行かされ、その後、女郎に売られながら逃げ出し、
ミシン技術を学んで商売を起こして、今、子供たちと幸せに暮らしている」
という匿名の女性からの手紙を基に高齢者の苦労話を募って書いた。
「戦争も日本の経済成長も女が支えてきた。
女が主人公の歴史を書きたかった」
と橋田さん。
「おしん」役は、奉公先などで苦労する少女時代を小林綾子さん、
16~45歳を田中裕子さん、
子供たちとともにスーパーを出店する50~83歳を乙羽信子さんがそれぞれ演じた。
この年11月には最高視聴率62.9%、
平均視聴率52.6%(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区)という高視聴率を記録した。
さらに、海外でも現地語で放送され、異例の評判を呼んだ。
中国や東南アジアでは特に人気が高く、
中南米、中東、東欧なども含め60か国以上で放送されたほか、リメーク版まで制作された。
国内では、軽薄短小が広がった1980年代にあって、
高齢者を中心に我が身や両親らの苦労を思い起こしながら見た人が多かったが、
日本はこの2年後からバブル時代に入っていく。(稲)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
http
://otona.yomiuri.co.jp/history/anohi110404.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==【新おとな総研】
<==【あの日あの時】《 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」がスタート。‐1983年(昭和58年) ‐》☆
この当時の私は、中小業の音楽業界のあるレコード会社に勤めて、
情報畑のシステム関係を担当していた。
自社の業績が悪化して、コンピュータは委託処理をしていたのであるが、
自社導入で経費削減を図れ、と首脳部のひと言で、奮闘し始めていた頃であった。
そして、特に秋になると、睡眠時間を削りながら勤務していたので、
テレビ・ドラマの『おしん』は視聴していなかったが、
世の中の熱狂されたブームで少し知った程度であった。
システムを困苦しながら、何とか翌年の6月に軌道に乗せたが、
運営と一部開発業務も重なり、多忙の時を過ごした。
この後、あるレコード会社との販売委託などで、奮闘を重ねた後、
ある旅行会社の冬の蔵王の樹氷、山寺の鑑賞、そして最上川の舟下りの企画に魅せられて、
私たち夫婦は初めて団体観光ツアーに参加したのは、1986(昭和61)年の2月下旬だった。
この旅の中で、冬の『最上川の船下り』をしたのであるが、
この地域も『おしん』ブームの余情で、乗船前に売店で、『おしん』に関する商品が売られていた。
私は、これ以上の深い意味合いを知らなかったのである。
たまたま今年の2月中旬、私たち夫婦は、
東北地方の山形県の銀山温泉に滞在し、その後は最上川の船下りの旅をした。
私達夫婦は国内旅行は共通趣味のひとつであるが、
銀山温泉は未知の世界であり、
昨年の夏過ぎ、雪舞い降る時に銀山温泉に行って観たいわ、と家内は私に云ったりした。
そして私たちは、雪が舞い降る確率の多い今年の2月の中旬を選定し、
東京駅より大石田まで『つばさ』を乗車し、
銀山温泉に4泊して、街並み、そして付近を散策をした。
その後は、『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルに1泊宿泊し、
帰路は新庄駅より『つばさ』で帰京する5泊6日となった。
銀山温泉の『旅館 永澤平八』に宿泊滞在をしていた時、
談話室とロビーを重ね合わしたような大きな囲炉裏、隣室は和室となり、
色々な伝統工芸品などが置かれ、壁際には、著名人の色紙、写真が掲げられていた。
この中に、乙羽信子さんが銀山温泉の中心に流れる川の橋のふもとで歓迎を受ける2葉の写真、
そして『旅館 永澤平八』の女将との記念写真があった。
私はフロントの男性に説明を受けて、『おしん』の放送が終った後の熱狂ブームの中、
乙羽信子さんが招待を受けて、銀山温泉に來訪された、と知ったのである。
この後、私は『おしん』の概要も無知であったので、家内に教えてもらい、
初めてドラマの銀山温泉の関連を知ったのである。
この後、『最上川の船下り』は、25年ぶりとなったが、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に云ったりしていた。
この時の私の心情は、【冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。】と題し、
8回に及び投稿した中で綴っている。
【・・
私達は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。
この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。
船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。
案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、
この舟は出航した。
私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。
そして、案内人兼船頭さんの『真室川音頭』、『おしんの唄』などを四曲の唄声に、手拍子したり、
或いは周辺の案内を聴いたりしていると、時を忘れるかのように過ぎていく・・。
まもなく、舟下りの降船場に着岸し、私達は大きな建物の最上川リバーポートへの階段を上がった。
そして、一角に乗船前に撮影して下さった写真が掲載されていた。
私は夫婦の記念写真に瞬時に最適と思い、千円を支払った。
そして、私達夫婦としてお互いに微笑んだ珍しい記念写真で、
私は家内に見せながら、良き記念写真となったねぇ、と私は微苦笑しながら家内に云ったりした。
・・】
帰宅後、この旅の余韻か私は『おしん』に関して、少し興味を持ち、
ネットで色々と検索し、【YouTube】の動画のひとつのに、
圧倒的な感動をして、思わず涙を流れてしまったのである・・。
http
://www.youtube.com/watch?v=TmQ3qcedkcM&feature=related
☆【YouTube】Oshin 07 Sub Spanish.avi ☆
もとよりテレビ・ドラマの『おしん』の中のひとつの放送された内容である。
画面の最下段にあるスーパーはスペイン語が明記されているので、
スペインか南米の諸国でテレビ放送されたものかしら、と思ったりし、
どの国も貧しい人が多い人たちがいるので、このドラマに共感をする、と深く感じたりした。
もとより日本に於いてでも、1955(昭和30)年の頃までは、
私も含めて生活に困窮した人たちが多かったのである。
このようなこともあり、特にこのシーンは私の心に圧倒的にゆすぶられ、
私は熱い涙があふれたのである。
そして、改めて脚本家の橋田寿賀子さんに、敬意を重ねている。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村