序章 温泉滞在の選定は
私達夫婦は、家内の母を誘い、ここ3年に於いて、
年に数回温泉滞在旅行をしている。
私は自動車を所有できず、年金生活の身であり、
程々の価格で5泊6日前後の温泉滞在をしている。
こうした場合は、東京の郊外に住む私達は、
新聞の旅行の広告、駅前にある旅行会社のパンフレット、
そして旅行会社の月刊誌で旅行の選定をすることが多い。
旅行会社の主催に基づいて、
都心の数箇所に集合して、団体観光バスで、
現地の温泉地に直行するプランである。
観光周遊コースと違い、
気楽に現地の温泉観光ホテルまでバスに乗っていれば、
連れてってもらえるプランであるので、
家内の母のような高齢者が利用されることが多いのである。
観光ホテル滞在中は、それぞれ個室でゆったりと過ごし、
食事処で全員で、朝夕の食事を頂き、
好きな時に温泉につかり、
そして日中のひとときを自在に現地の観光地めぐりが出来るので、
60代、70代のご夫婦がこうしたプランを利用されることが多い。
、
私達夫婦は齢上のこうしたご夫婦と、
ときおり語り合いながら、人生の知恵をさりげなく享受させて頂き、
学んだりしている。
第1章 桐の薄紫色の花
5月18日(日)
家内と2時半過ぎに起床し、私達は4時40分に家を出て、タクシーで成城学園前に行き、
始発の電車で新宿に向かい、上野駅に着いたのは5時45分であった。
家内の母が千葉県の八千代市に住んでいるので、
待ち合わせ時間を6時10分としていた。
私達夫婦は家内の母と予定より早めに逢い、
喫茶店でコーヒーを飲んだ後、上野の集合時の7時10分前に行き、
指定のバスに乗り込んだ・・。
この後、新宿の第2集合場所に向かったのであるが、
御茶ノ水、水道橋、飯田橋の付近は、
日曜日の為には閑散として、新宿の都庁付近に早めに到着したのである。
私達夫婦は、最寄の集合場所は新宿であるが、
家内の母が高齢者に伴い、わざわざ上野駅まで出向いたのである。
新宿の集合時間であったならば、
自宅を始発バスの6時過ぎで充分に待ちあうのであるが、
こればかりは止む得ないと思っている。
新宿のビル街を8時過ぎ出た後は、
関越自動車道で北上し、上信越自動車道の甘楽PAで小休憩した後は、
松林、杉林の常緑樹の中に、
落葉樹の萌黄色、緑色、そして深緑色に染められた豊かな景観の中、
ときおり薄紫色の花が観られた・・。
私は車窓から注視しながら見つめていると、
下方に咲いているのが藤(フジ)の花で、空に向かって咲いているのが、
桐(キリ)の花と気付いたりである。
ともに薄紫色していたのであるが、
東京の郊外より一ヶ月遅い陽春かしら、
と名残りの春景を心に残ったのである。
黒姫、妙高高原付近にも数多くの桐の花が多く観られ、
やがて日本海の北陸自動車道の名立谷浜PAで昼食としたのであるが、
新宿から4時間足らずで到着したのは、
昭和の終わりの頃のJRで金沢、能登半島を旅した私は、
ただ速さに驚きである。
この後、富山ICで高速道路の北陸自動車道を降りて、
富山市内の中心部を抜けたところに小高い里山が観えた。
呉羽山と呼ばれている里山の頂上付近に、
滞在する観光ホテルが観え、周囲は樹木につつまれていた。
そしてチェック・インした後、
私は大浴場に身をゆだねたのは午後3時であった。
第2章 富山、そして呉羽の風土と文化
大浴場の湯は、肌がつるつるとなるようで、
心地よくご婦人の身であれば、なおのことよろしいかしら、
と余計なことを考えて、広いロビーで浴衣でいた。
そして壁面の一面に『富山の地名の由来』、
その左側に『呉羽の地名の由来』と題された解説書が展示され、
私は深く読み耽(ふけ)ったりした・・。
私なりに富山の解説を思い浮かべれば、
日本の言語の境界線は、糸魚川と古来から云われている。
そして、東西文化の境界線は越中の国の説が多いと思われている。
正月の雑煮は角餅は関東風、
味付けや言葉は関西風であり、
色々な生活様式で東西の要素が融合している。
その越中の中心部に呉羽丘陵があり、
東西文化の融合した越中を更に東西に分けているのが呉羽丘陵でもある。
現在では、呉羽丘陵を境とし、
富山県を呉東、呉西と分けられている。
奈良時代に於いて、こり地域一帯の行政を司っていた越中国府は、
現在の高岡市伏木におかれていた。
その古国府から見ると、現在の富山市は、
呉羽丘陵の外に当たる為、外山郷と呼ばれていた。
その後、天文元年に在地豪族の水越勝重が藤居山に城を築き、
外山城と呼ばれていたが、
この藤居山には、古くから真言宗の富山寺(ふせんでら)があり、
いつしか外山から富山になったと伝えられている・・。
そして呉羽に関して、私なりの解説の綴りを思いだすと、
能には『呉羽(くれは)』という演目があるが、
呉織(くれはとり)と漢織(あやはとり)という2人の美女が、
呉の国から渡来し、呉服の里に機織りを伝えたという話である。
『呉服』とは絹を作る人々のことで、
日本では『くれはとり』と呼ばれいる。
『はとり』は『はたおり』がつまって出来た言葉で、
『くれはとり』とは、中国から渡来した機織り技術者のことである。
奈良時代になると、それを音読みで『ごふく』と呼ぶようになり、
以来、絹の衣服『きもの』は、
『呉服(ごふく)』と呼ばれるようになった。
現在に於いては、呉羽山の西側が『呉羽(くれは)』、
東側を『五福(ごふく)』という地名になっている。
尚、古代には、この地域に大和朝廷に仕えた帰化系り機織り技術達が暮らしていた。
以上が、滞在したホテルりロビーに明示されて折、
私の記憶が間違いなければ、上記のように掲げられていた。
第3章 街中を散策すれば
5月19日(月)
昨夕は8時過ぎに寝付いてしまったので、
3時過ぎに深夜のロビーで私は煙草を喫っていた・・。
ホテルの夜間担当の方が、朝刊を取り込んで、新聞棚にファイル化していたのには、
驚きながら、ひとつの地方紙を私は取った・・。
『北日本新聞』を読み出したのであるが、
『越中文学館』の連載記事で、
たまたま今回は亡き作家の久世光彦・氏を取り上げて折、
私はこのお方の遺言のような、
昭和は遠くになりにけり、
と名言を思い出しながら記事を読んだのである。
氏は敗戦時の直前、昭和20年7月に、
ご両親の出身地の富山市に疎開され、
富山高校卒業まで、この地で過ごされた様子、
そして空襲を受けた時の鮮烈な思いを綴られているが、
このことは以前で読んでいたが、改めて氏の言葉を再読し、
富山市の空襲時の惨禍を私なりに重ねたりしていた・・。
朝食後、街中で美術館へ出かけるつもりであったが、
遅ればせながら月曜日は休館日が多く、
思い立つように岩瀬浜を散策することに決めた。
駅前からライトレールと云われているモダンな市電に乗り、
日本海に接している終点駅の岩瀬浜に下りた。
江戸時代から明治期の頃まで、北前船の往来で繁栄した岩瀬浜であるが、
私は回船問屋などの豪壮の館には興味がなく、
浜辺を歩き出し、左は日本海の洋上を眺め、
かっての北前船の往来時に思いを馳(はせ)たりした・・。
そして、右前方の黒松越しに立山連峰の景観を期待し、
数キロ浜辺を歩いたが、
やはりこの時節には無理な願いと理解し、
私は富山市に戻った。
そして、本屋に寄り、
中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)の新刊本を購入した後、
昼食に迷った末、居酒屋風の食事処に入った。
昨夕は観光ホテルで白エビの天ぷらを頂いたので、
刺身を期待し、入店したのであるが、
残念ながらなく、
地酒の『立山』を呑みながら、
ホタルイカの一夜漬け、ブリの刺身などを想像以上に美味しく頂けた。
そして私は機嫌よく、若手の男性店員に、
『一夜漬け・・やはり東京より、遥かに鮮度が良く・・
地酒を呑みながら頂くと、更に味が増しますよ・・』
と絶賛したりした・・。
その後、タクシーで観光ホテルに帰還した後、
大浴場で身体を清め、部屋の布団に浴衣で横たわりながら、
購入した本を数ページ読んでいると、
家内達が市内めぐりから戻ってきた。
私達夫婦は、家内の母を誘い、ここ3年に於いて、
年に数回温泉滞在旅行をしている。
私は自動車を所有できず、年金生活の身であり、
程々の価格で5泊6日前後の温泉滞在をしている。
こうした場合は、東京の郊外に住む私達は、
新聞の旅行の広告、駅前にある旅行会社のパンフレット、
そして旅行会社の月刊誌で旅行の選定をすることが多い。
旅行会社の主催に基づいて、
都心の数箇所に集合して、団体観光バスで、
現地の温泉地に直行するプランである。
観光周遊コースと違い、
気楽に現地の温泉観光ホテルまでバスに乗っていれば、
連れてってもらえるプランであるので、
家内の母のような高齢者が利用されることが多いのである。
観光ホテル滞在中は、それぞれ個室でゆったりと過ごし、
食事処で全員で、朝夕の食事を頂き、
好きな時に温泉につかり、
そして日中のひとときを自在に現地の観光地めぐりが出来るので、
60代、70代のご夫婦がこうしたプランを利用されることが多い。
、
私達夫婦は齢上のこうしたご夫婦と、
ときおり語り合いながら、人生の知恵をさりげなく享受させて頂き、
学んだりしている。
第1章 桐の薄紫色の花
5月18日(日)
家内と2時半過ぎに起床し、私達は4時40分に家を出て、タクシーで成城学園前に行き、
始発の電車で新宿に向かい、上野駅に着いたのは5時45分であった。
家内の母が千葉県の八千代市に住んでいるので、
待ち合わせ時間を6時10分としていた。
私達夫婦は家内の母と予定より早めに逢い、
喫茶店でコーヒーを飲んだ後、上野の集合時の7時10分前に行き、
指定のバスに乗り込んだ・・。
この後、新宿の第2集合場所に向かったのであるが、
御茶ノ水、水道橋、飯田橋の付近は、
日曜日の為には閑散として、新宿の都庁付近に早めに到着したのである。
私達夫婦は、最寄の集合場所は新宿であるが、
家内の母が高齢者に伴い、わざわざ上野駅まで出向いたのである。
新宿の集合時間であったならば、
自宅を始発バスの6時過ぎで充分に待ちあうのであるが、
こればかりは止む得ないと思っている。
新宿のビル街を8時過ぎ出た後は、
関越自動車道で北上し、上信越自動車道の甘楽PAで小休憩した後は、
松林、杉林の常緑樹の中に、
落葉樹の萌黄色、緑色、そして深緑色に染められた豊かな景観の中、
ときおり薄紫色の花が観られた・・。
私は車窓から注視しながら見つめていると、
下方に咲いているのが藤(フジ)の花で、空に向かって咲いているのが、
桐(キリ)の花と気付いたりである。
ともに薄紫色していたのであるが、
東京の郊外より一ヶ月遅い陽春かしら、
と名残りの春景を心に残ったのである。
黒姫、妙高高原付近にも数多くの桐の花が多く観られ、
やがて日本海の北陸自動車道の名立谷浜PAで昼食としたのであるが、
新宿から4時間足らずで到着したのは、
昭和の終わりの頃のJRで金沢、能登半島を旅した私は、
ただ速さに驚きである。
この後、富山ICで高速道路の北陸自動車道を降りて、
富山市内の中心部を抜けたところに小高い里山が観えた。
呉羽山と呼ばれている里山の頂上付近に、
滞在する観光ホテルが観え、周囲は樹木につつまれていた。
そしてチェック・インした後、
私は大浴場に身をゆだねたのは午後3時であった。
第2章 富山、そして呉羽の風土と文化
大浴場の湯は、肌がつるつるとなるようで、
心地よくご婦人の身であれば、なおのことよろしいかしら、
と余計なことを考えて、広いロビーで浴衣でいた。
そして壁面の一面に『富山の地名の由来』、
その左側に『呉羽の地名の由来』と題された解説書が展示され、
私は深く読み耽(ふけ)ったりした・・。
私なりに富山の解説を思い浮かべれば、
日本の言語の境界線は、糸魚川と古来から云われている。
そして、東西文化の境界線は越中の国の説が多いと思われている。
正月の雑煮は角餅は関東風、
味付けや言葉は関西風であり、
色々な生活様式で東西の要素が融合している。
その越中の中心部に呉羽丘陵があり、
東西文化の融合した越中を更に東西に分けているのが呉羽丘陵でもある。
現在では、呉羽丘陵を境とし、
富山県を呉東、呉西と分けられている。
奈良時代に於いて、こり地域一帯の行政を司っていた越中国府は、
現在の高岡市伏木におかれていた。
その古国府から見ると、現在の富山市は、
呉羽丘陵の外に当たる為、外山郷と呼ばれていた。
その後、天文元年に在地豪族の水越勝重が藤居山に城を築き、
外山城と呼ばれていたが、
この藤居山には、古くから真言宗の富山寺(ふせんでら)があり、
いつしか外山から富山になったと伝えられている・・。
そして呉羽に関して、私なりの解説の綴りを思いだすと、
能には『呉羽(くれは)』という演目があるが、
呉織(くれはとり)と漢織(あやはとり)という2人の美女が、
呉の国から渡来し、呉服の里に機織りを伝えたという話である。
『呉服』とは絹を作る人々のことで、
日本では『くれはとり』と呼ばれいる。
『はとり』は『はたおり』がつまって出来た言葉で、
『くれはとり』とは、中国から渡来した機織り技術者のことである。
奈良時代になると、それを音読みで『ごふく』と呼ぶようになり、
以来、絹の衣服『きもの』は、
『呉服(ごふく)』と呼ばれるようになった。
現在に於いては、呉羽山の西側が『呉羽(くれは)』、
東側を『五福(ごふく)』という地名になっている。
尚、古代には、この地域に大和朝廷に仕えた帰化系り機織り技術達が暮らしていた。
以上が、滞在したホテルりロビーに明示されて折、
私の記憶が間違いなければ、上記のように掲げられていた。
第3章 街中を散策すれば
5月19日(月)
昨夕は8時過ぎに寝付いてしまったので、
3時過ぎに深夜のロビーで私は煙草を喫っていた・・。
ホテルの夜間担当の方が、朝刊を取り込んで、新聞棚にファイル化していたのには、
驚きながら、ひとつの地方紙を私は取った・・。
『北日本新聞』を読み出したのであるが、
『越中文学館』の連載記事で、
たまたま今回は亡き作家の久世光彦・氏を取り上げて折、
私はこのお方の遺言のような、
昭和は遠くになりにけり、
と名言を思い出しながら記事を読んだのである。
氏は敗戦時の直前、昭和20年7月に、
ご両親の出身地の富山市に疎開され、
富山高校卒業まで、この地で過ごされた様子、
そして空襲を受けた時の鮮烈な思いを綴られているが、
このことは以前で読んでいたが、改めて氏の言葉を再読し、
富山市の空襲時の惨禍を私なりに重ねたりしていた・・。
朝食後、街中で美術館へ出かけるつもりであったが、
遅ればせながら月曜日は休館日が多く、
思い立つように岩瀬浜を散策することに決めた。
駅前からライトレールと云われているモダンな市電に乗り、
日本海に接している終点駅の岩瀬浜に下りた。
江戸時代から明治期の頃まで、北前船の往来で繁栄した岩瀬浜であるが、
私は回船問屋などの豪壮の館には興味がなく、
浜辺を歩き出し、左は日本海の洋上を眺め、
かっての北前船の往来時に思いを馳(はせ)たりした・・。
そして、右前方の黒松越しに立山連峰の景観を期待し、
数キロ浜辺を歩いたが、
やはりこの時節には無理な願いと理解し、
私は富山市に戻った。
そして、本屋に寄り、
中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)の新刊本を購入した後、
昼食に迷った末、居酒屋風の食事処に入った。
昨夕は観光ホテルで白エビの天ぷらを頂いたので、
刺身を期待し、入店したのであるが、
残念ながらなく、
地酒の『立山』を呑みながら、
ホタルイカの一夜漬け、ブリの刺身などを想像以上に美味しく頂けた。
そして私は機嫌よく、若手の男性店員に、
『一夜漬け・・やはり東京より、遥かに鮮度が良く・・
地酒を呑みながら頂くと、更に味が増しますよ・・』
と絶賛したりした・・。
その後、タクシーで観光ホテルに帰還した後、
大浴場で身体を清め、部屋の布団に浴衣で横たわりながら、
購入した本を数ページ読んでいると、
家内達が市内めぐりから戻ってきた。
