夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『節分』の数多くの品で、年金生活の私が何よりも驚きながら、思わず微苦笑させられた品は・・。

2011-02-03 20:07:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
『節分の日』であるので、日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求めた一袋100粒ぐらい入った福豆を、
夕暮れの時に、家内と煎茶を飲みながら食べたりした。

私は齢相応の66粒は多すぎるので、6プラス6で、12粒ばかり頂だいたのであるが、
家内はお菓子代わりに、残りを食べたりした。

私は定年退職になると、齢を重ねるたびに人出の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手となり、
自宅で豆まきをする元気もなく、毎年このようなことが多いのである。

それにしても、スーパーの『節分』特選コーナーで見た限りあるが、
数多くの品があり驚かされている。

私が定年後で最も驚ろいたのは、昨年に初めて買い求めた『福豆』のひとつであった。

このことは、昨年のこの日の出来事であった・・。


私は歯の治療を10時に駅前の歯科医院に予約していたので、
9時を少し過ぎた頃に出かける前、家内にから、
節分用の『恵方巻』と『豆』を買い求めるように依頼されたのである。

晴れ時々曇りと予測されていたが、私が川べりの遊歩道を歩いた時は、
曇り空で6度前後であったので、少し寒く感じられていたが、
残り雪も見られて、凛とした情景にふさわしい、と私は微笑んだりしていた。

歯の治療を終えた後、駅前のスーパーに行ったのであるが、
店内は『節分の日』にふさわしく、「福 節分豆」はもとより、
「福 恵方巻」が五種類ぐらい、「福 いわし」、「福 節分そば」などもあり、
そして「鬼ごし」の日本酒の銘柄も販売されて、私は苦笑したりした。

節分の豆を買い求める為に、コーナーに寄ったが、少なくとも10種類以上が置いてあり、
私は迷ったりしたのである。
そして右側を何気なしに見ていたら、ひとつの品を手に取り、
《 出羽三山
    羽黒山伏祈願
           今年も まめで幸せに 》
そして左下には、
《 小袋ごとまいて かたづけ簡単!! 》
と明記されていたので、プラスチックの小袋が数多く入っていて、
それぞれの小袋の中には、可愛らしく10何粒が入っている・・。

http://www.denroku.co.jp/trivia/setsu_goods.htm
☆ でん六 節分企画商品 出羽三山 羽黒山伏祈願 ☆


この小袋福豆で我が家の居間の板の間、和室の畳の上などに蒔(ま)いても、
食べる時は小袋を破れば頂けるので、衛生的である。

その上、お手玉代わりに遊べるし、日頃から苦手な方がいたら、鬼はそ~と、と叫びながら、
5袋ぐらいの小袋を投げつければ、それなりの迫力があり、
鬼だって思わず降参となり退散するに違いない、と私は確信し購入したのである。

そして、平素の一合枡に入れた豆まきより、百倍楽しいと思いながら、帰宅したのである。


このような戯(たわむ)れは、私の小学生からの悪い癖で、
齢ばかり重ねた今でも変わらないことが多く、独りで苦笑したりしりしたのである。


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『節分の日』、いじけていた私なりの幼年期の頃を思い馳せながら・・。

2011-02-03 12:40:38 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
午前中のひととき、『節分の日』であったので、

【 『節分の日』、つたない私なりの現役サラリーン時代の頃を思い馳せれば・・。 】

と題して、私の現役のサラリーマンだった時代の『節分の日』の思いでの投稿文を綴った。

この後、私の幼年期の頃は、どうだったのかしら、と思いを馳せたりした・・。


私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後に妹がふたり生まれ、
祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、
激しく叱咤されたりした。

祖父は幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれたた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。


こうした中で、私が少学校に入学する1951(昭和26)年の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。


この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。

神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。

そして、この日の『節分の日』に関して、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を三割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の住んでいた家から、少なくとも300メートルは離れていたが、
家の中で居ても充分に聴こえたのである。

『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に云ったりしていた。

我家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。

夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって云ったりしていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私達に云った。

私は、6つだけかょ、と云いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
おまけと云いながら、こっそりとふたつばかり余計にとった。
そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。

このような祖父、父達に囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、我家は没落をしはじめた・・。


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『節分の日』、つたない私なりの現役サラリーン時代の頃を思い馳せれば・・。

2011-02-03 08:15:27 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
早朝にカレンダーを眺めていたら、『節分の日』と朱字で明示されて、
私は苦笑したのである。

私の住む地域に於いては、
古くから煎(い)った豆をまき、その人なりの年齢の数だけを食べると、
邪気を追い払い、病気にもならない、と伝えられている。

私は年金生活の高齢者2年生の体力も衰えた身であり、
齢を重ねるたびに人出の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手となり、
自宅で豆まきをする元気もないのである。

せめて、日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求め、
私は夕食の時、66粒は多すぎるので、6プラス6で、12粒ばかり頂く予定である。

このように思ったりしていると、私の現役のサラリーマン時代の頃が思いだされた・・。
10数年前の頃だった。


私はある民間会社の中小業に勤め、サラリーマンで数多く人と同様に多忙な身であり、
特に40歳前後は、情報畑に在籍し、システム開発と運営業務が重なり、
睡眠時間を削りながら、奮闘していた時であった。

この『節分の日』には帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。
そして、今日は終電にも乗らずに良かったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

私達夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭であり、
私は疲れた表情で冬コート、スーツを脱いで、ネクタイをはずし、
ワイシャツ姿で、いつものように洗面所で顔を洗ったりした。
この後、私はパジャマに着替えて、冬のガウンをはおると、深夜の12時近かった。

家内が
『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』
と云った。

私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、
と素直に何かしら納得出来なかった。

『今からでも、遅くないよ・・』
と私は云って、私は雨戸を開けた。

『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で、庭に向って連呼した。

周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダのガラス戸が開いた。

XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうようなしぐさが、私なりにぼんやりと解かった。

しかし、良きことの行事に対しては、
ご近所の皆様からは、幸いにクレームがなかったと、
私は後日に、家内から聴いたりした。


このようなことを思いだし、過ぎ去ってしまえば、あんなことがあったよなぁ、
と独りで微苦笑したりしている。


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