私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昼に、このサイトに於いて、
【『ビートルズ初演奏から半世紀』、ビートルズの苦手な私でも、『イエスタディー』に感銘を受けて・・。】
と題して、投稿した後、
ビートルズが世に出る前の頃は・・とぼんやりと思ったりしたのであった。
そして私の高校生の頃は、文学、映画に熱中していたが、
音楽のポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。
私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、
確か高校2年頃(1962年)であったと思う。
ラジオから甘くせつない声がながれてきた。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。
中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりしていたが、
何となく甘くせつなく、色合いのある声が聴こえ、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。
レコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れた・・。
その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。
私が50代になった時、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。
そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。
その後、たまたま私はあるレコード会社に勤めていたので、
社内の洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、
セット物のCDを頂いた。
アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わっていた。
そして、CD4枚組であった。
私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、
と解説書を精読した。
《・・
・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・
・・》
と綴られていた。
ときには、甘くせつなく、色合いのある唄声のコニー・フランシスを聴いていると、
私にとっては、中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。
そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。
私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、
全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、
と教えられたりした。
この当時としては、《カラーに口紅》という意味合いとして、
少年心に、口紅を付けるお姉さんは・・ワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。
コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、
まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学校の頃の大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、そして夢に酔い、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。
私はワンピース、ツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、歳を重ねた今でも、このような女性に対しての思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。
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と題して、投稿した後、
ビートルズが世に出る前の頃は・・とぼんやりと思ったりしたのであった。
そして私の高校生の頃は、文学、映画に熱中していたが、
音楽のポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。
私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、
確か高校2年頃(1962年)であったと思う。
ラジオから甘くせつない声がながれてきた。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。
中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりしていたが、
何となく甘くせつなく、色合いのある声が聴こえ、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。
レコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れた・・。
その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。
私が50代になった時、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。
そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。
その後、たまたま私はあるレコード会社に勤めていたので、
社内の洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、
セット物のCDを頂いた。
アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わっていた。
そして、CD4枚組であった。
私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、
と解説書を精読した。
《・・
・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・
・・》
と綴られていた。
ときには、甘くせつなく、色合いのある唄声のコニー・フランシスを聴いていると、
私にとっては、中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。
そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。
私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、
全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、
と教えられたりした。
この当時としては、《カラーに口紅》という意味合いとして、
少年心に、口紅を付けるお姉さんは・・ワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。
コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、
まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学校の頃の大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、そして夢に酔い、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。
私はワンピース、ツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、歳を重ねた今でも、このような女性に対しての思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。
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