夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

洋楽1960年前後、私が秘かに魅了されたコニー・フランシス・・ときおり思いを馳せて・・。

2011-02-10 17:32:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昼に、このサイトに於いて、
【『ビートルズ初演奏から半世紀』、ビートルズの苦手な私でも、『イエスタディー』に感銘を受けて・・。】
と題して、投稿した後、
ビートルズが世に出る前の頃は・・とぼんやりと思ったりしたのであった。

そして私の高校生の頃は、文学、映画に熱中していたが、
音楽のポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。

私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、
確か高校2年頃(1962年)であったと思う。

ラジオから甘くせつない声がながれてきた。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。

中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりしていたが、
何となく甘くせつなく、色合いのある声が聴こえ、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。
レコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れた・・。

その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。


私が50代になった時、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。

そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。
その後、たまたま私はあるレコード会社に勤めていたので、
社内の洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、
セット物のCDを頂いた。

アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わっていた。
そして、CD4枚組であった。

私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、
と解説書を精読した。

《・・
・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・
・・》
と綴られていた。

ときには、甘くせつなく、色合いのある唄声のコニー・フランシスを聴いていると、
私にとっては、中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。
そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。


私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、
全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、
と教えられたりした。

この当時としては、《カラーに口紅》という意味合いとして、
少年心に、口紅を付けるお姉さんは・・ワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。


コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、
まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学校の頃の大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、そして夢に酔い、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。

私はワンピース、ツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、歳を重ねた今でも、このような女性に対しての思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。


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『ビートルズ初演奏から半世紀』、ビートルズの苦手な私でも、『イエスタディー』に感銘を受けて・・。

2011-02-10 12:05:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
午前中のひととき、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、

《 ビートルズ初演奏から半世紀 》

という見出しがあり、私はビートルズが初演奏から50年も過ぎたのか思い、
何事も好奇心を失くしたらこの人生は終わりだ、と信条している高齢者2年生の私は、
クリックした。

そして、【時事通信】から配信された記事のひとつであり、

《 ビートルズ初演奏から半世紀=リバプールで記念行事―英 》

と題された記事と解かり、私は読んだりした。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
         ビートルズ初演奏から半世紀=リバプールで記念行事―英

【ロンドン時事】
ビートルズが英リバプールにあるライブ会場「キャバーンクラブ」で初演奏を行ってから、
9日でちょうど50年。

伝説のロックバンドが「名声を確立した場所」(BBC放送)とされるクラブでは同日、
記念イベントが開かれ、多くのファンが集まった。

ビートルズは1961年2月9日、キャバーンクラブの昼のライブに初登場。
以来63年8月までに計292回にわたり演奏を行い、
「ビートルマニア」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。 

時事通信 2月10日(木)6時48分配信
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


ビートルズの数多くの名曲の中に、『イエスタディー』がある。

確か1966年(昭和41年)の初めの頃だったと思われるが、
私はこの曲を知ったのは、妹がビートルズを熱愛して、
数多くのレコードを買い求めて、盛んに聴いていた。

この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしていて、
食寝を忘れるくらいに映画作品を映画館で観たり、
小説の数多くの作品を読みふけっていたので、余り音楽には興味がなかった時だった。

妹が応接間にあるステレオで、
ビートルズを大きな音量で聴いていても、
うるさいと感じながら、騒音のような音楽としか聴こえてこなかった。

ある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、と直感した曲が、
この後に、妹から曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。

その後、妹はビートルズが来日公演の時、
学校では禁止されていたが、無視して何とか日本武道館に行って、
公演には満足した、と私に云ったりしていた。

このように妹は1948(昭和23年)の秋に生を受けた団塊世代で、
高校の初めの頃であったから、何事も一番感化されやすい時であるので、
音楽面はたまたまビートルズに熱中した、と思われる。

私は二十歳を過ぎたせいか、或いは映画・文学に熱愛していたので、
ビートルズからは音楽の影響は受けなかった。


その後、私が1970年(昭和45年)にある企業に中途入社した直後は、
音楽のポピュラーとして影響を受けたのは、
サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』、『明日に架ける橋』等の一連であった。
この数年前に、『サウンド・オブ・サイレンス』の名曲に影響があったせいか、
熱愛のような何度も聴いたりしていた・・。

私は音楽に関しては楽譜も読めない身でありながら、もとよりメロディーも大切であるが、
このアーティストは、何を伝えたいのか、という命題を重要視していたので、
作詞を優先するひとりである。

まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、
百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには魅了させられた。
ある程度の年齢になり、若き日の青春時代を表現した『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、友人達に絶賛したりした。


このような時に、ビートルズの『イエスタディー』(1965年)が甦(よみがえ)ってきた。
そしてビートルズのメンバーが、
あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という以外の言葉は見つかず、唖然とさせられたのである。

この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手も多く取り上げていた。

私は、少なくとも10人以上の歌い手のレコード、カセット、
そしてCDで聴いている。


こうした間に、映画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、
この曲が流れた。
私はこの感覚には心まで震(ふる)えながら、そして感銘した・・。

映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、
効果のある見本でもある。

このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、
そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。

私はビートルズからは影響は受けてはいないが、
このたった一曲であるが『イエスタディー』の曲だけは、
最初に聴いてから、ここ40数年は絶賛しているひとりである。


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その昔50年前の頃、私が中学生の時代に、富士山を下山した時、死を感じた時・・。

2011-02-10 09:47:44 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私が中学2年生の時、1959(昭和34)年であったから、ひと昔のことである。
そして、時代の変貌が激しく変わってきたので、ふた昔かしら、と微苦笑した・・。

この当時も私は東京郊外の調布市に住んでいたが、
数年前の小学生の高学年の頃から、私の住む地域に於いては、
田畑、雑木林、竹林などが急速に、新興住宅街に変貌した。

そして最寄の駅の商店街も発展をし、クリーニング店も数店でき、
それぞれの家に巡回し、洗濯物の収集、仕上がり品の配達がされた時代のはじまりであった。

こうした中、ある若きクリーニング店の経営者のひとりが、店員さんを数名と共に運営し、
この若きクリーニング店の経営者が、我家にたびたび来宅し、
親交を深めたのである・・。

次兄が高校一年で山岳部に所属し、山歩きをはじめた頃であった。
そして、クリーニング店の若き経営者が、ある日に次兄と、
山のあれこれを話していた時、富士山の話題になった。

そして、このお方は実家に近い御殿場の高校に通っていた時代に、
ボッカと称した荷上げてのアルバイトをして、
幾たびか夏季の時に、御殿場の新2合目より山頂まで登り下りをしていた、
と話されたのである。

そして、夏季の時だったならば、富士登山を何度も体験をされた人に案内されれば、
登山の未経験の私でも大丈夫、と談笑されたので、
このお方の言葉に甘えた上、そして導かれながら、次兄、私が富士山に登頂することとなった。


http://gotemba.jp/fuji/gotemba.html
☆富士山 御殿場 ホームページ☆

この当時の1959(昭和34)年の頃は、御殿場口、須走口からの登山口は、
私の記憶に間違いがなければ、夏季の登山シーズンに限り、
御殿場駅から新2合目まで路線バスがあった。

そして、登りは須走コース、下りは御殿場コースと決め、
このお方に導かれて、次兄と私は歩き出したのである。

おぼろげな記憶をたどれば、
確か夜の6時過ぎに須走口の新2合目から登りはじめて、
山頂の早朝時を目指したのである。

私は山歩きはまったくの未経験者であったので、ひたすら付いて歩いているうちに、
何とか無事に山頂にたどり付いたのである。
そして、ご来光の時には少し過ぎていたが、快晴に恵まれ、
7月下旬でも寒いくらい涼しかったのが、心の片隅に残っている。

まもなく次兄が気分がすぐれない、と云ったりしたので、
このお方から、高山病だなぁ、と云われて、少し安静したのである。

私は山岳部に所属してる次兄が高山病になり、
これまで低山の高尾山をハイキングした程度の私が、何ともなく山頂に登りつめた達成感で高揚し、
私は次兄の顔を見ながら、微苦笑したのである。
しかし私としては、無意識で無邪気に登りつめたのが、実情であった。

この後、次兄と私は、お互いに記念写真を撮ったりし、
このお方に導かれて、私達は気分爽快で山頂の周辺を散策した。


下山の時、御殿場コースを下りはじめた時、
私としては、急斜面で黒い砂粒の厚く積もった砂走りと称された下山道で、
不安であったが、10分ぐらいすると、5歩、6歩進めて、
足元でくい止める方法で馴れた感じであった。

その後、9合目を下って、まもない時、
私は5歩、6歩進めて、足元でくい止めるようとしたが、
足元が砂で滑り、止まらなかったしまった・・。

私は急斜面を走るかのように下りはじめ、
足元を踏ん張ろうとし、幾度も試みたがくい止めるこどできなかった・・。
やむえず横にコースを取れば、斜面は並行となり、もとより下ることはないので、
咄嗟(とっさ)に横に方向したが、下山道から外れて、
黒い砂粒から爆発時の岩の痕跡となった黒い岩の大小が数々観られたのである。

こうして私は、斜面の横を自身の意思とは違い、踏ん張って止めようとしたが、
一向に止まらず、失速し、私はあわてふためいたのである・・。

そして、動顚したせいか、何故か下りに進路を変えたのである。
足速は益々早くなり、失速しながら下った時、
死ぬこととは、こうしたことなのか、
とスローモーションのように実感しながら下ったのである・・。

まもなく、私は大きな黒い岩につまずいて、
背負い投げを受けたかのように、地面に叩きつけられたのである。
そして、横に転がりはじめ、わずかな草の群生したひと株を、私は握り締めたのである。

そして、上の方から、このお方と次兄が、
大丈夫か、という叫び声を、私はぼんやりと聴こえたのである・・。

私は呆然としながら、ノロノロと起き上がると、
何故か6畳ぐらいの平地で、草がわずかに生えていたのである。
そして下る方向の数メートル先は、切り落とされたかのような崖となり、
遙か彼方の下界となっていた。

そして私は自分の手足、身体をおそるおそる触れ、
軍手を外し、手は砂粒と黒い岩でわずかに切り、穿(は)いていたバスケット・シューズは所々擦り切れ、
おでこに少しかすり傷ぐらいであった。


この後の私は、このお方と次兄に守られるように下山をふたたび始めて、
このお方の知人が8合目で山小屋を経営しているので、
このお方が、少し休息しょうと、この山小屋に寄ったのである。

私達3人は、お茶を頂ただいたのであるが、
『先ほど・・上の方で・・もんどりひっくり返って転げたひとりを見たが・・
ありやぁ・・死んだよ』
と山小屋の主人は、このお方に云ったりしていた。

『あのぅ・・叩きつけられて・・転んだのは・・僕です・・』
と私は元気のないかぼそい声で云った。

『お前さんだったのかぁ・・よく助かったなぁ・・
岩に足を取られて・・もんどり返った時・・
偶然に俺は見ていたが・・あれで死んだと思ったょ・・
まして、その先は、千メートルぐらいの崖下となっているし・・』
と私は山小屋の主人に教えられて、
私は改めて恐怖で、少し震えたのである・・。


帰路、電車の空いた中、
『XXちゃんが・・転げ落ちた時・・
俺・・アンタのお母さんに・・何てお詫びしょうか・・と思ったよ・・』
とこのお方は、初めて安堵した表情で、私に云った。


私は後年、大学時代に於いて中退するまで、ワンダーフォーゲル部に所属し、山歩きをしたりしたが、
急激な下り道は、この富士山の恐怖の体験したせいか、いつまでも苦手となった。

その後、このお方とは、私達が住む地域も住宅の密集地となり、
50年数年過ぎた今、商域もかけ離れているが、
私が家内と駅前に出かけた時などで、
偶然にお逢いした時、私は懐かしげに私は感謝の心で挨拶をしている。



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