夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『お子さまのケータイに あんしん あんぜんを』、高齢者の私は携帯電話の広告に見惚れて・・。

2011-02-11 22:14:47 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、

《 お子さまのケータイに あんしん あんぜんを 》

と明題されていたので、携帯電話のことだよねぇ、と思いながら、
恥ずかしながら携帯電話が使えず、所有していない私は、
遅ればせながら、お勉強だ、とクリックした。

http://www.yomiuri.co.jp/adv/docomo_anshin/
☆【YOMIURI ONLINE】 <== 
     NTTドコモ 《 子どもを守るために「あんしん・あんぜん」なケータイ利用 》☆

このような画面がでてきて、お子さま用の携帯電話の広告であるが、
誰でも解かりやすいように、優(やさ)しく解説されていると思いながら、
こっそりと1時間ばかり読んだりしたのである・・。


こうした私は思いは、このサイトに於いて、
【 高齢者2年生の私、『携帯電話』と云われても、遠い世界のような出来事と思いながら・・。 】
と題して、過日の1月16日に投稿したばかりで恐縮であるが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者2年生の66歳の身であり、
2004(平成16)年の秋に民間会社を定年退職した身であるが、
恥ずかしながら携帯電話が使えないので、この広い世の中で保有していない稀(まれ)な国民である。

まして昨今、携帯電話はスマートフォン、パソコンはスマートパッドの時代になります、
と何かの雑誌で読んだりすると、遥か遠い世界のような出来事と思ったりしている・・。

一昨日、駅前の商店街に家内から依頼された買物を済ませ、
歩いていた時、『携帯電話』の販売店の看板が見えたので、立ち止まったのである。

いずれ私は体力も更に衰え、携帯電話の初級編のような若葉マークの機能のある音声、
そして自分の位置が解かる機能が必要となる、と思ったりしていたのである。

或いは私はディスクトップのパソコンで、殆ど毎日ネットのニュース、ブログの投稿文を送受信しているが、
国内旅行の一週間以上の旅の時、
現在は所有していないが、持参したノートバソコンで、旅先から簡単にデーター送受信ができないかしら、
と秘かな野望を思案していたのである。

このような思いが昨今の私の心の片隅にあったので、ご教示を願いたい、と入店したのである。


うら若き女性の販売員の方がたったひとり店内に、
顔のメイク、ヘヤー・スタイル、容姿、爪のメイク・・など、
若き女性の向けのファション誌の表紙で見たような方で、
そして香水の匂いを感じ、私は驚いたのである・・。

この商店街の近くには都立の高校、音楽専門学校、そして女子大学もあるので、
こうした携帯電話の購買層を配慮して、あこがれの素敵なお姉さん・・
ファション・モデルのような方であった。

私は上(うわ)ずった声で、
『携帯電話を使ったことのない身ですが、
電話連絡で出来て、外出して迷子にならないように自分の位置を自宅に解かるような機能・・
携帯電話はありますか・・』
と私は余りにもお洒落な若き販売員の方に切り出した。

この若き販売員の方は、最初は驚いた表情をしていたが、
私の要望を的確に判断して、
NTTドコモの携帯電話のカタログの中から、提示してくれた。

そして、FOMAデータ通信のカタログで説明を受けたりした。

私は自身が使用すると思われる時間などを説明すると、
余りにも携帯電話の使用料金、そしてデータ通信の使用料金が廉いので、
確かに私は世間から取り残されている、と実感させられたのである・・。


私は1969(昭和44)年に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ時、
汎用のコンピュータの端末機に向かい、JIS認定のキー・ボードで、
作成したプログラムを入力したりしていたのである。

その後、民間会社に中途入社して、情報畑で20数年ばかり奮闘し、
その後は管理畑に移動し、パソコンも使用していたので、入力はJIS認定のキー・ボードで、
定年退職後もバソコンを愛用しているので、40年となっている。


この間、確か退職する10年前の頃の1994(平成6)年の頃は、
私はあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この当時は職場の机上には、ひとり一台のプシュホンの電話があり、
各部署の数台のパソコンで電子メール、
或いは表計算のソフトを使用して管理表を作成していた。

そして一部の営業部隊、外部と頻繁に交渉する人だけが、携帯電話を職務として利用していた。

思い浮かべれば、携帯電話の着信音がベルのように鳴り、
電話連絡があると気付き、携帯電話を取り上げて、職場の片隅、通路などで会話していた。

この後は、若者を中心に着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディとなり、
若者を中心に急速に普及していた。


私は1999(平成11)年の初春に、レコード業界の各社リストラ旋風の中、
出向となり、ある物流情報会社に定年退職まで勤めた。

この中のひとつの職場は、音楽のCD、DVDなど商品を管理する商品センターであり、
CD、DVD販売店からの日々の受注により、出荷したり、或いは返品を受けたり、
製造会社より入荷したりする処であった。
もとより音楽商品は、それぞれ一枚一枚が激変し、多品種であり、曜日、季節の変動も加わり、
現場は多忙であった。

私はこうした商品センターに、センター長はじめ正社員4名と共に、
男性の20代の契約社員10名、パートの女性120名前後の中で、奮闘したりしていた。

こうした職場であったので、私は携帯電話が職務上で必要でなかったので、
世の中は誰しもが携帯電話を保有するようになった時代でも、
私は携帯電話を覚えることなく、パソコンで電子メールを大いに活用していた。


私達夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭であり、
こうして定年退職後、携帯電話に興味もなかったので、もとより教えてもらう機会もなく、
結果としては私達夫婦は携帯電話の使い方が解からないので、保有していない・・。


最も私達夫婦は、携帯電話がなくとも、これといって不便と思ったのは数回限りである。

2004(平成16)年の秋、家内の父が亡くなる1カ月前頃から、
家内の母と家内は、交代で入院先で看護をしていたが、
連絡確認が遅れた時であったりした。

この後、3年過ぎた頃の2007(平成19)年に、
これといって不便を感じていないが、
ある程度の老後になると、やはり必要なのかしら、と私共は話し合ったりしている。

この当時、読売新聞の日曜版に於いて、【Y&Y 旬】の記事で、
【持たせて安心 わが子の安全】
という特集記事があり、読んだりしたからである。

無断であるが、記事を引用させて頂く。

《・・
子供が被害者になる犯罪や事故が後を絶たない。
この為、子供に持たせる防犯グッズへの関心も益々高まっている。

・・子供の現在地を把握するために、
GPS(全地球測位システム)を活用した商品も増えている。

KDDI(au)は、『ジュニア携帯』を3月中旬頃に発売する。
電源が切れたり防犯ブザーが作動したりすると、
自動的にカメラでその場の様子を撮影してメール送信し、
GPSで把握した位置情報をその後の足取りを1分ごとに保護者等に通知する機能が付いている。
価格は、1万円前後。
・・》

このような記事であったので、私の10年後は体力は衰えるので、
このような携帯電話をたえず外出の時は持ち歩くのが想像できる、と思ったりしたのである。


私ひとりで駅前まで散策し、本屋に寄ったりした後、
コーヒーショップの『ドトール』で購入した本を煙草を喫いながら読んだりしている。

或いは都立の大きな植物公園に散策に行ったりした時、
隣接した寺の近くの蕎麦屋で食事をしたりする。
笊蕎麦(ざるそば)を頂く前に、お酒を注文する・・。

店員さんが50代前後の女性で私が魅了された時、
『お姉さん・・お代わりね・・』
と私は壱合の徳利を指すと思ったりしている。

このような情景が家内が自宅のパソコンで見て折、
『早く・・家に戻ったら・・』
と家内の声が聴こえたりする。

このような事を10年後の私を想像していたが、
昨今このような事を現に私は行っているので、
さて全ての私の出来事が逐次撮影されたことを思えば、何かしら私は笑ったりしている。


この後、これまでの間は、これといって携帯電話がなくとも不便とも余り感じたことがなく、
電子メールは家でパソコンに向かって、JISのキーボートで綴り、
発信すれば良いと思ったりしている。

私は頑固な性格か、
携帯電話でどうでもいいようなおしゃべりする暇があったら、
言葉、心の勉強として本の1冊でも読みなさいと思っているのが昨今である。


このように感じたりしていたが、私はボケないうちに携帯電話の初級編を覚え、
現世に於いては携帯電話は必要品だよねぇ、と微苦笑したりしている・・。
・・】

このような思いで過ごしている昨今の私は、
携帯電話に関しては少しばかり関心を持ちはじめ、
今回のたとえ広告の記事でも学んだりしているのである。

しかし、齢ばかり重ねた私は、幾度も読みながら、何とか理解でき、
『こうしたことも・・できるんだぁ・・すごい世の中になった・・』、
と心の中で呟(つぶ)きながら、微苦笑したりしている。


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東京の郊外は、霙(みぞれ)が降り、ときおり小雪が舞い降り、私は戸惑いながら・・。

2011-02-11 12:00:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夕、NHKの天気情報を視聴していたら、
11日から12日に於いて、東京の都心でも雪が降る、と報じていた。

私は調布市の片隅に住み、世田谷区と狛江市の隣接した地域であり、
過ぎし8日の火曜日の夜に、小雪が予測されていたが、
霙(みぞれ)が降り、少し地面は白くなったが、この後は雨となり、消えうせてしまった。
そして、私の住む地域では、初雪が遠のいたのである。

昨夜の11時過ぎに小雨が降りだして、朝に目覚めると淡い雪景色かしら、
と秘かに思ったりしたが、
朝の5時半過ぎに、洗面所から玄関庭を眺めたら、霙が降っていた。

その後、ときおり小雪が舞い降りるが、地表は黒い土が湿り気を帯びている程度である。


先ほど、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
《 東京でも大雪予想、12日にかけ降雪5センチ 》
と題した記事を見つめて、クリックした。

無断であるが、転載させて頂く。

《・・
低気圧の接近に伴い、東京地方でも12日にかけ、大雪となる見込み。

気象庁によると、11日は昼前から広範囲で雪が降り、12日朝にかけて降り続くという。

12日は日中、いったんやむものの、午後には雨か雪になると見込まれている。

12日午前6時までの24時間に予想される降雪量は、
いずれも多いところで多摩西部で10センチ、その他の地域で5センチとなっている。

(2011年2月11日08時55分 読売新聞)
・・》
このように報じられている。


今年の日本海沿いの数多くの地域に於いては、
記録的な豪雪となり、不幸にして亡くなわれた方はもとより、
多くの方が雪に悩まされて雪害の日々を過ごされている中、
はなはだ不謹慎であるが、関東地方の南部では昨年の12月中旬より、わずかな小雨が降った程度で、
空気が乾燥して風邪が流行って、困苦される方も多いのである。

高齢者2年生の私は、こうした乾期の中で気力で頑張ってきたのであるが、
力尽きて風邪気味となったりした。

このような思いを重ねたりすると、
公共交通機関に影響のないぐらいの数センチの積雪を待ち焦(こ)がれてしまう。

そして私は現役時代のサラリーマンの時に、
「今・・頑張らなくて・・いつ頑張るの・・」
と自身を叱咤激励しながら、長時間勤務の連続に耐えてきたことを思いだし、
「今の時節に・・雪が降らなくて・・いつ降るのよ・・」
と私は空をみつめながら思ったりしている。


こうした身勝手な私の根底には、
小庭にある紅梅が、遅ればせながら10数輪咲きはじめているので、
紅色の花びらに淡き白雪が舞い降る情景が、何事にも変えがたいと、
つたない私は期待しているからである。


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人生は『七転八起』と格言された名言の前、つたない高齢者の私でも微苦笑させられ・・。

2011-02-11 08:36:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳であるが、
ときおり、過ぎ去った日々を振り返ることがあり、
あの時に、もしも何かがあったならば、私達夫婦の今の生活も大幅に狂っていた、
と思う時がある・・。

私は中小業の音楽業界のあるレコード会社を定年退職後、
まもなくブログの世界を知り、余すことのないように幼年期から現役時代、
そして年金生活の思いを発露し、綴ってきた。

私は綴る時は、自身の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切なのである。
従って、数多く綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡、
と云っても差し支えない。


私は幾たびも綴ってきたが、1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受け、
農家の児として育てられ、小学2年に父が病死され、
その後は一年過ぎた頃に祖父が死去した後は、困窮した生活の時期もあったが、
母の孤軍奮闘に寄り、何とか世間並みの生活が出来るようになった。

私は長兄、次兄の優等生であったので、
何かしらいじけた劣等生で小・中学時代を過ごした。

高校生になると、長兄、次兄の影響のない高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなり、
普通の生徒で、多少個性が強い程度であった。

大学を中退したのは、東京オリンピックの頃で、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をし、
新人の小説コンクールの最終予選の寸前で3度ばかり落選したりしていた。

30代に普通の家庭が築けるの、と素朴な叱咤を叔父さんから云われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

結果として、安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
ある音響・映像メーカーの大企業に中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の春であり、25歳の時であった。

その後、この大企業の音楽事業部門のひとつがレコード会社として独立され、
私は移籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。


この間は家内と結婚したり、1戸建ての家を構え、
住宅ローンが重く苦心惨憺な時期も過ごした。

会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、
落伍者になるまいと、それなりに奮闘したりした。

ぎっくり腰で1ヶ月ばかり入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。

こうした暗澹たる空気の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされたり、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。


こうした機会に、私達夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と真剣に話し合った。
私達夫婦は子供も恵まれなかったので、老後も2人だけの家庭となるので、
残された歳月、片割れになった時も配慮したりした。

老後の資金も肝要なので、私は出向先の不馴れな物流情報センターで、
何とか頑張れて、定年退職を迎えることが出来たのである。


そして定年退職後は、予定通り年金生活となり、
程々の貯蓄を取り崩しながら、古びた1戸建てに家内と生活を過ごしている。

ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と云われたりしているが、
私は官公庁、大企業の首脳部を卒業されたり、大学を新卒した後に栄進したエリートではなく、
数多い中小業に勤めた普通のサラリーマンであったので、
高収入、高額な退職金には無縁である。

そして、新聞、本、ブログなどで多くのお方の半生期を読んだりすると、何かしら自慢史が多く、
つたない私は、程遠い世界であったと苦笑したりする。


私の日常は随筆、ノンフィクション、現代史などの読書はもとより、
映画を居間で鑑賞したり、音楽を聴いたりしていることが多い。

そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
感性と体力の衰えた今は、無念ながら創作の小説の習作もままならず、
せめてプログの世界で、随筆形式をめざしながら、
家内との共通趣味の国内旅行している以外は、殆ど毎日投稿し、生きがいのひとつとなっている。


このように改めて、私の簡略な軌跡を明示してきたが、
この中でひとつでも欠けていたら、私の今の生活はないのが実情である。

定年後、年金生活をしているが、
ときおり家内から、働かなくても私達の生活できるのだから、ありがたいわ、
と云われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが甦(よみがえ)ったりしている。

古来より、人生は『七転八起』と格言された名言の前、
私は確かにそうですよね、と自身のつたない半生を重ね、微苦笑している。


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