私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
過ぎし2月13日より山形県の銀山温泉に4日ばかり滞在した後、
『最上川の船下り』を25年ぶりに乗船した・・。
初めて『最上川の船下り』をした時は、1986(昭和61)年の2月下旬で、
私達夫婦は初めての団体観光ツアーに参加して、冬の時節に周遊したりした。
私達は、今回の旅の二ヶ月前の頃から、
『最上川の船下り』に関して、【最上峡芭蕉ライン観光(株)】のホームページを見たりしていた。
この『舟下り』、『施設案内』などを見たり、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に云ったりしていた。
私達は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。
この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。
船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。
案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、
この舟は出航した。
私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。
この後、渋さナンバーワンとして有名な案内人兼船頭さんが、
♪私しゃ真室川の 梅の花 コーオリャ
あなたまた このまちの鶯よ
花の咲くのを 待ちかねて コーオリャ
蕾のうちから 通って来る
と『真室川音頭』の歌を唄いだしたので、私も家内も最初から手拍子して、
私は聴き惚れていたのである。
私は小学4年生の頃、母の知人に最上地域出身の方がいて、
ある日、『くじら餅』を手土産に夕暮れに来宅した。
母はささやかなお礼に、この方にお酒をだしたのであるが、
このお方は2合徳利を空けた後、私達たちの前で、
この『真室川音頭』の歌を唄いだしたのである・・。
55年前の頃であるが、これ以来、私として『真室川音頭』の歌は、
『くじら餅』の美味しい記憶と共に残っていた・・。
今回、改めて聴いたりしていたが、歌詞の真意を理解すると、妖艶さ驚いたのである。
♪蕾のうちから 通っては見たが コーオリャ
ひらかぬ 花とて気がもめる
早く時節が 来たならば コーオリャ
一枝ぐらいは折ってみたい
夢を見た夢を見た 夢を見た コーオリャ
あなたと添うとこ 夢を見た
三三九度の盃を コーオリャ
いただくところで目がさめた
このような歌詞だったの、と私は少しため息を重ねたりしたのである。
私は帰宅後、この『真室川音頭』の歌を
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』で学んだりした、
《・・
真室川音頭(まむろがわおんど)は、山形県最北部に位置する真室川町の民謡である。
戦後にレコード化された。
現在でも町の各行事で歌われ、同町では真室川音頭の全国大会も毎年開催されている。
元唄は明治時代、千島列島・樺太の出稼ぎ労働者が歌った作業唄「ナット節」であったとされる。
大正時代になり、町に鉱山が開発され(現在は廃坑)、大日本帝国陸軍・真室川飛行場の建設工事が始まると、
全国から集まった出稼ぎ労働者達の間で、
「ナット節」の歌詞を卑猥に改変した「真室川花電車」が歌われるようになった。
一方、これとは別に、真室川出身で宮城県女川の料亭で働き、後年、真室川に戻った近岡仲江(ナカヱ)が、
やはり女川で習った「ナット節」を「山水小唄」に改変し、
真室川の料亭で歌っていた(通常は、近岡ナカヱが起源とされることが多い)。
これら源流を同じくする二つの小唄は、真室川の料亭『紅屋』の女将佐藤ハルによって、
歌詞や三味線弾きの体裁が整えられ、真室川小唄として完成した。
これが、出稼ぎ者によって全国に広まったとされる。
現在知られている歌詞は、1952年(昭和27年)に真室川町が歌詞を広く募集し、
それを織り込んだものである。
これは、「正調真室川音頭」と呼ばれ、レコード録音された。
・・》
このように解説され、私は初めて知り、そうだったの・・、
と赤面しながら遅ればせながら学んだのである。
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過ぎし2月13日より山形県の銀山温泉に4日ばかり滞在した後、
『最上川の船下り』を25年ぶりに乗船した・・。
初めて『最上川の船下り』をした時は、1986(昭和61)年の2月下旬で、
私達夫婦は初めての団体観光ツアーに参加して、冬の時節に周遊したりした。
私達は、今回の旅の二ヶ月前の頃から、
『最上川の船下り』に関して、【最上峡芭蕉ライン観光(株)】のホームページを見たりしていた。
この『舟下り』、『施設案内』などを見たり、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に云ったりしていた。
私達は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。
この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。
船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。
案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、
この舟は出航した。
私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。
この後、渋さナンバーワンとして有名な案内人兼船頭さんが、
♪私しゃ真室川の 梅の花 コーオリャ
あなたまた このまちの鶯よ
花の咲くのを 待ちかねて コーオリャ
蕾のうちから 通って来る
と『真室川音頭』の歌を唄いだしたので、私も家内も最初から手拍子して、
私は聴き惚れていたのである。
私は小学4年生の頃、母の知人に最上地域出身の方がいて、
ある日、『くじら餅』を手土産に夕暮れに来宅した。
母はささやかなお礼に、この方にお酒をだしたのであるが、
このお方は2合徳利を空けた後、私達たちの前で、
この『真室川音頭』の歌を唄いだしたのである・・。
55年前の頃であるが、これ以来、私として『真室川音頭』の歌は、
『くじら餅』の美味しい記憶と共に残っていた・・。
今回、改めて聴いたりしていたが、歌詞の真意を理解すると、妖艶さ驚いたのである。
♪蕾のうちから 通っては見たが コーオリャ
ひらかぬ 花とて気がもめる
早く時節が 来たならば コーオリャ
一枝ぐらいは折ってみたい
夢を見た夢を見た 夢を見た コーオリャ
あなたと添うとこ 夢を見た
三三九度の盃を コーオリャ
いただくところで目がさめた
このような歌詞だったの、と私は少しため息を重ねたりしたのである。
私は帰宅後、この『真室川音頭』の歌を
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』で学んだりした、
《・・
真室川音頭(まむろがわおんど)は、山形県最北部に位置する真室川町の民謡である。
戦後にレコード化された。
現在でも町の各行事で歌われ、同町では真室川音頭の全国大会も毎年開催されている。
元唄は明治時代、千島列島・樺太の出稼ぎ労働者が歌った作業唄「ナット節」であったとされる。
大正時代になり、町に鉱山が開発され(現在は廃坑)、大日本帝国陸軍・真室川飛行場の建設工事が始まると、
全国から集まった出稼ぎ労働者達の間で、
「ナット節」の歌詞を卑猥に改変した「真室川花電車」が歌われるようになった。
一方、これとは別に、真室川出身で宮城県女川の料亭で働き、後年、真室川に戻った近岡仲江(ナカヱ)が、
やはり女川で習った「ナット節」を「山水小唄」に改変し、
真室川の料亭で歌っていた(通常は、近岡ナカヱが起源とされることが多い)。
これら源流を同じくする二つの小唄は、真室川の料亭『紅屋』の女将佐藤ハルによって、
歌詞や三味線弾きの体裁が整えられ、真室川小唄として完成した。
これが、出稼ぎ者によって全国に広まったとされる。
現在知られている歌詞は、1952年(昭和27年)に真室川町が歌詞を広く募集し、
それを織り込んだものである。
これは、「正調真室川音頭」と呼ばれ、レコード録音された。
・・》
このように解説され、私は初めて知り、そうだったの・・、
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