夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『真室川音頭』、遅ればせながら私は歌の妖艶さを学びながら、思わず微苦笑し・・。

2011-02-21 20:41:11 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
過ぎし2月13日より山形県の銀山温泉に4日ばかり滞在した後、
『最上川の船下り』を25年ぶりに乗船した・・。 

初めて『最上川の船下り』をした時は、1986(昭和61)年の2月下旬で、
私達夫婦は初めての団体観光ツアーに参加して、冬の時節に周遊したりした。


私達は、今回の旅の二ヶ月前の頃から、
『最上川の船下り』に関して、【最上峡芭蕉ライン観光(株)】のホームページを見たりしていた。

この『舟下り』、『施設案内』などを見たり、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に云ったりしていた。


私達は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。


この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。

船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。

案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、
この舟は出航した。


私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。

この後、渋さナンバーワンとして有名な案内人兼船頭さんが、

♪私しゃ真室川の 梅の花 コーオリャ
 あなたまた このまちの鶯よ
 花の咲くのを 待ちかねて コーオリャ
 蕾のうちから 通って来る

と『真室川音頭』の歌を唄いだしたので、私も家内も最初から手拍子して、
私は聴き惚れていたのである。


私は小学4年生の頃、母の知人に最上地域出身の方がいて、
ある日、『くじら餅』を手土産に夕暮れに来宅した。
母はささやかなお礼に、この方にお酒をだしたのであるが、
このお方は2合徳利を空けた後、私達たちの前で、
この『真室川音頭』の歌を唄いだしたのである・・。

55年前の頃であるが、これ以来、私として『真室川音頭』の歌は、
『くじら餅』の美味しい記憶と共に残っていた・・。


今回、改めて聴いたりしていたが、歌詞の真意を理解すると、妖艶さ驚いたのである。

♪蕾のうちから 通っては見たが コーオリャ
 ひらかぬ 花とて気がもめる
 早く時節が 来たならば コーオリャ
 一枝ぐらいは折ってみたい

 夢を見た夢を見た 夢を見た コーオリャ
 あなたと添うとこ 夢を見た
 三三九度の盃を コーオリャ
 いただくところで目がさめた


このような歌詞だったの、と私は少しため息を重ねたりしたのである。


私は帰宅後、この『真室川音頭』の歌を
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』で学んだりした、

《・・
真室川音頭(まむろがわおんど)は、山形県最北部に位置する真室川町の民謡である。
戦後にレコード化された。
現在でも町の各行事で歌われ、同町では真室川音頭の全国大会も毎年開催されている。

元唄は明治時代、千島列島・樺太の出稼ぎ労働者が歌った作業唄「ナット節」であったとされる。

大正時代になり、町に鉱山が開発され(現在は廃坑)、大日本帝国陸軍・真室川飛行場の建設工事が始まると、
全国から集まった出稼ぎ労働者達の間で、
「ナット節」の歌詞を卑猥に改変した「真室川花電車」が歌われるようになった。

一方、これとは別に、真室川出身で宮城県女川の料亭で働き、後年、真室川に戻った近岡仲江(ナカヱ)が、
やはり女川で習った「ナット節」を「山水小唄」に改変し、
真室川の料亭で歌っていた(通常は、近岡ナカヱが起源とされることが多い)。

これら源流を同じくする二つの小唄は、真室川の料亭『紅屋』の女将佐藤ハルによって、
歌詞や三味線弾きの体裁が整えられ、真室川小唄として完成した。
これが、出稼ぎ者によって全国に広まったとされる。

現在知られている歌詞は、1952年(昭和27年)に真室川町が歌詞を広く募集し、
それを織り込んだものである。
これは、「正調真室川音頭」と呼ばれ、レコード録音された。
・・》

このように解説され、私は初めて知り、そうだったの・・、
と赤面しながら遅ればせながら学んだのである。


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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 最終回 旅の終りは、新庄の街並みを散策し・・。

2011-02-21 16:22:07 | 
           最終章  旅の終りは、新庄の街並みを散策し・・。 

『最上川の船下り』を終えた私達は、舟下りの降船場に隣接した大きな建物の最上川リバーポートの前より、
待機していたバスに乗車し、『古口』駅前に向った。

左側には先ほど船下りした最上川が観え、山里から川沿いまで積雪、そして川の流れも悠然と流れ、
やはり最上川は大河であると実感されられたが、まぎれなく美景である。

『古口』駅の構内、そして駅前も殆ど人影もなく、道路に除雪された雪がうず高く積まれ、
何かしら活気から遥かに遠い寂しげな情景であった。

こうした中、『新庄』駅行きの列車を待ち焦がれていたりし、
午後4時半過ぎの列車に乗車し、『新庄』駅に下り立ったのは午後5時の少し前で、
私達は宿泊予約している駅から近いビジネス・ホテルの『ルートイン新庄駅前』に向った。

http://www.route-inn.co.jp/search/hotel/index.php?hotel_id=512
☆『ルートイン新庄駅前』 ホームページ☆

新庄は豪雪の地域として知られている通り、除雪された雪がうず高く積まれていたが、
駅構内からほんのわずかに歩道は、小奇麗に除雪され、
ホテルの応対して下さる方たちも、丁重さと覇気があり、私達は好感した。

そして大浴場に入浴した後、食事処でお互いにビールを呑みながら、
数多くの一品料理を頂いたが、程ほどの味でお値段は廉(やす)く、ビジネスマンはもとより、
私達のような年金生活者にも、確かな応援団と思え、私は盛んにビールをお代わりした。

そして家内は、街並みの食事処を探し求めて、味と価格、店内の雰囲気の不明より、
確かに安心である上、このお値段で頂けのは何よりだわ、と微笑んだりしていた。


翌日の午前中、私達は『雪の里情報館』を訪れようとして、
新庄市内の街並みを歩いた。
最上公園の周辺は、歩道などは積雪が残っていたが、道路以外は厚く積雪が残る雪の情景であったので、
私達は防寒の登山靴であり、やっと雪国の光景だ、と思いながら楽しげに歩いたりした。

そして、駅からゆっくりと20分ぐらい歩いて、歩道と駐車場だけ除雪された中、
『雪の里情報館』が観えた。

http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/mm_bk_data/s/mampo_No63.html
☆山形県ホームページ <== 『雪の里情報館』☆


私は数多くの展示品を拝見しながら、豪雪地帯のこの地のことを多々学んだりした。


この後、やはり歩き廻り『新庄ふるさと歴史センター』に寄った。

http://www.city.shinjo.yamagata.jp/816.html
☆『新庄ふるさと歴史センター』<== 『雪国民族館』☆

私は何よりも魅せられたのは、地下階にある『雪国民族館』であった。
明治時代から昭和30年代り頃までの新庄地域に於いて、それぞれの地域で、
日常生活に愛用された数多くの品が展示されていた・・。

私の住む東京郊外の調布市にも『郷土博物館』はあるが、
昭和30年前後に急激に住宅街に変貌したので、このような一部の品でも消えてしまったので、
昭和19年に生を受けた私は、この中の一部は記憶しているので、
愛惜感を重ねながら、見たりしたのである。


この後、『新庄』駅に戻り途中から、小雪が舞い降りはじめ、
私達夫婦は、雪舞い降り情景に魅せられているので、
お互いに小声で歓声を上げたりした。

そして、駅構内の食事処で単品料理を五品を頂きながら、
家内はコーヒーを飲み、私はビールを呑んだりし、小雪舞い降る情景に見惚(みと)れたりした。

この後、私達は『新庄』駅から『大石田』駅まで各行列車で移動し、
そして午後5時半少し前の『つばさ』東京駅行きに乗車し、帰京した。
あえて、『大石田』駅に45分ばかり滞在したのは、小休憩もさることながら、私の煙草の憩(いこ)い時間でもある。

今回の旅は、まとまりのつかない旅路となったが、書き残したことが多く、
後日にカテゴリの『旅のあれこれ』で旅先のこぼれ話しとして、掲載する予定である。


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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 第8回 『最上川の船下り』、25年ぶりに・・。

2011-02-21 00:01:28 | 
           第7章 『最上川の船下り』、25年ぶりに・・。 

私達夫婦は、冬の『最上川の船下り』に関しては、深い思いがある。

私達夫婦は、子供は恵まれなかったせいか、若き頃から現役サラリーマンの多忙時期に、
ときおり国内旅行を重ねてきた・・。

奥志賀高原のリゾートホテルに滞在したり、
長野県の安曇野に近い青木湖にあるりリゾートホテルに滞在する時もあり、
或いは箱根の旅館に滞在したりしていた。

1986(昭和61)年の初春、読売新聞に於いて、
冬の蔵王の樹氷、山寺の鑑賞、そして最上川の舟下りの旅行企画の広告があった。
但し、団体観光バスツアーであった。

それまでは、私達夫婦は、団体観光ツアーは参加したことがなく、
ためらいがあった。
この頃の私達は、住宅ローンなどの返済が家計に重く圧(の)し掛かっていたが、
私は西行、芭蕉への想いが強かった時分で、格安で想いを馳せるので、参加した。

この当時は、遊び着の防寒服がなく、防寒靴も無かったので、
アウトドアの店で予算が乏しく中級程度の品しか、買えなかった。

このようにして、団体観光バスツアーに参加した。
確か2月の下旬で、2泊3日で旅行の為、初めて金曜日に有給休暇を頂いた。


東北自動車道を北上し、白河関を過ぎた頃、雪の情景もなく、
私は落胆していたことを、今でも心の片隅に覚えている・・。

観光バスは東北自動車道の高速道路を降り、米沢への一般道を走った。
峠道を抜けると、あたり一面は急激に雪景色となった。
右手の斜面は、スキー場で数10人の人達が滑っていた。
やっと雪が観られたという思いから、
南東北をお訪ずれている実感が湧いてきた。

その後、今晩宿泊する上山温泉に着き、手荷物を置いた後、家内と散策に出かけた。
積雪は60センチ前後で、除雪がされている市道を歩いた。
『上山城』を近くから観たが、心に残らずとぼとぼと歩いた後、
古びた館にたどり着いた。

分厚い草葺きの屋根に、雪が30センチ程度あり、
入り口の周辺は、うず高く積雪があった。
『春雨庵』と小さな諸札があった。

私はここが、江戸時代の時、沢庵禅師がこの地に流罪になった処だった、
かと知った。
この沢庵禅師を想い馳せれば、この雪深い地に住まわれて、
どういう思いで過ごされたか、と寒気の漂う茶室、居間を観たりした。

『この季節は大変だと思うが・・ 春から夏、秋は過ごしやすいかなぁ・・』
と私は家内に話しかけた。

ホテルに戻った後、指定された部屋に入ると、
『まぁまぁの部屋じゃない・・』
と家内は言った。

大浴場に浸かっていると小庭園が観え、雪景色となったいた。

私は、拙い俳句を呟(つぶや)いたりした・・。

部屋に戻ると、売店で購入した地酒を呑み始めた。

家内が風呂から上がって来て、
『貴方・・お湯も良かったけれど・・
打たせ湯・・良かったわょ・・』
と家内は言った。

私共は、この団体観光ツアーは、同行する人達との気心も心配することなく、
宿泊の部屋も良く、
『これでしたら、このツアー・・許せるわょ・・』
と家内の声を聴き、私は安堵した。

この和風の寛(くつろ)げた宿は、『ホテル城戸口屋』と館内の案内書に書かれていた。


朝、目覚めると雪が舞い降りていた・・。

朝食前、ロビーに行ったら、添乗員さんから、
蔵王の樹氷めぐりは、山頂付近は吹雪いていて、中止にさせて頂きます、と云われた。

その代わり山寺では、ゆっくりとした時間を取りますから・・
と云われたりした。

山寺は雪の舞い降りる中、
山全体がぽっかりとした雪の中の景観であった。
山門を入ると、長靴が数多く並べられていた。

2時間半後、先程のバスまでお戻り下さい、
と添乗員さんは大声で伝えていた・・。

ふもとの根本中堂から歩き始めると、
上り坂になり、積雪は30センチ前後あり、家内に大丈夫・・と声をかけながら登った。
途中の簡素な堂塔は、雪の中にちょこんと観えたが、
雪を掻き分けて登るほうに気を捉えたりした・・。

雪の無い季節は、石段であるが、
こうして積雪に埋もれた雪の中を山頂の奥の院を目指して登った。

私共は、先頭を登っていたが、後方に人影もなかった。
私共の観光ツアーの同行者の方達は、大丈夫かなぁ、と思ったりした。

まもなく、雪の降りしきる中、如法堂が観えた。

息を整えて、下方を見ると、雪が舞い降りる中、
平地の一面が見えて、ゆっくりと列車の走る小さな形が観えた。

私共は下った折、稲の素朴な縄が急な坂の処にあり、
中年女性の3人組が登ってきた・・。
この縄を掴(つかま)ったりしながら、歓声を上げながら、私共とすれ違う時、

『奥の院・・まだ、だいぶ先ですか・・』
と訊(き)かれた。

『もう少しですが、気を付けて・・下さい』
と私は云ったりした。

この後の行程では、この3人組とお互いに語り合うようになった。

根本中堂に戻ると、50代の上品な軽登山の出(い)で立ちのご夫婦を見かけた。
私共のツアーとは関係の無い人達で、個人旅行で寄られた様子だった。

昼食をこの付近り旅館で頂いた。
芋煮のような丼に、山芋、里芋、牛蒡、人参、蓮、牛肉が入っていた。
私は、里の作物は、幼年時代に食べ飽きていたが、
家内は、温まるわ、と言いながら美味しそうに食べていた・・。

私は冷酒を呑みながら、
先程に見かけたご夫婦のことを想い浮かべた。

あと10年後、私共はあのような夫婦になれるかしら、と思ったりした。


私達の団体観光ツアーのメンバーは、雪の中の山寺での登り降りの苦楽のお陰で、
すっかり寛(くつろい)いだ雰囲気となった。

昼食の後、最上川の舟下りの始発の処まで1時間ほどあり、
思いがけない山寺の歩きの疲れと
あたり一面快晴となり車内は温室のようになった上、
昼食後の満腹加減で、大半の人は眠りについていた。

舟下りは、快晴の中、岸辺の積雪と周辺の景観のうつろいを観ながら、
冷酒を呑んだりした・・。

下船した後、バスに乗り、しばらくすると、
あたり一面急激に吹雪いて、周囲の景色は吹雪で見えなくなった。

以前、庄内地方の方に聴いていたので、
このように快晴の合間でも、突然に吹雪いて、しばらくすると回復すると・・。

バスは10数分ぐらい立ち往生していたが、徐行しながらゆっくりと走り出した。

この後は、鶴岡の名所を観た後、宿泊先の温海温泉に着き、
翌日、雪が舞い降りる中、新潟近郊の名所を観て、一路東京に向った。

バスの中で、途中で購入した地酒を70歳前後の男性と酌み交わした・・。
この男性は、奥様連れで、私は最上川の舟下りの頃から、好感していた。

旅の終わりで、このご夫婦と別れる時、
『何時か、再び、お逢いしたいですね・・』
と私達夫婦は、談笑しながら云ったりした。


このように初めての団体観光ツアーに参加して、冬の時節に周遊したりした。
1986(昭和61)年の2月下旬だったので、
今回の『最上川の船下り』は、25年ぶりとなる。


私達は、今回の旅の二ヶ月前の頃から、
『最上川の船下り』に関してのホームページを見たりしていた。

http://www.blf.co.jp/menu_1.htm
☆最上峡芭蕉ライン観光(株)ホームページ☆

この『舟下り』、『施設案内』などを見たり、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に云ったりしていた。


私達は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。


この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。

船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。

案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、
この舟は出航した。


私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。

そして、案内人兼船頭さんの四曲の唄声に、手拍子したり、
或いは周辺の案内を聴いたりしていると、時を忘れるかのように過ぎていく・・。
まもなく、舟下りの降船場に着岸し、私達は大きな建物の最上川リバーポートへの階段を上がった。

そして、一角に乗船前に撮影して下さった写真が掲載されていた。
私は夫婦の記念写真に瞬時に最適と思い、千円を支払った。
そして、私達夫婦としてお互いに微笑んだ珍しい記念写真で、
私は家内に見せながら、良き記念写真となったねぇ、と私は微苦笑しながら家内に云ったりした。

                             《つづく》


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