私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。
その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら、有線の据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。
このように無線のモバイル情報機器に、遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

世の中は夫65歳以上、妻は60歳以上の夫婦のみの無職世帯は、
高齢夫婦無職世帯と称しているが、我が家も同じだよなぁ、と私は漠然としながらも心の片隅にあるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、息子、娘もいなく、もとより孫もいないので、実感が乏しいが本音である。
そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
こうした中、昨年の春に遅ればせながら家内専用の携帯電話を買い求め、今日に至っている。
そして私は、過ぎし年の2004年(平成16年)の秋に定年後、多々の理由で年金生活を始め、
まもなくブログの世界を知り、国内旅行とかパソコンの故障がない限り、毎日に一通は投稿し、
パソコンを日常の友のひとりとして、愛用している。
今朝、配達された読売新聞の朝刊を読んでいる中、『経済』面に於いて、
ひとつの記事として【 2人に1人 スマホ所有 】と見出しされた記事があり、
やはり何かと時代遅れの私でも、気になって精読してしまった・・。
無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《・・総務省が22日発表した2015年通信利用動向調査によると、
スマートフォンを持っている人の割合が53.1%となり、所有率が初めて50%を超えた。
前年比で8.4ポイント増加した。
各年代で所有率が上昇し、特に中高年層で大幅に伸びた。
従来型の携帯電話・PHSの所有率は、35.1%で0.5ポイント増にとどまった。
スマホ所有率を年代別に見ると、50歳代は前年比14.4ポイント増の56.9%で最も急増した。
40代は74.8%、60代は28.4%で、ともに10ポイント以上伸びた。
最も比率が高いのは20代で92.9%。30代は86.2%、13~19歳では79.3%だった。
調査は全国の4万592世帯を対象に、15年末時点の情報通信関連機器の保有状況などを尋ねた。
有効回収数は1万4765世帯(3万6402人)。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

この記事を読み終わった後、《スマホ所有率は60代は28.4%》と知り、
そして従来型の携帯電話・PHSの所有率は、35.1%と学び、
少なくとも高齢者である65歳以上の方達は、ふたりにひとりは携帯電話かスマホを所有している、
と思いめぐらしたりした。
そして若い世代は殆どスマホを活用し、高齢者世代でも情報格差の時代が到来している、
と思い馳せたりした。
私は携帯電話、スマホも興味がなく、そして息子、娘もいなく、まして孫もいないので、
電話は自宅に設置している固定電話で充分であり、
家内は独り住まいの家内の母が介護要の身であり、緊急連絡事項もあるので、携帯電話をしている。
そして私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、
健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる健康寿命の範囲で生活している。

しかしながら私は、程んど毎日、家内から依頼された平素の買物に行く買物メール老ボーイであり、
その後、やはり独りで自宅の3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしているので、
この世は予期せぬまさかの出来事に遭遇するかしもしれない。
或いは首都圏大地震なとが万一に襲来した時、自宅か外出先か避難場所にいると思われるが、
こうした時は、緊急情報を知り、無力ながらも対処致したく、
やはりスマホのような情報機器が必要と思ったしている。
やがて、いつの日にか体力の衰え、或いは大病となり、要支援、そして要介護と身となると思われ、
こうした時はスマホのような情報機器が必要と思ったしている。
このように思い馳せると、スマホのような情報機器を所有していないと、
情報難民になるかしら、と心の中で呟いたりした。

私は情報難民という的言を学んだのは、作家・五木寛之さんが新聞に寄稿された文からであった。
昨年の2015年8月、読売新聞に於いて、[戦後70年 あの夏]と題した特集連載で、
各界の著名人の寄稿文が掲載されていた。
こうした中で、確か8月1日に、『引き揚げ 本当の戦い』という見出しで、
作家・五木寛之さんの寄稿文が掲載されていた。
私は新聞の切り抜くいた記事を保管しているので、無断ながら前半を転記させて頂く。
《・・[戦後70年 あの夏]<1>引き揚げ 本当の戦い 作家 五木寛之さん(82歳)
広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦、そして終戦の玉音放送・・。
70年前、未曽有の惨状にあって人々はどう行動し、何を考えたのか。「あの夏」を語ってもらう。
☆

私が生まれてすぐ、一家は朝鮮半島に渡りました。
教師だった父母が新天地を求め、植民地だった半島の学校に赴任したのです。
子供の頃から「ぼくは軍人大好きよ」など時局の歌を好んで歌い、終戦の年は平壌(ピョンヤン)の中学1年生。
夢は戦闘機乗りになることで、夜になると布団の中で「敵の空母に突っ込む直前になって逃げはしないだろうか」と自問自答し、
「最後は目をつむってまっすぐに急降下しよう」と心に決めていました。
広島・長崎の原爆投下も大きなニュースにはならず、
8月9日に侵攻したソ連軍が燎原(りょうげん)の火のごとく迫っている事実も知りませんでした。
終戦の前日、父親が「明日重大発表があり、ソ連が日本と同盟して、米英に宣戦布告するらしい。これでもう大丈夫だ」
と話していたぐらいで、負けるとは思っていませんでした。
15日の終戦の詔書「玉音放送」は校庭で聞きました。
この先どうなるのか、予想はつきませんでしたが、
「治安は維持される。軽挙妄動を慎め。市民は現住所にとどまれ」
というラジオ放送を信じ、上からの次の指示を待っているだけでした。
軍上層部や官僚、財閥と家族が真っ先に、列車や飛行機で内地に向かっていたことを知ったのは、
戦後もだいぶたってからです。
しばらくすると満州(現中国東北部)からの難民が、平壌にも押し寄せて来ました。
女性は暴行されないよう顔を墨で塗り、頭を丸坊主にしている。
「あの人たち、かわいそうだな」と思いましたが、
間もなく自分も同じ立場になるとは夢にも思いませんでした。
8月下旬だったか、ソ連兵に踏み込まれ、私の家は接収されました。
「情報難民」だった私たち家族は、本当の難民となったのです。
そして、生き残るための新しい戦争、引き揚げが始まりました。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

やがてソ連軍進駐の混乱の中で、五木寛之さんの母は亡くなり、
この後は、父親と共に幼い弟、妹を連れて、苦難ながら38度線を越えて、
やがて開城に脱出し、何とか1947年に福岡県に引き揚げる状況であった。
敗戦の直前に、朝鮮半島に於いても、
《・・軍上層部や官僚、財閥と家族が真っ先に、列車や飛行機で内地に向かっていた・・》
情報にない殆どの方たちは、ソ連軍の侵入で初めて知り、やがて占領下に制約された難苦する生活になり、
亡くなわれた多かった実態であった。

こうした余りにも過酷で悲惨な歴史があり、こうしたことを学べば、
たとえば首都圏大地震なとが万一に襲来した時、住民はそれぞれの都県、或いは市町村から通報があるか判らないが、
自身でスマホのような情報機器で、緊急情報を知り、対処すると思われるが、保有していないと情報格差が歴然となり、
やがて情報難民になる恐れもある。
このようなことを私は妄想を重ねたりした・・。
やがて私は、スマホにも興味のない私は、不要と思っているが、情報難民になる恐れて、
掛け捨て保険のように、月々一万円ぐらいで保有する必要があるかしら、と思案したりしている。
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恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。
その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら、有線の据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。
このように無線のモバイル情報機器に、遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

世の中は夫65歳以上、妻は60歳以上の夫婦のみの無職世帯は、
高齢夫婦無職世帯と称しているが、我が家も同じだよなぁ、と私は漠然としながらも心の片隅にあるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、息子、娘もいなく、もとより孫もいないので、実感が乏しいが本音である。
そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
こうした中、昨年の春に遅ればせながら家内専用の携帯電話を買い求め、今日に至っている。
そして私は、過ぎし年の2004年(平成16年)の秋に定年後、多々の理由で年金生活を始め、
まもなくブログの世界を知り、国内旅行とかパソコンの故障がない限り、毎日に一通は投稿し、
パソコンを日常の友のひとりとして、愛用している。

今朝、配達された読売新聞の朝刊を読んでいる中、『経済』面に於いて、
ひとつの記事として【 2人に1人 スマホ所有 】と見出しされた記事があり、
やはり何かと時代遅れの私でも、気になって精読してしまった・・。
無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《・・総務省が22日発表した2015年通信利用動向調査によると、
スマートフォンを持っている人の割合が53.1%となり、所有率が初めて50%を超えた。
前年比で8.4ポイント増加した。
各年代で所有率が上昇し、特に中高年層で大幅に伸びた。
従来型の携帯電話・PHSの所有率は、35.1%で0.5ポイント増にとどまった。
スマホ所有率を年代別に見ると、50歳代は前年比14.4ポイント増の56.9%で最も急増した。
40代は74.8%、60代は28.4%で、ともに10ポイント以上伸びた。
最も比率が高いのは20代で92.9%。30代は86.2%、13~19歳では79.3%だった。
調査は全国の4万592世帯を対象に、15年末時点の情報通信関連機器の保有状況などを尋ねた。
有効回収数は1万4765世帯(3万6402人)。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

この記事を読み終わった後、《スマホ所有率は60代は28.4%》と知り、
そして従来型の携帯電話・PHSの所有率は、35.1%と学び、
少なくとも高齢者である65歳以上の方達は、ふたりにひとりは携帯電話かスマホを所有している、
と思いめぐらしたりした。
そして若い世代は殆どスマホを活用し、高齢者世代でも情報格差の時代が到来している、
と思い馳せたりした。
私は携帯電話、スマホも興味がなく、そして息子、娘もいなく、まして孫もいないので、
電話は自宅に設置している固定電話で充分であり、
家内は独り住まいの家内の母が介護要の身であり、緊急連絡事項もあるので、携帯電話をしている。
そして私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、
健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる健康寿命の範囲で生活している。

しかしながら私は、程んど毎日、家内から依頼された平素の買物に行く買物メール老ボーイであり、
その後、やはり独りで自宅の3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしているので、
この世は予期せぬまさかの出来事に遭遇するかしもしれない。
或いは首都圏大地震なとが万一に襲来した時、自宅か外出先か避難場所にいると思われるが、
こうした時は、緊急情報を知り、無力ながらも対処致したく、
やはりスマホのような情報機器が必要と思ったしている。
やがて、いつの日にか体力の衰え、或いは大病となり、要支援、そして要介護と身となると思われ、
こうした時はスマホのような情報機器が必要と思ったしている。
このように思い馳せると、スマホのような情報機器を所有していないと、
情報難民になるかしら、と心の中で呟いたりした。

私は情報難民という的言を学んだのは、作家・五木寛之さんが新聞に寄稿された文からであった。
昨年の2015年8月、読売新聞に於いて、[戦後70年 あの夏]と題した特集連載で、
各界の著名人の寄稿文が掲載されていた。
こうした中で、確か8月1日に、『引き揚げ 本当の戦い』という見出しで、
作家・五木寛之さんの寄稿文が掲載されていた。
私は新聞の切り抜くいた記事を保管しているので、無断ながら前半を転記させて頂く。
《・・[戦後70年 あの夏]<1>引き揚げ 本当の戦い 作家 五木寛之さん(82歳)
広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦、そして終戦の玉音放送・・。
70年前、未曽有の惨状にあって人々はどう行動し、何を考えたのか。「あの夏」を語ってもらう。
☆

私が生まれてすぐ、一家は朝鮮半島に渡りました。
教師だった父母が新天地を求め、植民地だった半島の学校に赴任したのです。
子供の頃から「ぼくは軍人大好きよ」など時局の歌を好んで歌い、終戦の年は平壌(ピョンヤン)の中学1年生。
夢は戦闘機乗りになることで、夜になると布団の中で「敵の空母に突っ込む直前になって逃げはしないだろうか」と自問自答し、
「最後は目をつむってまっすぐに急降下しよう」と心に決めていました。
広島・長崎の原爆投下も大きなニュースにはならず、
8月9日に侵攻したソ連軍が燎原(りょうげん)の火のごとく迫っている事実も知りませんでした。
終戦の前日、父親が「明日重大発表があり、ソ連が日本と同盟して、米英に宣戦布告するらしい。これでもう大丈夫だ」
と話していたぐらいで、負けるとは思っていませんでした。
15日の終戦の詔書「玉音放送」は校庭で聞きました。
この先どうなるのか、予想はつきませんでしたが、
「治安は維持される。軽挙妄動を慎め。市民は現住所にとどまれ」
というラジオ放送を信じ、上からの次の指示を待っているだけでした。
軍上層部や官僚、財閥と家族が真っ先に、列車や飛行機で内地に向かっていたことを知ったのは、
戦後もだいぶたってからです。
しばらくすると満州(現中国東北部)からの難民が、平壌にも押し寄せて来ました。
女性は暴行されないよう顔を墨で塗り、頭を丸坊主にしている。
「あの人たち、かわいそうだな」と思いましたが、
間もなく自分も同じ立場になるとは夢にも思いませんでした。
8月下旬だったか、ソ連兵に踏み込まれ、私の家は接収されました。
「情報難民」だった私たち家族は、本当の難民となったのです。
そして、生き残るための新しい戦争、引き揚げが始まりました。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

やがてソ連軍進駐の混乱の中で、五木寛之さんの母は亡くなり、
この後は、父親と共に幼い弟、妹を連れて、苦難ながら38度線を越えて、
やがて開城に脱出し、何とか1947年に福岡県に引き揚げる状況であった。
敗戦の直前に、朝鮮半島に於いても、
《・・軍上層部や官僚、財閥と家族が真っ先に、列車や飛行機で内地に向かっていた・・》
情報にない殆どの方たちは、ソ連軍の侵入で初めて知り、やがて占領下に制約された難苦する生活になり、
亡くなわれた多かった実態であった。

こうした余りにも過酷で悲惨な歴史があり、こうしたことを学べば、
たとえば首都圏大地震なとが万一に襲来した時、住民はそれぞれの都県、或いは市町村から通報があるか判らないが、
自身でスマホのような情報機器で、緊急情報を知り、対処すると思われるが、保有していないと情報格差が歴然となり、
やがて情報難民になる恐れもある。
このようなことを私は妄想を重ねたりした・・。
やがて私は、スマホにも興味のない私は、不要と思っているが、情報難民になる恐れて、
掛け捨て保険のように、月々一万円ぐらいで保有する必要があるかしら、と思案したりしている。
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