私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦して、
2004年(平成16年)の秋に定年退職をした身であるが、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
やがて最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
そして定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と学んだりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
こうした中で、私たち夫婦は雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごし、
まもなく9月の誕生日を迎えると72歳となり、年金生活も早や丸12年となる。
そして家内は、私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
本日の昼下がりのひととき、ときおり愛読しているネットの『NEWSポストセブン』を見たりしていると、
【「老害」という罵倒語を安易に使うべきではない理由】と題された見出しがあり、
どのようなことなのょ、と好奇心に負けて、クリックして精読してしまった。
中年のコラムニストのオハダカズユキさんが寄稿された文であり、高齢者世代の心情が的確に表現され、
私は幾たびも微苦笑させられたりした。
この寄稿文は7月26日に配信され、無断ながら転載させて頂く。
≪・・「老害」という言葉を口にする人がいるが、それは高齢化社会における本当の問題を見えにくくしている。
いま真剣に考えなければならない問題は何か。コラムニストのオハダカズユキ氏が考察する。
ネット上でも日常でも、よく目にしたり耳にしたりする「老害」という言葉。
自分が「若者」から遠ざかり、「老人」に近づきつつある中年だからかもしれないが、
それを軽口で使う者は、ほんと浅はかだと思う。
生産しないのに、消費する。
働かないのに、医療や介護などの金がかかる。
長く生きてきたぶん物知りどころか、情報技術社会に追いつけない面倒くさい落ちこぼれ。
そのくせ頭が固くて、後進に道を譲ることもしない。
公共マナーだって、謝れないし、勝手にキレるし、迷惑かけているのは若者じゃなくて老人のほうだろう。
こんな老害社会、もう、うんざりだ!
というアレコレの言い分を全否定はしない。
「団塊世代(1947~1949年生まれ)がひどい」とも、よく言われる。
たしかに、60代後半には、中年の私もときおりムカッと来る。
いい歳こいて、オレがオレが、と自己主張の強い老人が多いし、思いっきり既得権の甘い汁を吸いながら、
気分は反権力みたいなことをヌカしている老人も少なくない。
ああいう連中を「老害が!」と斬って捨てたい気持ちは、よくわかる。
しかし、である。
人は誰しも、同じペースで齢を重ねるのだ。
死ぬまで全員、老いていく。
歳をとれば、働けなくなるし、身体が弱るし、思考力も落ちて、どうしたって頑なになってしまう。
そういう存在に誰もが、いつか成り果てるのである。
今の老人の醜さは、未来の自分の姿にすぎない。
それを「老害」と斬り捨てた刃物は、ブーメランのように、〇〇年後の自分を斬りつけに戻ってくるのだ。
だから「老害」などという罵倒語は、安易に使うべきではない。
軽々しく口にしたり、書きこんだりするのは、浅はかだ。
そして、老人たちを「老害」視することによって、見えなくなる事実がある。
世代間対立の図式でものを考えると、ほんとうに唾棄すべき「敵」を見失いかねないのだ。
先日、博報堂生活総合研究所が60~74歳を対象に、実施した意識調査を発表した。
1986年から10年おきに実査してきた調査の4回目の結果である。
それによると、「何歳まで生きたいか」の問いに、
1986年の調査対象者たちは、平均で「80歳」と答えたが、2016年の今年は「84歳」だったそうである。
また、今年から新たに加えた質問の「あなたの気持ちは何歳くらいだと思いますか」の答えは、
平均「53歳」。
実年齢より14歳マイナスだった。
「自分は、体力もあるし、気持ちも若い」と答えたのは、
65歳~69歳が一番多くて、30%。
団塊世代、やっぱり健在である。
このデータだけだと、「だから老害は、自分のことを分かっていない」という声がわき上がりそうだが、
長寿の希望は医療レベルが、ここ30年で4歳分以上は発達しているのだから、それはそういうことだろうし、
体力や気持ちが、実年齢よりも若いのなら老人たちにどんどん働いてもらえばいい、と考えることもできる。
いや、すでに人不足の際たる介護業界を下支えしているのは、
労賃が安く3Kな仕事でも、厭わない高齢者層であったりもする。
元気な老人が多いから、超高齢化社会がなんとか持ちこたえている部分もある。
しかし、こうした調査結果がある一方で、こんな数字も出ている。
生活の見通しについて尋ねたところ、「先の見通しは暗いと思う」と答えたのが、
1986年は32%だったのが、今年は47%と、15ポイント跳ね上がっていた。
さらに、現在欲しいものについて尋ねたら、「お金」と答えたのが、1986年28%、今年41%。
「幸せ」と答えたのが、1986年31%、今年16%。
欲ボケが、増えたということだろうか。
違う。今現在の生活費の不安を、リアルに抱えている老人が増加しているのだ。
それが証拠に、厚生労働省の「所得再分配調査」などを見ると、
60歳以上は下の年齢階級に比べて、所得の格差をはかる指標のジニ係数が大きくなっている。
例えば、月に50万もの年金を受給している夫婦が、大企業OBを中心に一定数存在するが、
月に数万円の国民年金しか収入源がなく、老後崩壊している老人たちは、より大量に存在し、増えている。
いわゆる老々格差の問題だ。
同世代間格差はどの世代にもあるが、この国には歳をとるほど、その差が大きくなる構造がある。
金持ち爺さん婆さんと、貧乏爺さん婆さんの階層社会が、
実際に過酷であるからこその、現在ほしいもの「お金」41%なのである。
マズローの欲求階層ビラミッドをご存知の方は、あの三角形の図を思い浮かべてほしい。
一番上の三角形の部分が「自己実現の欲求」。
要は、真善美の追求を最大の価値として生きている状態である。
その直下の台形部分は、「承認(尊重)の欲求」。
他者から尊敬されることで、自信や達成感や地位を得たいとする気持ちである。
たいていの会社内の出世競争は、この欲求をエネルギー源にしている。
そのまた下のもう少し幅広の台形部分は、「所属と愛の欲求」。
ちゃんとした組織に雇用されていること、家族がちゃんといること、
友とか仲間とかいえる関係が、まわりにあることを欲している。
逆に言うと、孤立を恐れる気持ちだ。
べつに尊敬の対象なんかでなくてもいい、仲間と一緒にいられたらそれで満足、という群れの心理である。
マズローの欲求階層は5層に分けられており、以上の上位3層は「幸せ」のレベル分けと言えるかもしれない。
「所属と愛の欲求」が満たされていれば、「承認(尊重)の欲求」がわいてきて、
それも満たされてようやく人は「自己実現の欲求」に向かう。
このマズローの仮説には、科学的裏付けに乏しい、西洋的価値観に偏っている、などなどの批判もあるが、
ざっくりとしたところは納得ではないだろうか。
で、上位3層の下にある平べったい台形部分が2つ、それらは順に「安全の欲求」と「生理的欲求」だ。
「安全の欲求」には、身の安全、雇用の安全、健康面での安全などの他に、資産の安全も含まれる。
その下の「生理的欲求」は、呼吸、食糧、水、セックス、睡眠、排泄など、生き物としてごくごく基礎的な欲求のことである。
先の調査の話に戻るが、現在ほしいもの「お金」41%は、
こうした5階層のうち、下から2番目の「安全の欲求」の表れだろう。
呼吸、食糧、水……といった生存に最低限必要な欲求の上に、
ささやかながら求められる安心・安全、それらを手に入れるための「お金」。
そこに不安を覚えている60~74歳が、すでに4割強も存在しているということなのだ。
この4割強は、「いやあ、町内会の世話役に、犬の散歩にと、毎日結構やることが多くてねえ」と健やかに笑う、
同世代の金持ち爺さん婆さんと自分との格差の意味を知っている。
金持ち~は、真善美のボランティアに打ち込む自己実現老人で、社会的には成功者かもしれない。
だが、下から見上げたら「この不平等は、なんなんだ」である。
自分だって、懸命に働いてきた。
ただし、あちらは大卒で、自分は学費がなくて高卒、
たまたま大企業社員と孫請け社員に分かれたってことじゃないか。
つまり運の違いが、この老後の大格差となった。
それは不条理である、と。
金持ち~が、唾棄すべき「敵」であるかどうかは、意見が分かれるだろうが、
まずは、「老害」で一括りすると、こういう社会構造が見えなくなるよ、と言いたい。
それは他人事でなく、これから先はもっと格差がでかくなるよ、と老人予備軍の私は、
戦慄しながら同輩以下に伝えたい。・・≫
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
定年後の年金生活を始めた私は、平素の我が家の買物は、
家内から依頼された品をスーパー、専門店で求めて、買物メール老ボーイとなっている。
この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
ビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
そして、ときおり小庭の手入れをしたり、家内との共通趣味の国内旅行で、
私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、せめてと思いながら、
元気なうちに行きたい所を行こうょ、と日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『生きがい』、次に『健康』、そして程ほど『お金』が、
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。
たとえ不幸にして、入院生活が余儀されても、『生きがい』を失くしたら、心は終末期と思ったりしている。
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事が、セカンドライフ健康体の三種の神器として思い、
年金生活を過ごしている。
今回、コラムニストのオハダカズユキさんの【「老害」という罵倒語を安易に使うべきではない理由】を
読みながら、幾たびも微苦笑させられたが、程ほどの貯金しかない私でも、
「老害」と世間から非難されないように、気を付けましょう、と改めて思ったりしている。
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2004年(平成16年)の秋に定年退職をした身であるが、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
やがて最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
そして定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と学んだりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
こうした中で、私たち夫婦は雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごし、
まもなく9月の誕生日を迎えると72歳となり、年金生活も早や丸12年となる。
そして家内は、私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
本日の昼下がりのひととき、ときおり愛読しているネットの『NEWSポストセブン』を見たりしていると、
【「老害」という罵倒語を安易に使うべきではない理由】と題された見出しがあり、
どのようなことなのょ、と好奇心に負けて、クリックして精読してしまった。
中年のコラムニストのオハダカズユキさんが寄稿された文であり、高齢者世代の心情が的確に表現され、
私は幾たびも微苦笑させられたりした。
この寄稿文は7月26日に配信され、無断ながら転載させて頂く。
≪・・「老害」という言葉を口にする人がいるが、それは高齢化社会における本当の問題を見えにくくしている。
いま真剣に考えなければならない問題は何か。コラムニストのオハダカズユキ氏が考察する。
ネット上でも日常でも、よく目にしたり耳にしたりする「老害」という言葉。
自分が「若者」から遠ざかり、「老人」に近づきつつある中年だからかもしれないが、
それを軽口で使う者は、ほんと浅はかだと思う。
生産しないのに、消費する。
働かないのに、医療や介護などの金がかかる。
長く生きてきたぶん物知りどころか、情報技術社会に追いつけない面倒くさい落ちこぼれ。
そのくせ頭が固くて、後進に道を譲ることもしない。
公共マナーだって、謝れないし、勝手にキレるし、迷惑かけているのは若者じゃなくて老人のほうだろう。
こんな老害社会、もう、うんざりだ!
というアレコレの言い分を全否定はしない。
「団塊世代(1947~1949年生まれ)がひどい」とも、よく言われる。
たしかに、60代後半には、中年の私もときおりムカッと来る。
いい歳こいて、オレがオレが、と自己主張の強い老人が多いし、思いっきり既得権の甘い汁を吸いながら、
気分は反権力みたいなことをヌカしている老人も少なくない。
ああいう連中を「老害が!」と斬って捨てたい気持ちは、よくわかる。
しかし、である。
人は誰しも、同じペースで齢を重ねるのだ。
死ぬまで全員、老いていく。
歳をとれば、働けなくなるし、身体が弱るし、思考力も落ちて、どうしたって頑なになってしまう。
そういう存在に誰もが、いつか成り果てるのである。
今の老人の醜さは、未来の自分の姿にすぎない。
それを「老害」と斬り捨てた刃物は、ブーメランのように、〇〇年後の自分を斬りつけに戻ってくるのだ。
だから「老害」などという罵倒語は、安易に使うべきではない。
軽々しく口にしたり、書きこんだりするのは、浅はかだ。
そして、老人たちを「老害」視することによって、見えなくなる事実がある。
世代間対立の図式でものを考えると、ほんとうに唾棄すべき「敵」を見失いかねないのだ。
先日、博報堂生活総合研究所が60~74歳を対象に、実施した意識調査を発表した。
1986年から10年おきに実査してきた調査の4回目の結果である。
それによると、「何歳まで生きたいか」の問いに、
1986年の調査対象者たちは、平均で「80歳」と答えたが、2016年の今年は「84歳」だったそうである。
また、今年から新たに加えた質問の「あなたの気持ちは何歳くらいだと思いますか」の答えは、
平均「53歳」。
実年齢より14歳マイナスだった。
「自分は、体力もあるし、気持ちも若い」と答えたのは、
65歳~69歳が一番多くて、30%。
団塊世代、やっぱり健在である。
このデータだけだと、「だから老害は、自分のことを分かっていない」という声がわき上がりそうだが、
長寿の希望は医療レベルが、ここ30年で4歳分以上は発達しているのだから、それはそういうことだろうし、
体力や気持ちが、実年齢よりも若いのなら老人たちにどんどん働いてもらえばいい、と考えることもできる。
いや、すでに人不足の際たる介護業界を下支えしているのは、
労賃が安く3Kな仕事でも、厭わない高齢者層であったりもする。
元気な老人が多いから、超高齢化社会がなんとか持ちこたえている部分もある。
しかし、こうした調査結果がある一方で、こんな数字も出ている。
生活の見通しについて尋ねたところ、「先の見通しは暗いと思う」と答えたのが、
1986年は32%だったのが、今年は47%と、15ポイント跳ね上がっていた。
さらに、現在欲しいものについて尋ねたら、「お金」と答えたのが、1986年28%、今年41%。
「幸せ」と答えたのが、1986年31%、今年16%。
欲ボケが、増えたということだろうか。
違う。今現在の生活費の不安を、リアルに抱えている老人が増加しているのだ。
それが証拠に、厚生労働省の「所得再分配調査」などを見ると、
60歳以上は下の年齢階級に比べて、所得の格差をはかる指標のジニ係数が大きくなっている。
例えば、月に50万もの年金を受給している夫婦が、大企業OBを中心に一定数存在するが、
月に数万円の国民年金しか収入源がなく、老後崩壊している老人たちは、より大量に存在し、増えている。
いわゆる老々格差の問題だ。
同世代間格差はどの世代にもあるが、この国には歳をとるほど、その差が大きくなる構造がある。
金持ち爺さん婆さんと、貧乏爺さん婆さんの階層社会が、
実際に過酷であるからこその、現在ほしいもの「お金」41%なのである。
マズローの欲求階層ビラミッドをご存知の方は、あの三角形の図を思い浮かべてほしい。
一番上の三角形の部分が「自己実現の欲求」。
要は、真善美の追求を最大の価値として生きている状態である。
その直下の台形部分は、「承認(尊重)の欲求」。
他者から尊敬されることで、自信や達成感や地位を得たいとする気持ちである。
たいていの会社内の出世競争は、この欲求をエネルギー源にしている。
そのまた下のもう少し幅広の台形部分は、「所属と愛の欲求」。
ちゃんとした組織に雇用されていること、家族がちゃんといること、
友とか仲間とかいえる関係が、まわりにあることを欲している。
逆に言うと、孤立を恐れる気持ちだ。
べつに尊敬の対象なんかでなくてもいい、仲間と一緒にいられたらそれで満足、という群れの心理である。
マズローの欲求階層は5層に分けられており、以上の上位3層は「幸せ」のレベル分けと言えるかもしれない。
「所属と愛の欲求」が満たされていれば、「承認(尊重)の欲求」がわいてきて、
それも満たされてようやく人は「自己実現の欲求」に向かう。
このマズローの仮説には、科学的裏付けに乏しい、西洋的価値観に偏っている、などなどの批判もあるが、
ざっくりとしたところは納得ではないだろうか。
で、上位3層の下にある平べったい台形部分が2つ、それらは順に「安全の欲求」と「生理的欲求」だ。
「安全の欲求」には、身の安全、雇用の安全、健康面での安全などの他に、資産の安全も含まれる。
その下の「生理的欲求」は、呼吸、食糧、水、セックス、睡眠、排泄など、生き物としてごくごく基礎的な欲求のことである。
先の調査の話に戻るが、現在ほしいもの「お金」41%は、
こうした5階層のうち、下から2番目の「安全の欲求」の表れだろう。
呼吸、食糧、水……といった生存に最低限必要な欲求の上に、
ささやかながら求められる安心・安全、それらを手に入れるための「お金」。
そこに不安を覚えている60~74歳が、すでに4割強も存在しているということなのだ。
この4割強は、「いやあ、町内会の世話役に、犬の散歩にと、毎日結構やることが多くてねえ」と健やかに笑う、
同世代の金持ち爺さん婆さんと自分との格差の意味を知っている。
金持ち~は、真善美のボランティアに打ち込む自己実現老人で、社会的には成功者かもしれない。
だが、下から見上げたら「この不平等は、なんなんだ」である。
自分だって、懸命に働いてきた。
ただし、あちらは大卒で、自分は学費がなくて高卒、
たまたま大企業社員と孫請け社員に分かれたってことじゃないか。
つまり運の違いが、この老後の大格差となった。
それは不条理である、と。
金持ち~が、唾棄すべき「敵」であるかどうかは、意見が分かれるだろうが、
まずは、「老害」で一括りすると、こういう社会構造が見えなくなるよ、と言いたい。
それは他人事でなく、これから先はもっと格差がでかくなるよ、と老人予備軍の私は、
戦慄しながら同輩以下に伝えたい。・・≫
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
定年後の年金生活を始めた私は、平素の我が家の買物は、
家内から依頼された品をスーパー、専門店で求めて、買物メール老ボーイとなっている。
この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
ビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
そして、ときおり小庭の手入れをしたり、家内との共通趣味の国内旅行で、
私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、せめてと思いながら、
元気なうちに行きたい所を行こうょ、と日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『生きがい』、次に『健康』、そして程ほど『お金』が、
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。
たとえ不幸にして、入院生活が余儀されても、『生きがい』を失くしたら、心は終末期と思ったりしている。
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事が、セカンドライフ健康体の三種の神器として思い、
年金生活を過ごしている。
今回、コラムニストのオハダカズユキさんの【「老害」という罵倒語を安易に使うべきではない理由】を
読みながら、幾たびも微苦笑させられたが、程ほどの貯金しかない私でも、
「老害」と世間から非難されないように、気を付けましょう、と改めて思ったりしている。
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