夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
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橋田壽賀子さんの「わたしの理想の死にかた」の死生観、富も名声も無縁な私でも学び、多々教示されて・・。

2018-06-03 15:32:24 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している文藝春秋の公式サイトのひとつ【文春オンライン】を見ている中で、
『 92歳の橋田壽賀子が語る「わたしの理想の死にかた」 』
と見出しを見てしまった。

私はテレビの番組は、NHKのニュース、ドキュメンタリーを視聴する程度で、
ドラマは殆ど視聴はしないひとりである。

しかしながらテレビ・ドラマで、倉本 聰さん、向田邦子さん、山田太一さん、橋田壽賀子さんが書かれたドラマだけは、
殆ど視聴したりして、人生の機敏など多々教示され、敬愛を重ねたりしている。

こうした中、橋田壽賀子さんは、テレビドラマの原作、脚本の『おしん』、『渡る世間は鬼ばかり』など
数多くの名作を放映され、多くの視聴者に感動をあたえている御方であり、

過ぎし2016年12月号『文藝春秋』に掲載された『私は安楽死で逝きたい』の記事を、
私も読み、動顛しながらも多々教示を受けたひとりである。

今回の記事に於いて、『 92歳の橋田壽賀子が語る「わたしの理想の死にかた」』に於いて、
改めて橋田壽賀子さんの死生観を私は学び、多々教示され、
富も名声も無縁な私でも、大半は同じような思案を重ねているので、
そうですよねぇ・・と共感をさせられたこともある。

            

この記事の原文は、文藝春秋オピニオンの『2018年の論点100』に於いて、
この中のひとつのテーマ、死期に備え準備、活動する“終活”。

近年書籍などではよく論じられるが、家族間で死について語ることは、いまだタブー視されがちである。
安楽死とは何を指すか、安楽死を悪用させないための仕組みづくりをどうするか。
自身も安楽死を望む橋田壽賀子さんの提言書である。

そして関連のネットの【文春オンライン】に於いて、2018年6月2日に配信され、
私は文藝春秋が発刊されている単行本、新書本、文庫本、月刊総合雑誌など、
長年に於いて購読しているよしみに甘えて、無断であるが転載させて頂く。

            
《・・
☆ 自分で判断ができるうちに、死ななければ 

私が安楽死を望むのには、私なりの理由があります。

もうじゅうぶんに生きて、仕事はやり過ぎるほどやったし、
世界中の行きたい場所へ行ったし、思い残すことは何もない。

夫には30年近く前に先立たれ、子どもはなく、親しい友人もいない。
天涯孤独の身だから、長く生きて欲しいと望んでくれる人もなく、
あの人のために生きていたいと願う相手もいない。

これ以上生きていても、世の中の役に立たない。


役に立たなくても、元気でいて、他人に迷惑をかけないうちはいいのです。
ところが私は92歳。

いまは自分で生活できていますが、この先いつ、身体の自由が利かなくなるか。
気づかないうちに認知症になって、何もわからなくなるかもしれません。

食事から下の世話まで、人さまの手を煩(わずら)わせるのは、私は嫌なのです。
これは、尊厳とプライドの問題です。


だからそうなる前に、自分で判断ができるうちに、死ななければいけません。
自殺はいけないことだし怖いから、死ぬ時期を自分で決めるには、安楽死しかないのです。

            


☆スイスは80万円で死なせてくれる

死が目前に迫ったとき、延命治療をしないのが、尊厳死。

安楽死は、さらに進んで、積極的に死期を早めることです。
尊厳死を法律で決めている国は、たくさんありますが、
安楽死は、ヨーロッパのいくつかの国とアメリカのいくつかの州でのみ合法です。

しかし希望すれば、誰でも死ねるわけではなく、
治らない病気で、耐えがたい痛みがあること、などの条件があります。
スイスにだけ外国人を受け入れてくれる団体があって、費用は80万円ほどだそうです。


正確には、ルールに則(のっと)った自殺幇助(ほうじょ)です。
したがって、医師が自ら注射や点滴をするのではなく、
処方された致死量の薬を、死ぬ人自身が飲むのです。


日本では、尊厳死は、認められていますが法律はなく、
あらかじめ「延命治療はしません」と意思表示をしておくことが必要です。

胃瘻(いろう)や人工呼吸器や延命のための点滴など、もちろん私はご免こうむります。
けれども尊厳死では、死期を選ぶことができません。
やはり安楽死でなければ、ダメなのです。


いわゆる「終活」は、89歳のときに始めました。
88歳から急に体力が落ちたこと。
90になったら、脚本の仕事から引退する、と決めていたこと。

「ママ」と呼んで親しくしてくれる女優の泉ピン子から、
「ママはもう、じゅうぶん歳を取ってるんだよ」と言われたことがきっかけです。

ドラマの原稿や放送されたビデオテープをはじめ溜め込んだ物を整理して、
段ボール10箱分捨てるだけで、2年かかりました。


合わせて、死んでも、公表しないと決めました。
目立たずにいつの間にかいなくなって、
「そういえばあの人、最近見ないわね。あら亡くなったの」というのが理想です。(略)

葬式も、偲(しの)ぶ会やお別れの会も、やらないと決めました。
葬式というのは、遺された家族のためのものです。

家族のいない私の葬式は、どうせお義理で来る人ばかり。
やらないほうがいいのです。

            

☆死を選ぶか生き直すかを考えるチャンス

日本人は、死について語ることを「縁起でもない」と言って避けようとします。
しかし、自分が死ぬときや、死んだあとに、どうして欲しいかをはっきりさせておかないと、
家族が判断に困ったり、迷惑したりすることになります。


そんなことを考えながら、いずれスイスへ行って、ひっそり死ぬつもりでした。
ところが、私のように安楽死したいと思っている人が、たくさんいることがわかりました。

それならば、みんなが外国へ行かなくてすむように、
日本でも法律を作って、基準やルールを定めればいいと思います。


私がイメージしているのは、
医師や看護師、弁護士、ソーシャルワーカー、心理カウンセラーなど5、6人のチームを組んで、
死にたいと申し出た人の希望を叶えるべきか、どうかジャッジする制度です。

医師は医学的な見地から診断し、カウンセラーは死にたいという申し出が
正常な精神状態でなされているかどうか判断し、弁護士はその人の社会生活や家族関係を調べます。

借金やら保険金やらの理由で、死ぬことを望んでいないか調べ、家族の賛否を確かめるためです。
そうやってチーム全員が、OKを出した人だけ、めでたく死なせてもらえるのです。


反対に「あなたは生きなさい」という判定が下された人には、同じチームが引き続き支援します。

死なせてあげるべき人には、望みを叶えてあげ、
生きるべき人には、生き直すチャンスとなる制度です。
自殺者も減ると思うのですが、どうでしょうか?

            

☆親の介護で、子どもを犠牲にしてよいのか

近頃、親の介護のために、子どもが仕事を辞めた、という話をよく耳にします。
親も子も、それを望むのなら、かまいません。

けれども親がそのことを負担に感じ、重荷になりたくないと悩みながら、
なすすべがない場合は、どうすればいいのでしょう?


老々介護に疲れ果て、妻が夫を殺して無理心中、といったニュースもよく流れます。
本当に胸が痛みます。

こんな場合、妻の命だけでも、救うことはできないのですか? 
それに、運よく死ねたらいいようなものの、
妻だけ生き残ったら、夫に対する殺人です。

安楽死の法律があれば、こうした悲劇も減らせるのではないでしょうか?


自殺を推奨したり、障がい者にマイナスとなる恐れがあるなら、
高齢者限定の法律にすればいいのです。

重い病気で死期が迫っていなくても、ある程度の歳になって
「じゅうぶん生きた。もういいわ」と思う人には、
自分からおさらばする権利をもらえないものでしょうか?・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は私より5歳若い家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

こうした中、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇しないで、今日に至っている。

しかしながら、いつの日にか介護になる身・・やがてあの世にいく葬儀、お墓・・
こうしたことは、漠然としながらも私たち夫婦は、話し合っている。

私たち夫婦は、お互いに死が目前に迫ったとき、延命治療をしないのが、尊厳死の範疇であり、
自分で食物を口に運べなかった時は、死ぬ時だ、と私は家内に幾たびも言ったりしている。

            

葬儀に関しては、家族葬としている。
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、
和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、とここ15年ぐらい言ったりしている。

私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職し、早や13年半が過ぎた年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは、遥かに遠い平凡な人生を歩んできたりした。

こうしたことで、遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。

そして私の生家(実家)は曹洞宗なので、やはり生家(実家)の墓地のある寺院の方に読経して頂くが、
通夜、告別式の5分ぐらいの簡略なお経でよい、と思ったりしていたが、
これらを省略しても差し支えないと思ったりする時もある。

            

お墓に関しては、私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
分家のような形で、実家の近くに住んでいる。

こうした中、実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、いつの日にか、私たち夫婦が亡くなった後、
長兄の子供である甥っ子ふたりに何かと面倒をかける、と思いながら、長らく躊躇(ためら)ってきた・・。

結果的にし、一昨年の春、樹木葬ができる墓地、
私たち夫婦は、いつの日にか、亡くなった後は、死者は土に還えれる、と深い思いで買い求めてきた。

            

そして介護に関しては、私たち夫婦の両親は、家内の母だけとなり、
我が家より遠方の地に独り住まいとなっている。

こうした中、家内は家内の妹と連絡しあって、家内の母の介護をし、
ときおり家内は家内の母宅に6泊7日前後で、ここ3年は行ったりしている。

こうした関係で、私は我が家で『おひとりさま』の生活をする時もあり、
家内が帰宅後に、介護の難題を少し聞いたりしているので、私は溜息を重ねたりして、
介護する周囲の人たちにも、生活の影響をもたらすこともあり、大変さを少し学んでいる。

            

今回の橋田壽賀子さんの死生観を改めて学び、富も名声も無縁な私でも、
そうですよねぇ・・と共感をさせられたりしている。

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