夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

戦争を知らない私の防空壕の想いで・・。

2009-08-17 08:38:35 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
『終戦記念日』の一週間前頃から、かの大戦に伴うテレビでドキュメンタリー、
そして戦争中の体験を語られる人々の番組が放映され、
ときおり私は視聴したりした・・。

私は昭和19年の秋に、今住んでいる近くの実家で生を受けた・・。

農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身なので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居はもとより、
親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。

北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、
と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人での足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

250キロの爆弾と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、
と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。


我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は五歳、次兄は二歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして二歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と叔母たちが話されたので、私達は微苦笑したりした。


後年の小学三年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、
防空壕がよく見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。


この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、
大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。



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