夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、高齢者の私は、心の中で呟(つぶや)いて・・。

2021-08-03 11:50:43 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
過ぎし7月31日、いつものように我が家の周辺3キロ以内にある遊歩道、
公園などを散策したりした・・。

こうした中で、早くも7月も過ぎ去り、
新コロナウィルスの烈風で自粛、そして東京五輪のふたつで終わってしまったかょ・・、
と微苦笑したりした・・。

こうした中で、公園を歩いたりしていると、この時節にふさわしい情景に、
慰めを頂いたりした・・。





こうした情景をながめたりしていると、
明日より8月かょ・・、と思いながら、やがてひとつの命言が脳裏から舞い降りてきた・・。

この後、言葉にすれば『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、
と高齢者の私は、心の中で呟(つぶや)いたりした・・。


私が『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、と知ったのは、
恥ずかしながら14年前であった。


私の父は、私が小学2年の三学期に、肝臓を悪化されて亡くなり、
母は、私が53歳の時に、婦人系の癌で死去した。

家内の父は、私が民間会社のサラリーマンの定年退職の2004年(
平成16年)の秋の直前に、
腎臓を悪化されて亡くなり、私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。

そして家内の母は、我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県のある市で、
戸建てに独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
独り住まいの生活をされて、まもなく17年となるが、
ここ数年は、近くに住む家内の妹に見守りされながら、介護施設にお世話になっている。


過ぎし家内の母が独り住まいの生活をされた当初の頃からも、

私たち夫婦は、家内の母を誘い、5年間ぐらいは、
幾たびか温泉滞在旅行などの旅を重ねたりしていた・・。


          

こうした中で、『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と家内に要望されたので、 私たち夫婦と家内の母と3人で、
過ぎし2008年(平成18年)2月中旬の時に長崎を訪れた。

家内の母の深淵には、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時代、
多くの同級生と共に、学徒動員により軍事工場で労働にした身であったりした。

この当時の日本は、敗戦にたどる時期、殆どの国民は幾たびか空襲の中、悲惨で過酷な時期であった。

こうした家内の母の体験もあったので、特に独り住まいとなった頃から、慰霊の心情を深めてきた。

そして私たち夫婦は、家内の母と共に沖縄の『ひめゆりの塔』や『平和記念館』など、

その後は鹿児島の『知覧 特攻平和会館』などの旅を重ねてきた。

          

そして長崎を訪れている間、私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。

こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思い馳せたりすると、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

私は旅立つ前に、永井 隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、 初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、2月にしては暖かい陽射しの中を独り歩いたりした。

               

やがて『永井 隆記念館』で拝見した後、館内の売店で買い求めた本が、
永井 隆・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅ればせなから初めて読んだりした・・。

この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は   六と九で十五だ  忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
と明記されていた。

ながいまこと氏は、永井 隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。

私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
確かな日本の夏の命言、と深く教示され、今でもこの栞(しおり)を大切にしている。

           

こうした中で私は年金生活をしている中、たとえば読書に関しては、
この8月の時節になると、原民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを再読してきたので、この作品を思い馳せたりしている・・。

そして永井 隆・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたり、
6月23日の『沖縄慰霊の日』を始めとする『沖縄』の関係する本と、
8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』に関連する昭和近代史に関しては、
数多く乱読しているが、今回は省略する。

このような私の深情から、永井隆氏の御子息の永井誠一氏の至言、
《 日本の夏・八月は  六と九で十五だ  忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
確かにそうですよねぇ、と私は深く思い重ねながら、早や14年が過ぎている。

           

私は1944年〈昭和19年)9月下旬に、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は、私は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日は、 対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。

このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。

そして沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、そして9日の『長崎被爆』、
この後の15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、
私としては黙祷をして54
年目となっている・・。



こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも、深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
少なくともこうした日は、哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

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