夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

10年ひと昔(むかし)、過ぎし10年前の思いに、独り微苦笑して・・。

2025-02-20 12:05:39 | 傘寿からの思い

この後、10年前の頃は、どのように過ごしていたのだろうか・・、
と私は、このサイトに旅行、入院以外、原則として毎日、投稿してきたので、
2015年の2月下旬を開いたりした・・。

高倉健さんと無名な私は、ひとつ作品で結ばれていた、と微苦笑させられ・・。』、
と題して、2月22日投稿していた。

映画の世界は、リバイバル上映もあり、懐かしい自身の投稿文を、
読んだりした・・。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
一昨日に平素の買物を駅前で買い求めた後、本屋に寄ったりした。

そして店内で見かけた本を数秒眺めた後、買い求めたりした・・。
            

この本は昨年の晩秋に、映画俳優の高倉健(たかくら・けん)さんが死去され、
文藝春秋の文春ムック系として、長年に映画俳優として活躍され、功績を遺(の)された高倉健さんに、
追悼された本となっている。

そして各分野の著名の人たちが寄稿文を寄せられて、私は読みながら、
こうした面も高倉健さんの撮影現場、日常生活の一面の思いとしぐさ、ふるまいがあった、
と学びながら、微笑みを頂いたり、ときには微苦笑もさせられたりした・・。

私は無名の古き映画を愛するひとりであり、たまたま昨年の晩秋に高倉健が亡くなわれた、と知った時、
このサイトに昨年の11月18日に於いて、
『高倉健さんの訃報に接し、長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、ご冥福を・・。』
と題して投稿したいるが、あえて今回再公開する。

【・・私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
いつものように平素の買物、その後に散策した後、
ネットを立ち上げると、《 高倉健さん死去 83歳、》と見出しを見て、クリックしてしまった。

『スポーツ報知』が 11月18日(火)11時37分配信された記事に寄ると、
《・・高倉健さん死去 83歳、10日に悪性リンパ腫で
映画俳優の高倉健(たかくら・けん、本名・小田剛一)さんが、死去していたことが18日分かった。
10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。83歳。福岡県出身。

1931年に福岡県に生まれ、大学進学のために上京。
1955年、東映ニューフェイス2期生として入社した。
演技経験などは全くなかったが、翌1956年に映画「電光空手打ち」で主演デビューした。

映画スターとしての地位を確立したのは、1960年代に入って出演するようになった仁侠映画だった。
「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」などがシリーズ化され、大ヒット。
映画ファンは「健さん」と親しみを込めて呼ぶようになった。

テレビドラマなどにはほとんど出演せず、自らを「映画俳優」と呼ぶほど。
生涯の映画出演作は205本に及ぶ。
最後の作品は、2012年秋に公開された「あなたへ」(降旗康男監督)。(略)・・》
このような記事が報じられていた。
        

私は古き良き時代の映画愛好者のひとりなので、
東京オンリビックが開催された1964年(昭和39年)の頃から、映画界は衰退し、
その後も加速するように映画界は衰退するばかりであった。

こうした中で高倉健さんは、殆どテレビ劇に出演されず、
映画俳優として主演され続づけ、この長き映画界の烈風の中で、稀な男優であった。

映画はお金を払って鑑賞でき、高倉健さんは数多くの映画ファンを魅了させてきた人である。、

こうした中、映画の製作が激少する中、監督、脚本家、撮影、照明、美術などの数多くのスタッフは、
製作に携(たずさ)わることもでき、衰退する映画界の技術の伝承にも波及され、
高倉健さんは主演されるたびに貢献してきた人でもある。

こうしたことに敬意を重ねて、高倉健さんの訃報に接し、
長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、お疲れ様でした。
貴兄の功績は数多くの映画ファンに感動をさせ、今はひたすらご冥福を祈ります。

私は呆然とした中で、こうした言葉を心の中で呟(つぶや)いたりした。
       

私は1944年(昭和19年)に東京郊外で生を受けて、
小学3年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。

やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964年(昭和39年)の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970(昭和45)年にある民間会社に何とか中途入社し、
35年ばかり勤めて定年を迎えた身である。
          
このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966年(昭和41年)頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。

定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

しかしながら、2000年(平成12年)の頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。
       

高倉健さんの主演された『網走番外地』、『日本侠客伝』、『昭和残侠伝』などのシリーズ作品は、
私は何かと苦手であったので、5作品ぐらい鑑賞して程度であった。

この後、鑑賞してきたのは『幸福の黄色いハンカチ (1977年) 』、『八甲田山 (1977年) 』、『冬の華 (1978年) 』、
『遙かなる山の呼び声 (1980年)』、『駅 STATION (1981年)』、『海峡 (1982年)』、『南極物語 (1983年)』、
『居酒屋兆治 (1983年) 』、『夜叉 (1985年)』、『鉄道員(ぽっぽや) (1999年)』
『ホタル (2001年)』、『あなたへ (2012年)』

このくらいを思い浮かべたりしているので、私は高倉健さんの熱愛するファンには該当しない。

こうした作品の中のひとつに、降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)』がある。
               

この作品はオリンピックの射撃選手であり、警察官でもある一人の男が、
それぞれの事件を通して、彼の心を通り過ぎていく女性たちをくまなく描き、
人生の哀歓を圧倒的な筆力で、主演・高倉健に捧げたと伝説される脚本の倉本聰(くらもと・そう)さんの作品でもある。

私が鑑賞してきた邦画の少なくとも5000作品の中で、最も好きな作品で、
監督の降旗康男、主演・高倉健、そして脚本・倉本聰のトリオの英知が発露された作品となり、
降旗康男、高倉健、倉本聰さんの各作品を鑑賞してきた中で、最も優れた作品と絶賛するひとりである。

この作品のファースト・シーンは、国鉄時代の1968年の北海道の『銭函』駅が駅舎が表われ、
そしてホームの情景となる中、
警察官の英次(高倉健)は雪の降り続くホームで、妻の直子(いしだあゆみ)と、四歳になる息子義高に別れを告げた。
やむなく離婚を承諾した直子は、動き出した汽車の中で、英次に笑って敬礼するが、その目には涙が溢れていた。

このファースト・シーンひとつでも、人生の哀歓、愛惜を描き、
感動を超えて感銘させられる名シーンである・・。

私は感銘させられて、後日に単行本となったシナリオを買い求めて、幾たびか精読した。

私は高倉健さんに関して、この『駅 STATION』(1981年)』は突出した作品と確信を深めているので、
今宵は高倉健さんのご冥福を重ねながら、居間で鑑賞する予定である。

余談であるが、高倉健さんが綴られた『あなたに褒められたくて』(集英社)、『旅の途中で』(新潮社)、
過ぎ去り年に買い求めて、 高倉健さんに好感を増したひとりである。・・】

このように投稿していた。

そして当日の11月18日の夜のひとときに、居間で、
私が絶賛してきた降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)』を鑑賞したりした。

翌日の夜は、森谷司郎・監督の『八甲田山 (1977年) 』を鑑賞し、哀悼を重ねたりした。

まもなく高倉健さんに関しのテレビのニュース、新聞、雑誌などで記事を読んだりする中で、
高倉健さんは名優のロバート・デ・ニーロを好感している、と知ったりした。

私は敬愛している俳優の中で、突出した人はション・コネリーとロバート・デ・ニーロであったので、
高倉健さんがロバート・デ・ニーロの出演された作品で好感を深めたのは、
『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年) かしら、と思ったりした・・。
                 

私は拙(つたな)いなりの観賞歴であるが、過ぎし年に私はベストテンを勝手に選定している。

映画専門雑誌の名高い『キネマ旬報』の1999年10月上旬特別号 として、
『映画人が選んだオールタイム・ベスト100の外国映画編』を購読し、
私なりに喚起させられて、まもなく選定した私の洋画のベストテンである。

『キネマ旬報』のベストテン《参考》1999年10月上旬特別号
               
①『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)

②『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック 監督(1968年)

③『ローマの休日』ウィリアム・ワイラー監督 (1953年)

④『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)

⑤『風と共に去りぬ』ヴィクター・フレミング監督(1939年)

⑥『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)

⑦『駅馬車』ジョン・フォード監督(1939年)

⑦『禁じられた遊び』ルネ・クレマン監督(1952年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑦『道』フェデリコ・フェリーニ監督(1954年)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)

②『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年)

③『イングリュシュ・ペイシェント』アンソニー・ミンゲラ監督(1979年)

④『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン監督(1993年)

⑤『かくも長き不在』アンリ・コルピ監督(1961年)

⑥『街の灯』チャールズ・チャップリン監督(1931年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑧『自転車泥棒』ヴィットリオ・デ・シーカ監督(1948年)

⑨『ジョニーは戦場へ行った』ドルトン・トランボ監督(1973年)

⑩『逢びき』 デイヴィッド・リーン監督(1945年)

数多(あまた)の感動をもたらしてくれた作品の中より選定するのが、
もとより酷な作業で、『時』が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

尚、選定の際に於いて、 『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)、
『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)、『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)、
『許されざる』クリント・イーストウッド監督(1992年) 、『カサブランカ』マイケル・カーチス監督(1943年)等は
最後まで検討した作品です。

《1999年9月29日、私の日記より》

小説、映画、音楽などの選定の結果、その人の性格、人格、思想を表わす、と改めて思った次第です。


この後も、キネマ旬報』の1999年10月下旬特別号として、
『映画人が選んだオールタイム・ベスト100の日本映画編』を購読し、
私なりに喚起させられて、まもなく選定した私の邦画のベストテンである。

『キネマ旬報』ベストテン《参考》1999年10月下旬特別号
               
①『七人の侍』黒澤 明・監督(1954年)

②『浮雲』成瀬巳喜男・監督(1955年)

③『飢餓海峡』内田吐夢・監督(1964年)

③『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)

⑤『幕末太陽傳』川島雄三・監督(1957年)

⑤『羅生門』黒澤 明・監督(1950年)

⑦『赤い殺意』今井昌平・監督(1964年)

⑧『仁義なき戦い』シリーズ 深作欽二・監督(1973~74年)

⑧『二十四の瞳』木下恵介・監督(1954年)

⑩『雨月物語』溝口健二・監督(1953年)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『駅 STATION』降旗康男 ・監督(1981年)

②『用心棒』黒澤 明・監督(1961年)

③『人間の條件(全六部作)』小林正樹・監督(1959~61年)

④『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)

⑤『七人の侍』黒澤 明・監督(1954年)

⑥『浮雲』成瀬巳喜男・監督(1955年)

⑦『雨月物語』溝口健二・監督(1953年)

⑧『飢餓海峡』内田吐夢・監督(1964年)

⑨『切腹』小林正樹・監督(1962年)

⑩『砂の器』野村芳太郎 ・監督(1974年)


洋画と同様に、【時】が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

《2003年8月16日、私の日記より》

こうした選定作業の時、その人の人生を歩いてきた思考の全てが反映する、と改めて感じました。

このように当時の私は選定しましたが、邦画に関しては、ここ数年は、
小学5年生の時に、独りで映画館で観た『楢山節考』木下恵介・監督(1958年)が、
私のベストワンだ、と思い返したりしている。

このような投稿文をしたことがあったりした。
       

そして今回の文春ムック系の『高倉健』を読んでいる中、
脚本家の中村努さん(『夜叉』、『あ・うん』)が寄稿文され、
《・・高倉健はロバート・デ・ニーロの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』が好きだった・・》
と私は初めて知り、驚きながら動顛したりした・・。

私が昨年の12月頃、高倉健さんがロバート・デ・ニーロの出演された作品で好感を深めたのは、
『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年) かしら、と思い深めたりしていたが、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)だった、と知り、
そうでしたか・・、と深夜一時間半ばかり思い馳せたりした・・。

やがて私は少し高倉健さんの思考が解りかけてきたので、
ロバート・デ・ニーロの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』がお好きになられたは、解ります、
と私は心中で呟(つぶや)いたりした・・。

そして私が鑑賞してきた中で、1999年の当時の洋画の歴代一位は、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)であり、
邦画の歴代一位は、『駅 STATION』降旗康男 ・監督(1981年)としている。

こうした作品であり、もとより『駅 STATION』は、高倉健さんが主演されて、絶賛された方も多く、
私が選定した洋画、邦画の2作品を思い浮かべたりして、
高倉健さんと無名な私は、ひとつ作品で結ばれていた、と深夜2時過ぎに微苦笑させられたりした・・。

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このように、過ぎし10年前に投稿していたので、
余り10年前とは変らないなぁ・・と
私は微苦笑したりしている・・。


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